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第十五話 家族 その1

 その男の人生は、いつも後悔に足を引っ張られ、いつも、一足遅かった。


 それは初めから、生涯をかけて救おうとした少女との出会いから、ずっとずっとそうだった。


 男が少女を救おうとした時、男はもうすでに十分に幸福で、少女は底無しに不幸だった。初めの初めから、男はもう出遅れていたのだ。


 けれど、それで歩みを止めず、追いつき巻き返せるように走り出したから、最後の最後で後悔を超え、男はその先へ足掻くことが出来たのだろう。



※※※※※※



 かの少女、三司澄希が人間へと戻って幸福に生きていた頃、まだ少年だった男は少女と時折関わりながらも、遠くに離れて生きていた。


 人間に戻ったきっかけを知らなかった少年は、その回帰を少女の自己治癒と信じ、結局何一つできなかった自分を無力だと罰して、それでも何かができるかもと、視線の端の遥かな先の少女を眺めながら、日々を静かに過ごし続けた。


 ただ、少年はその何かが永遠に来ないことを望んでいた。元より少年は少女に幸福になってほしかったのであって、自分が幸福にするつもりなんてなかった。


 やっと自由を取り戻した少女を、自分の価値観からの幸福で縛り付ける権利など、何一つないのだと思っていたから。


 会った時には表情なんてなくて、その後もただ張り付けているだけだった少女が、自分の感じたままの感情を乗せ、屈託なく笑えている。ずっと見ていたからこそ、少年はそれだけで良かった。それだけで、良かったのだ。


 だからこそ、そんな彼が、全てを失くした少女を目にしてどう思ったかなんて、言うまでもなかった。



 少年がその話を知ったのは、事件が起きてからしばらく経った頃だった。少女から一歩、二歩と身を引いていた彼は、その分たどり着くのが遅かった。


『どうして』


 少年は、何度もそう叫んだ。


 いようと思えばいくらでも傍にいれたはずなのに、そんな関係だったはずなのに、どうして一番肝心な時に、自分は近くにいなかったのか。


 役に立たなかったと悔んでいたはずなのに、今度こそ役に立とうと決めていたのに、どうして同じことを繰り返してしまったのか。



 答えなら、わかっている。自分は負けてしまった。幸福で。ありきたりで。平凡で。そんな、あまりに普通な自分に。


 救いたい人一人救えるほどの力すらない、数いる誰かの一人でしかなかった自分という存在に、打ちひしがれてしまったから。


 だから、この足は上手く動かない。竦んで、震えて、動かない。当たり前に届く一歩に、十歩も二十歩もかかっている。


 幼心の気紛れだったとしても、現実を知らなかったのだとしても、確かにあの瞬間、あの時の自分には、目の前の誰かを救う勇気があった筈なのに。


 今の自分は、誰かの視線や誰かの声が、ただたまらなく恐ろしい。世間を、人間を知っているせいで、それらと相反することがどれ程のことかを理解しているから。


 ああ、そうさ。自分は自分が傷つき苦しむのが、怖くて怖くて仕方がないんだ。焼け焦げるのが分かっているのに、燃え盛る炎に飛び込むなんて出来るわけがないじゃないか。


 自分は普通だ。特別な強さなんて、何一つ持ってない。がむしゃらに救おうとしたところで、そのための手札なんてなにも持ってない。


 それどころか、きっと自分は自分すら守れずに、ただただ焼かれて終わるだろう。そんな結果になるくらいなら、自分を守って生きた方が、ずっとずっとましじゃないか。



 だから、自分は……。


 自分は……。


 自分は……。


 自分、は……。



 自分はそれで、これからも普通に生きられるのだろうか。



 

 それは、初夏の頃のことだった。


 少年は、一輪の花を見た。


 それは、純白の百合の花で、空いた席の机の上に花瓶に生けられ置かれていて、少し離れた席では何人かの女子が、時折その光景を見ながら、ニヤニヤと満足げに笑っていた。


 どこか萎びたその白百合は、熱を孕み始めた風に揺れながら、背丈の低い花瓶の中で生きていた。


 どうしてここに自分がいるのかもわからないまま、死んでいないというただそれだけの為に、ひたすら必死に生きていた。


 そんな百合が、どんな意図を持ってその席に置かれたのか。物言わぬ花に、その人々は何を意味させたかったのか。少年は、言われるまでもなく理解してしまった。


 白は時に、清く美しい祝福の意味を持っている。白百合は、まさしくその代表例の一つだ。ただ、それが一輪となると話は違う。


 自然で無垢なその唯一の美しさは、同じく世界にたった一人しかいなかった誰かを、心から弔う為にある。


 そう、本来なら。


 弔いの意を持つその花には、清々(すがすが)しいまでの悪意があった。それを供えた者達は、行為の意味を理解した上で、花を生者に、学校から居なくなってしまったあの少女に捧げたのだ。


 弔いという死者への最大の敬意を使って、奴らは生きている彼女の尊厳を極限まで踏みにじったのだ。



 許されて良いはずがない。


 赦されて良いはずがない。


 ゆるされていいはずがない。


 ユルサレテイイハズガナイ


 ソレダケハ、ユルサレテイイハズガナイ



 少年は、自身が認めた通り、どこにでもいるような誰かの一人だった。感情を理性と世間体に押さえつけられる、臆病な人間であった。


 けれど少年は、自分でもまだ気付いていない、少年だけの唯一のものを持っていた。


 幼い頃に出会い、今までずっと側にいたあの少女。自身よりも幸福になってほしいとすら願える少女。



 そんな彼女を、少年は、愛していた。



『だから』


 普通なんてどうでもいい、自身が特別でなくていい。


 大勢の歩いた道を進めなくても、誰一人味方がいなくなるのだとしても。


 一番大切なものを守れるのならば、それだけでいい。


 この愚かな激情が彼女のためになるならば、喜んで捧げよう。


 自分のこれまでとこれからを犠牲に彼女に味方できるのだとしたら、後悔することしかできなかった自分にとって、これ以上ない罪滅ぼしだ。



 ※※※※※※



 しばらくして、飾られていた白百合が枯れ果ててその形すらなくした頃、学校で表立って少女の噂をするものがいなくなった。当人が消えてしまったのも、理由の一つではあっただろう。ただ、それ以上に影響を及ぼしたのは、一人の愚かしい厄介者だった。


 自分自身の保身と恐怖で生まれた無自覚で臆病な加害者たちは、目に見えぬ可能性に怯えていた。


 気勢に乗じて自らを正義とした尊大で盲目な加害者たちは、その絶対的な立場にふんぞり返っていた。


 そして、全ての根源である悪意に染まり腐りきった首謀者たちは、誰も脅かすことのない自身の正当性に酔い、その心地よさに浸かり続けていた。



 そんな、既に全てが決した状況を覆したのが、水野勇樹という男だった。


 数いる大衆の一人でしかなかった男に力はなく、正義もなく、その行為に背中を押すものは誰もいなかった。けれど、それでも男は、自分の守りたいものの為に、勝ち目のない喧嘩の宣戦布告を真正面から行った。


 一人の少女の小さな拳の暴力から始まり、言葉と精神の暴力によって肥大化した事態は、たった一人の男の抗いの暴力によって転換を迎えたのだ。



 初めに、男は少女が一度振りあげた拳を再び最後まで振りぬいた。宣誓の言葉は何一つなく、ただ理不尽な暴力で、首謀者たちに襲い掛かった。


 突然現れた反抗者に恐れた首謀者たちは、すぐさま反撃を行った。その手段はかつて少女を追い詰めたように、男を孤独へと追い詰める事だったが、既に全てを敵に回す覚悟をした男には、何より無意味な行為だった。


 その時に利用された尊大な愚者たちは、後ろ盾にしていた首謀者たちへの恐怖と有無を言わさぬ理不尽な反抗者への恐怖に挟まれ、最後にはどちらにも押しつぶされた挙句、立場ごと全てを失った。


 その様を傍観していた臆病者の加害者は、自分がそうならぬように次々と手を引いていき、自分たちは何者でもないのだと何より傲慢な主張を続けながら、束縛の中の自由を謳歌した。


 そして、それによって追い詰められた首謀者たちが最後に行ったのは、自分達の立場を利用したもっとも純粋な暴力による制裁だった。



 時は過ぎ、いつしか不良と呼ばれるようになった男は、首謀者の息のかかった同じくそう呼ばれた者達との喧嘩に明け暮れた。


 抗う日々の中で生傷は絶えず、心身は幾度となく痛んだ。けれど、男はめげず、負けを認めず、終わることのないそんな日々をひたすらに過ごし続けた。


 男にとって、その日々は清算だった。いつかは治る身体の傷の痛みなど、かつてあの少女が受けてきたものに比べれば痛みと呼ぶことすら烏滸おこがましい。どれだけ苦しんだとしても、あの少女の苦しみには届かない。


 だからこそ、どうにかできる立場にいながら自己保身で何もできなかった自分に、苦しいと泣き痛いと叫び、諦めることなど許されない。


 それこそが、傍観者であり加害者で会ってしまった自分が罪を償える、唯一の方法なのだと思っていたから。




 そうして、更に時は過ぎ、気づけば夏も終わろうとしていた頃の事。



 償いをしていたはずの男は、更にもう一度、後悔をしていた。

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