第十四話 祈りの果て、本当の願い その7
何気ない、穏やかな日々が過ぎた。その中で、少女はすっかり立ち直ったように感情を抱いて、数多いる人間と変わらない様に生きていた。時雨家での生活にもすっかり慣れて、家人とも仲睦まじく、まるで最初から家族だったかのようにすら思えるほどだった。
それは、まさしく普通の日々。それ以上のものはあるかもしれないけど、少なくともこのままで満足していられるような、幸福な日々のはずなのに。
カラカラ、と、音が鳴る。息を吸って、吐き出して。ただ、人間として生きるたびに、体の中から音が鳴る。それが血と肉と骨で出来た伽藍洞の、あまりに精巧な人形の中に残っている何かが転がって鳴る音だと知っていたのは、持ち主である少女だけだった。
本物のはずの日常が、虚構に満ち溢れているように感じられた。この家の一部になったはずなのに、どうしてかいつまでも心には寂しさが満ちていて、内にいるはずなのに、ひどく疎外感があって。
その理由は、その家の中で、少女だけが家族ではなかったから。
少し前なら、きっと今も満たされていただろう。だって、自分は全てを失ったのだと思ってのいたのだ。けれど、それはあまりにも愚かな間違いだった。一番欲しかったものは、とっくの昔に失くしていたのだから。
妹に求められたと滑稽に喜んでいたあの日から、ずっと間違い続けていた。必要にされたかった、されたかったけど、誰でもいいわけじゃなかった。それでも選んでしまったのは、本望が叶わぬ願いだと分かっていたからだろう。
苦しかった。期待に答えなければと無意識に思い込まされて過ごす幼い日々は、今と比べれば何百倍も苦しかった。けど、それと同じくらいに、必死に生きたその日々には価値があった。だって、確かにその時少女は、彼らの娘だった。
それを思い出した時、少女はこの場所を、もう居場所だとは思えなかった。
ある朝、少女は誰にも何も言わず、時雨家を飛び出した。空いた腹で、行く当てなどなく、それでも、虚構ばかりの希望を持って。根拠など何一つないけれど、今この時この瞬間でなければ、もう二度と救われない気がしたから。
けれど、疎外感から安寧を捨てた先に待っていたのは、未だ燃え続けていた炎だった。
熱を帯びた風が肌を撫でると、消えたはずの火傷跡がちりちりと焦げはじめ、それと同時に、忘れていたものが、痛みをもって少女に襲い掛かってきた。
手足は震え、体は強張り、肺は何とか生き延びようと、灼熱の空気を荒々しく取り込む。そうして突然に極度の恐怖へと放り込まれた少女の脳が導き出した結論は、ただただ愚直な逃避だった。
走って、走って、震えと緊張で時折転びそうになりながら、少女は、それでもひたすらに走り続けた。お前の居場所などもうないのだというように迫り、足を上げるそばから跡を焼き尽くす炎から逃れるために。
それから、暫くして。少女がやっと立ち止まったのは、家々も田畑も通り過ぎて、見知った光景など何もない町外れの山近い荒れ道だった。人の気配など無く、ただ自然の音と少女の呼吸音だけが響くその場所に、業火は、まだ無かった。
少女がその場所を知らぬように、その場所も、少女の事を知らない。権力者の娘を殴り、おびただしい程の悪評にさらされた少女のことなど、何一つとして知らなかった。
息が落ち着いてきた頃、ほぅ、と大きく一つ息をついた少女は、未だ少しの怯えを抱えながら顔を上げ、辺りを見回した。すぐそばには、家から遠く見える山の木々が無感情に生い茂り、その中から、騒々しい蝉時雨が響いている。青々とした光景の中に虚構の炎は無く、異物は、少女だけだった。
安堵こそないものの、気づけば恐怖は消えうせて、妙な冷静さが頭に渦巻く中、少女は、ゆっくりと歩き始めた。
見知らぬ場所だというのに不思議と不安感は無く、むしろ、先へ進みたいという漠然とした願望が浮かぶ。そうして奥へ奥へ歩いていくと、少女の前に、大きな林が現れた。
それらは、まるでトンネルのようにぽっかりと先の見えない入り口を開けて、ただ静かに佇んでいた。足元を見ると、これまで歩んできた荒土の道は、その先へと、少女を誘うように続いている。
少女は、僅かに躊躇いを覚えた。先の見えない事への不安か、或いは、不気味さ故の恐怖か。そうして、どうしようかと少女が思考していた、その時。
強い風が吹いた。夏なのにひどく冷たく、叩きつけるようなその風に、思わず目を閉じる。それから、数秒後。暖かさが戻ったのを感じて目を開けると、そこには、黒い影があった。
少女より少しだけ大きなその影は、何をするでもなく、ただただ少女の眼前に立っていた。理解できないものに対する驚きで少女が何も出来ずにいると、
――ごぅ
低い風音と共に影は、少女へと吹き抜けた。
初めは、暖かな熱が。その次は、凍えるほどの冷たさが。それから、ぬるさと、柔らかな高揚の後に、灼熱が襲い掛かってきた。そして、最後に感じたのは、体中を包み込むような、心地よいぬくもりだった。
それら全てが吹き去った少女に残っていたのは、最後に感じたぬくもりをもう一度味わいたいという、小さい、けれど清らかな望みだった。
そして、そのぬくもりがどうしてかその先にあるように感じた少女は、今度は一切躊躇うことなく、林の中へと進み入った。
葉で日光が遮られた薄暗い道を歩いて、数分が経った頃、林の中にぽっかりと開いたその場所は姿を現した。
柔らかな光が差し込むその空間は、満ち満ちたぬくもりと明るさで少女を出迎え歓迎するように木の葉を揺らす木々に囲まれていて、安らぎが閉じ込められたかのような静けさがあった。そして、なにより。その場所は、何処か少女を受け入れているような気がして、例えるならばそれは、存在全てを許された、唯一の居場所のようで。
『……あれ?』
そう思った途端、少女の身体が、ぐらりと揺れた。バランスを崩した体を支えるように足は後ろによろよろと歩みを進め、やがて、それでも堪えきれなくなったのか、とすんと、少女はしりもちをついた。
背中に固い感触を感じて振り向くと、気づけば少女は、木の幹にその背を預けていた。立ち上がろうとも考えたが、特に理由もなかったため、少女はそのままその木に身をゆだねた。
自分で支えていた重さを全て預けると、脱力と共に、開放感が体中に満ちた。すると、それを待っていたかのように瞼が少しづつ落ち始め、同時に、先ほどの揺れが疲労と眠気から来たのだと察した少女は、それを言い訳にして、抗うことなく瞼を閉じる。そうして、暖かな安寧に満ちたその場所で、少女は静かに、眠りについた。
穏やかな眠りの中で、少女は、久しぶりに夢を見た。
それは、ごく普通の、暖かさと幸福に満ちた、ある家族の少女の夢だった。
親が信頼出来て、人に好かれて、何気ないことを楽しめて、些細なことでも笑えて、そんなことを語り合える友達がいる。
そんな、素敵な世界で生きる、一人の少女の夢だった。
自分は、きっともう二度と生きることのできない、幸せな人生。
送りたかった、本当の人生。
でも、家族はもういない。友達だって、もういない。
もう、何も楽しくない。笑えるほどの幸せなんて、自分には、一つだって残っていない。
ああ、でも、もしかしたら。
自分の事を何一つ知らず、ごく普通に仲良く出来て。
家族か、或いは友達か。関係は、何でもいいけれど。
とにかく、そんな誰かと出会えたなら。出会えるなら。
『……出会えたら、私は』
――――もしかしたら、救われるかもしれない。
ある、穏やかな夏の日、一人の少女は、そう願った。




