第十四話 祈りの果て、本当の願い その6
多くの無関心の中で、誰かは自分を好いてくれる人がいるように、誰かは自分を嫌っている人がいる。それを、彼女は誰よりも理解していた。ただ、それでも彼女が理想を貫けたのは、他者の悪意に嫌悪を抱く心と人格そのものが無かったからだ。
けれど、人に戻った彼女には、ごく当たり前の感情が備わっていた。だから、
『親に見捨てられた、屑のくせに』
何よりも強固だったはずの理性の壁を打ち砕く、人間の激情は爆発した。
後になって残っていたのは、自分の知りもしない奥底から噴き出した、醜い程の怒りと拒絶の残滓。爽快は無く、固い骨肉を殴った感触と、剥き出しになった過去の痛みだけが皮膚を伝っていた。
自分を労わる涙すら、声も出さずに流したはずなのに。あまりにも苦しかったあの日々にも、恨み言一つ叫ばなかったはずなのに。
目の前の人間がどれ程自分に悪意と敵意を持っていて、その行動にどんな意味が生じるかなんて、理性も、本能も知っていたというのに。ずっと前に封じてしまって、幼いままだった心だけは、最後まで先の未来を考えることは出来なかった。
その日から、少女の周りから次々と人が消え始めた。知人も友人も、誰もが等しく他人になり、挙句の果てには、明確な敵意と悪意を持つ者も現れていった。全てはあの一瞬、これまで少女が今を築き上げるため時間と比べれば砂の一粒にも満たないような間に起こしたあの出来事は、少女の日常の全てを破壊した。
どうしてかわからないと、少女はずっと言い続けた。どうして自分がこんな目に、どうしてこんなにも孤独なのかと虚構の無知を張り付けなければ、すぐにでも死にたくなってしまうから。
例え、どれだけ自分が他者の理想になろうとも、自我を持つ生命は結局、どこまでも利己的にしか生きる事が出来ない。この数週間で、少女はその事実をたらふく味わった。
彼らは、ただ自分達の幸福を失いたくなかっただけだ。目の前で燃え盛る炎に飛び込もうとする馬鹿なんて、誰一人いない。知ってか知らぬか、薪をくべる人々は数えきれぬ程いるのに、火を消して、醜く焼け爛れた手を取ってくれる人なんて、誰もいなかった。
初夏、少女の肌は、柔らかな温もりに包まれた。心を焼いた熱さではなく、芯からの善意が、静かにその身を抱いた。
かつてより遥かに大きな諦観に打ちひしがれ、無理やり殺してまで普段の日々を過ごしていた少女だったが、ある日、その心は何の前触れもなく砕け散った。
制服を着て、家を出て、けれど、学校には行かなかった。漠然と歩いて、歩いて、歩き続けて。日が暮れて、染み付いた習慣から町に戻ったが、本来もうとっくに居場所など無かったからか、家には帰らなかった。そうして、考えることも、生きることも忘れて一人彷徨っていた少女をたまたま見つけたのは、少女の血筋の本家の人間だった。
少女がどんな人生を送っていたのかは、親戚の誰もが知っていた。でも、あくまで知っているだけで、助けようとはしなかった。理由は、実に些細なもの。自分の人生に何の関係もない少女を助けるなど、面倒でしかなかったからだ。
なら、なぜその人は少女を救おうと思ったのか。それもまた、実に単純なことで、その人は、母親だったからだ。
『あなた、ウチで暮らしなさい』
その一言と共に、その人は少女の手を取って歩き始めた。少女はそれに抗う事もなく、手を引かれるがまま歩を進め、やがて辿り着いた、時雨と名の付くその家の一部屋が、少女の唯一の安息の地となった。
引く手を失った少女はどさりと倒れ込むと、何をするでもなく、そのまま眠りについた。それはきっと、今まで辺りで燃え続けていた何かがそこにはないのを理解したからだったのだろう。でも、肝心の少女の心身は、まだ灼け続けていた。
それまで目にしていた光景を、何度も何度も夢に見た。苦しみで限界を迎えるたびに目を覚まし、何もない現実なのだと理解しても怯え震え、恐怖が極限に達すると、気絶するように眠りにつく。暫くの間は、そんな日々が続いた。だが、薪を断たれた炎からは、徐々にその脅威は消えていった。
何も聞こえない部屋は軟膏に、誰一人干渉しない時間は包帯になって、静寂の中過ごす日々により、少女の熱傷は少しづつ少しづつ癒え始めた。起きて、時折運ばれる食事を口にして、ぼーっとして、寝る。そうして、訳もなくただ生きているための時間を繰り返していた。
ある日の事。食事を終え、いつものように扉の外へと食器を置こうとした時、少女の思考は、ほんの少しの気まぐれを起こした。
部屋を出て、階段を下り、廊下を歩いたその先にあったのは、何気ない普遍に満ちた、家族の日々だった。少女に気付くと、母と娘は屈託のない笑顔で出迎え、目の前の光景にぼーっとしている少女の手から食器を受け取ると、ありがとうと言って慣れた手つきで洗い始め、娘の方は、顔を見せた少女を珍しがってか、なにやらじいっと見つめていた。
少女は、呆気にとられた。一つは、ただ飯ぐらいを続けていた自分に対し、彼女たちが何も言わなかったこと。二つ目は、自分という異物をなんでもない日常であるかのように受け入れたこと。そして、三つめは。
『あなたは、何もしなくても大丈夫よ』
何かしようとするたびにその人はそう言って、幼子を扱うように頭を撫でた。その人は……その人も、自分を必要とはしなかった。同情してくれているのかもしれないけれど、それでも、家族でもない自分など邪魔でしかないだろうに。
かつての少女なら、そこで自分が必要とされない事に何故だと打ちひしがれていただろう。けれどその少女には、紛れもない自我があった。
『手伝います』
それは、自ら乞う言葉。求められた何かでなく、何かをしたい自分になる言葉。必要ではなかったとしても、それでも自分には何かができるのだという証明だった。
そうして、少女はその日から、時雨家の一部になった。
自分には、もう何もない。これまで築いてきた全ては灰と化し、見る影も無くなった。でも、今自分がいるこの場所には、確かに受け入れてくれる誰かがいて、彼女たちに報いられる自分がいる。なら、もうそれだけでいい。
染みついた才で好かれていっても、彼女達ならむしろ嬉しい。だって、温かいから。この家での好いて好かれる関係は、今まで築いた何よりも自由だから。だから、これからも、このままずっと……
『姉さん』
そう呼ばれて、少女の身体は硬直した。それは、気づけばもう随分と懐かしくなっていた、かつて希望を与えてくれた言葉で、幾重にも積み重なった灰の下に埋もれていた記憶だったから。
忘れていたわけではなかった。むしろ、ずっと覚えていた。あの純粋で透き通った尊敬と信頼を向けていた彼女は、長らく生きる意味だったのだから。ただ、ただ、それでも。その時だけは、聞きたくなかった。
『ごめん、ごめんね? こんな弱い姉さんで』
業火の中に身を投じ続けていたのは、全て彼女のためだった。人形だろうと、人間だろうと、彼女にとって少女は姉だった。そうだ、だから少女はぼろぼろの皮膚を人形で覆ってまで、苦しんでいたのだ。
けれど、結局のところ、少女は耐え切れなかった。どれだけ大切な存在だったかなんてわかりきっていたけれど、人間になった少女は、結局最後に、自分が人間としてありたくなってしまった。そう、少女の身も心も焼き尽くした彼らのように。
その日から、自由だった日々が、ひどく不自由になった。この家で彼女達と暮らす日々は幸せだったけれど、それら全てが、どうしようもなく何かが欠けているような気がした。
だから、少女は考えた。考えて、考えて、考えて考えて考えて、考えて考えて考えて考えて考えて、考えて。
『……ああ、そうか』
そうだ、本当は……本当はこの日々をあの家で彼女と。
妹と、両親と過ごしたかった。




