第十四話 祈りの果て、本当の願い その5
『こうしていれば、皆が私を必要としてくれるから』
にこやかに、明るく快活にそう話す少女を、彼は知らなかった。
自分に出来ることをやりつくしてもなお少女に何一つ希望を与えることが出来なかった彼は、どうすることもできないまま立ち尽くす日々を過ごしていた。気づけば足は向かうのを躊躇い、無力さが意志を鈍らせ、やりきれなさから自身への怒りを燻らせ続けるだけの時間が流れていった、そんなある日のことだった。
彼が目にしたのは、友人と見たことのない笑顔を浮かべながら談笑して歩く少女の姿だった。その姿は、これまで自分が悩んでいたこと全てが馬鹿らしく思えるほどに幸せそうで、彼が必死になって彼女に与えようとしていた普通そのものだった。
自分はいらなかった。彼女は、自分が思っている程に弱い存在ではなかった。自分のこれまでのことは、その全てが無駄でしかなかった。気づけばそんな事だけが、彼の脳内をぐるぐると回りながら埋め尽くしていて、同時に、それを徒労だと認めたくない心が働いて、やがて彼は、漠然とした意識のまま少女の後を付けていた。
けれど、その愚かな無意識は、はるかに残酷な真実を暴き出した。
それは、歩いて歩いて歩いて、少女と話す友人が誰一人としていなくなった、その時。カラン、と、何かが落っこちる音がした気がした彼は、茫漠としていた意識を取り戻し、音源の方に目を向けて、絶句した。
そこにあったのは、先ほどまで人として存在していたはずの少女の人形だった。人間と見間違うほどに良く出来たその人形は、呼吸をして、骨肉で体を成しているものの、本来あるはずの感情と呼べるものが、何一つとして無かった。呼ぶのならば、まさしく無というべきその表情が、少女の本当の顔だった。
『……三司?』
あまりにも、あまりにも信じがたくて、確かめようとその名前を呼ぶと、少女はゆっくりと振り向き、伽藍洞の黒い瞳で少年を見定めると、その何もない顔に笑顔を張り付けて、呼ばれた通りの自分になった。
どうしてそうも変わったのかと問いかけると、少女は彼と会わなくなってからの話を、嬉しそうに話し始めた。その話を聞く中で、彼はこれまで自分のしてきた行為が何の意味もなかった訳を知った。少女は、生きて救われたかったのではない、ただ、生きていい理由が欲しかったのだと。
ただ、それでも。
『……そんな、そんなの』
いや、むしろ。
『そんなの、そんなのっっ』
彼の中で燻っていた、自身に向けて焚いていた怒りは、少女をそうしたもの、少女を受け入れたもの、そしてなにより、
『そんなの、良いわけがないだろうっ!!』
その自己を捨てた在り方を選ばせてしまった、全てへと燃え広がった。
翌日から、少年は再び少女と関わり始めた。けれど、そのありようは以前とは真逆のもので、心が摩耗して骸のようになっていた少女は誰よりも明るい快活さと笑顔で接している一方で、少女を救おうと誰よりも情を燃やしていたはずの少年は、誰よりも少女に無関心になっていた。
いくら笑顔を向けても、いくら話を振っても少年はどこか曖昧で、友人として、好かれる人間として関わっているはずなのに、どうしてか少年はあまりにも冷ややかな態度のままで、それはまるで、そんなお前は必要ないとでも言っているようで、だがれでも少女とは関わり続ける彼のことを、少女は理解できなかった。
自身を必要とする人はいつまでも自身と関わり続け、必要としない人は、決して関わることはない。そんな二分化されていたはずの世界に、中間となる存在が現れた。一度は離れ、それでも再び関わり始めたはずなのに、その人は決して自身を必要としない。しないのに、どうしてか関係を絶つこともせず共に過ごしている。
わけがわからない。必要としないなら、自分に価値なんてないはずなのに。わけがわからない。いらないのなら、ぽいと捨ててしまえばいいだけなのに。
わからない、本当にわからない。あまりにもわからなかったから、少女は、少年に問いかけた。
『……ねえ、水野君。君は私が必要ないのに、どうして私と関わってるの?』
少年は、一瞬、驚いたようにして、けれど、すぐにその表情は無感情に、でも、ほんの少しだけ苦いような顔を滲ませながら、問いに答えた。
『俺は、お前を必要としてる、だからずっと関わってる。でも、必要なのはお前じゃないから、俺はお前を求めない』
返答が耳に届いても、少女は理解できなかった。だから、意味を確かめるために、もう一度問いかけようとした時、
『けど、一番の理由は、今もずっと苦しんでいるお前を見捨てられるほど、俺は臆病になれなかったから』
それだけ言うと、少年はそれ以上何も語らなかった。仕方なく、少女は言葉にされたそれらをヒントに何度も何度も考えてみた。けれどその日、結局少女の疑問の答えが出ることはなかった。
ただ、その日から少女の奥底で、ズキリと何かが痛み始めた。
家で両親や妹と顔を合わせたとき、通学路で町の人や友達と出会ったとき、学校でクラスメイトと過ごしているとき。
いつもと変わらない何気ない日々の中で、その痛みは何度も何度も繰り返し、日が経つごとにその強さを増していった。ただ、それでも少女はその痛みを治そうとはしなかった。無意識に、けれど確実に、その正体を理解していたから。
これを痛いと思ってはいけない、だってこれは、他でもない手に入れたこの現状を捨てることでしか解決できないから。
どれだけ痛くて苦しいとしても、今を失くしてしまったら何の意味もない。だってやっと、やっと手に入れることが出来た、自分がこの世界で生きていていい理由だから。
自分が人間として生きたところで、誰も必要とはしてくれない。でも、道具として生きていたら、いろんな人が存在を求めて、認めてくれる。いなくちゃだめだ、寂しい、辛い、生きててほしいと言ってくれる。もう役立たずでしかないはずの自分を、ずっと肯定してくれる。
だから、だから、だから。だから、だから、だから。だから、だから、だから。だから、だから、だから。だから、だから……。
――――ズキッ
……でも、それでも、やっぱり、辛い。
『……おい、三司っ、どうした!?』
いつも通り二人で帰路を辿っていると、突然、少年の慌てた声が聞こえた。
『どうしたって、何が?』
訳を尋ねると、少年は心配そうに、でも不思議そうにしながら。
『何がって、お前、急に泣き出したから』
そう言われて、目元を拭うと、少女の手は少し湿り気を帯びた。すると、それを自覚した途端、肌を撫でる何かが、静かに零れ落ち始めた。
どうしてこんなことになっているのかわからない。わからない、けれど。
止めどなく流れる雫が地面に落ちるたびに、自分の奥底でズキズキとし続けていた痛みが消えていく気がした。わけもは言わずにただ泣き続ける自分を、きっと心から心配してくれている眼前の彼の存在が、どうしようもなく嬉しかった。そんな彼に対して、いつものように笑顔を浮かべて、何の気もなしに大丈夫だということが出来なかった。
どうしてだろう、本当に、どうして……。
……………いや。ああ、そうだ。そうだった。
思えば、彼はずっと私をそう扱ってくれていた。
どうしてかなんて、初めからわかっていたんだ。
だって私は……三司澄希は、人間だ。
「そうしてその日、あの人は、人間になった。三司澄希という一人の人間として、自己を肯定できるようになった。積み重ねてきたこれまでこそ崩すことはなかったけれど、それでも、あの人は自分の人生を歩み出した」
「けれど、けれどね。人間になったとしても、あの人の根本の願いは、変わってはいなかった。変わっていなかったから、あの人は、耐えられなかったんだ」
それは、ある春の日の事。その日から、奇跡の物語の幕はあげられた。




