第十四話 祈りの果て、本当の願い その3
暗闇の中、粗雑に整えられただけの道を歩いていく。
足こそ動いているものの、それはただ引っ張られるからであって、下を向く私の思考は、どこへ向かっているのかなんて知りはしない。
伏せった視界に写り込むのは、夜目で僅かに見えるだけの景色と、先行く真那の手をぎゅっと握り続ける、私の手だけ。
けれど、それでも私が歩みを止めないのは、何の確証もないほんの僅かな希望に対して、今も尚、愚かしく縋りついているからだ。
「着いたよ、祈李君」
あの林から歩き続けて、何十分かがたった頃。そんな声が、私の耳に響いた。
そのまま歩きかけて、真那にぶつかりそうになった体を何とか保つと、私は言葉を受け顔を上げて、
「……え」
眼前に見える見慣れない一軒家に、思わず驚きの声を上げる。私は漠然と、時雨家へと向かっているのか思っていたけれど、どうにも違っていたらしい。と、そんなことを思っていると、
「祈李君」
再び真那に名前を呼ばれて家の方に向けていた視線を真那へと向けると、真那もまたこちらを見ていた。
月明かりもない暗がりに、夜目によって僅かにその顔が見える。そこにはいつもの軽薄さの代わりに、真剣で、けれどどこか、不安そうな表情があった。
「真那?」
その表情が気になって呼び返すと、真那はハッとしたようにしてから、決意するように一度目を瞑り、安心させるような笑みを浮かべ、そして、
「ごめん、呼んだのに。ちょっと、急に考え事しちゃってさ。とまあ、そういうわけだから、気にしないで」
「……それで、何?」
「ああ、うん。その、最後通告ってわけじゃないけど、あの人に会う前に一つ、聞いておこうと思ってね」
そう言って、コホンと一つ咳払いをすると、真剣な表情に戻った彼女は私に問いかけた。
「話を聞いたら、多分……いや、確実に君は、引き返すことはできなくなる。それは勿論希望を求めてっていう話もあるけど、何よりも大きいのは、君が過去を含めた自分自身に向き合わなければならなくなるという事だ。
だから、聞かせてほしい。希望に縋るだけではいられなくなった時、君は覚悟をもって、その先へ進むことが出来るかを」
言葉が耳に届くと同時に、私の足は脳に引きずられ、ほんの少しばかり後ずさる。
それはきっと、未だ失意に満たされたふりをしていた心のどこかで、そうなのではないかと思っていたからだろう。
死者の祈りによって起こる奇跡で叶えられる生者の願い。私の前に現れた少女の正体。その真相を知った今、私には一つだけ、分からないことがあった。
生の実感のない日々の中で、私は一体、“何を願っていたのだろうか”。
あの日、私は確かに彼女に救われ、未来を生きる希望を手に入れた。それは一人の人間として対等に扱われたいという、確かな願望があったからだ。
けれど、今になって考えると、それを叶えるためならば、その役目は、他の誰かでも良かったはずだ。
だというのに、奇跡は、他でもない澄希を選んだ。
母親は、私の人生をここまで縛った原因そのものであり、ただ悪意と苦しみだけが心を埋める日々の中で、憎しみすら抱いていた。
母親に関する物事の全てが嫌で、顔すら知りたくない程だった以上、私の望む救い人からは、もっとも離れていたはずだ。
例え今事実として、その母親であった少女に愚かしくも縋っていたとしても、それだけはあり得ないと、そう思う。
だからこそ、私は空虚な心の隅で怯えた。
私が私自身で思う願いよりも、更に根底。
思いという形にすらなっていないそれが、これまでの私の思考の全てを覆してしまうのではないかと。
祖父母の束縛から解放されたあの日から、私には、選択の自由があった。
祈李として、普通に生きる道があった。
あの中学の日の結末も、他の道があった。
なのに私は、ただその全てを受け入れるだけだった。
時雨家での日々も、中学の日々も、私は何をするでもなく、私はただただ生き続けた。
それしか生きる術を知らなかったと言ってしまえば、終わる話なのかもしれない。それだけの不幸を、私は確かに背負っているから。
でも、それは……。
目を瞑り俯いて、一つ息を吸う。すっかりぬるくなった空気が肺を満たしたのを感じてから、今度は、ゆっくりとそれを吐き出す。
その中には空気だけでなく、頭の中、心の中に溜まっていた何が混じっている。
内に残ったままでも良かったけれど、吐き出してみると、その分だけ、ほんの少し軽くなった。
そうして、詰まりものを吐き出した私の口からは、気付けば、言葉が出ていた。
「……会いたい。私は、あの人に、会いたい」
それは、今私の中に残された、ただ一つの希望。だから。
「そのために苦しむことがあるなら、私はそれでいい。そうじゃないと、私は多分、この先一生後悔するから」
頭はまだ俯いていて、決して前を向いて言えたわけじゃない。でも、それでも私の心は、確かに先を向いていた。
「……そっか、わかった」
真那は私の返答にそう返すと、眼前の家に向かって歩き始める。その玄関までの短い道を、私は、確かに自分の足で踏みしめた。
扉を開けると、外から見てわかっていはいたものの、照明はついておらず、先の見えない薄暗い廊下だけがあった。
その光景に少し不気味さを覚える私をよそに、真那は靴を脱ぎ、スタスタと奥の方へと歩いていく。
私も遅れぬように慌てて後を追うと、やがて、真那は一つの部屋へと入っていった。そして、私もその部屋に入ると、そこには真那の他にもう一人、久々に見た顔があった。
「久しぶりだね、祈李君」
常夜灯の明かりだけが照らす部屋の中、促されるままソファーに座った私に、友寄さんはいつもと変わらない優しげな笑顔で話しかける。
一年は一緒に過ごしていたはずなのに、たった二、三週間ぶりのその人は、どうしてか、初対面のような気がした。
「いやあ、もしかしたらとは思っていたけど、本当にここまで顔を合わせることが無いとは、流石に予想外だったよ」
はははと、若干冗談めかして友寄さんは笑う。けれど、その声に愉快さは込められておらず、むしろ、少し自嘲気味に聞こえる。
「まあ、それは別にいいんだけどね。この夏、君にはそれ以上に大切なことがあっただろうから――」
「――それって、澄希さんのこと、ですか?」
この夏、いや、これまでに何度も何度も聞いたその誤魔化す様な声を聴いて、思わず言葉を遮った。ここにいる時点で覚悟なんてできているというのに、まだ隠そうとするその姿勢が、どうしても気に入らなかったから。
けど、そんなつい出てしまった一歩は、無駄にはならなかった。
「……すまない、君から言わせるつもりは、なかった」
申し訳なさそうに言う友寄さんの顔に、先ほどまで浮かべていた笑みはなく、今まで一度も見たことのない、純粋な真剣さが浮かんでいた。
「どうして、あなたが知っているんですか。私のこの夏のことを」
「知っている、というのは少し違うね。正確には、初めから既に知っていた、が正しいかな」
「……どういうことですか?」
言葉の意図が分からない私が更に問うと、友寄さんはとうとうその重い口を開き、ずっと前から彼だけが知っていた真相について、語り始めた。
「……初めに言うと、この夏に起きた奇跡の物語は、これまでのどんな夏に起きた物よりも複雑で、それでいて大きなものだった。何せ、この奇跡は、“三人分の祈りが重なった結果”だったから」
「三人分って、私が幸せを望んだから、この奇跡が起こったんじゃ」
「うん、それは間違いじゃない。君も、奇跡を望んだ三人のうち一人だ。けれど、他にもう二人、三司澄希、そして、兄さん……水野勇樹の願いが、この誰も知らない物語を作り上げたんだよ」
それは、死者の名前。私が名前でしかその存在を知らない、私をこの世に送り出した人達。
他でもない、私の両親だった。




