第十四話 祈りの果て、本当の願い その1
――――コッ、コッ。コッ、コッ。
静かな和室に、律された古臭い機械仕掛けの音が鳴り響く。
その秒針が、過ぎるほどに落ち着いて時を刻んでいるのに対し、私の方は、ともすれば子供の方がまだましなほどにそわそわとしていた。
ふと、照明を明るく感じて外を見ると、少し前まで夕焼けに染まっていた空は、気づけば真っ暗になっていた。普段なら、今頃はもう既に夕飯の支度をしていた頃だろう。
おかずを作って、ご飯をよそって、準備し終えたら、皆でそろって食卓を囲んで。いただきますのあいさつと共に、ささやかな憩いのひと時が始まる。
それこそ、何の変わり映えもなかったけれど、それでも、その時間を皆で過ごせることが、私は何より幸せだった。そう、幸せだったからこそ、私はそれをあの子に、少しでも感じていて欲しかった。
あの人が他の誰でもなく、私を頼ってくれたあの日から、私は自分の生き方を定められたような気がした。かつて、彼女がどうして自分の家に居候しているのかも知らずに、姉が出来たみたいで嬉しいなんて思っていた自分を、どれだけ憎んだだろう。
あの優しい笑顔が、張り付けられた仮面なのだと気づけていれば、何かできていたんじゃないか。少しでも、あの人の事を救えていたんじゃないか。澄希さんも、祈李も、もっと幸せに生きれていたんじゃないかと、ずっと思っていた。
けれど、結局私は、また何もすることが出来なかった。あの葬式の日、私は祈李を引き取ると言えなかった。当時は遥を妊娠していて、自分の家族のこれからを考えるのに手一杯で、正直、心のどこかでは彼女たちを迷惑だとすら思っていた。
私は善人でいようとして、その実他の誰かと何一つ変わらなかった。私はどこまで行っても、普通の人間でしかなかった。
だから、あの時祈李を救えたことは、本当に、何よりも嬉しかった。
今度こそ、あの人に何もできなかった分まで、この娘には私があげられる限りの幸福をあげて、家族という名の、あの人も求めていた、何よりも心を許せる居場所を作ろうと思った。
そう、思っていた、はず、だったんだけどなあ………………。
「お母さん、大丈夫?」
隣から、そんな声が聞こえる。俯いていた顔を上げると、遥がずいぶんと心配そうな表情で、私の顔をのぞき込んでいた。
「……ん、ごめん、心配させちゃったわね」
私はそう言いながら、まだ心配そうにしている遥の頭を撫でる。もう随分と大きくなったのに、こういうところは変わらないなあと、改めて思う。
「もう夜になるけど、お腹空いてたりする?」
時間が時間なのが半分、普段通りに出来ていないのが半分でそう聞くと、遥は困ったような顔をして、
「それはまあ、空いてるけど。でも、その、まだ祈李が帰ってきてないし」
その、少しはぐらかす様な言い方に素直じゃないなあと思いながらも、祈李に対する確かな優しさを感じて、嬉しく思いながらも、同時に、私は申し訳なさを感じる。
遥も彼方も、祈李を連れてきたあの日から、家族の一人として、当たり前のように彼女を受け入れてくれた。
けれど、それはあくまで私がそうしなさいと教え続けていたからであって、本人の意志ではないのかもしれないと、時々思った。
無意識にも、意識的にも。二人には、私の願いと思いを刷り込んでしまった。
二人の母親という立場を利用して、二人の生き方に楔を打ち込んでしまったのではないかという考えが、何度も何度も、頭によぎった。
でも、それでも、私はそれをやめることが出来なかった。
――――あの日の、あの澄希さんの顔が、今でも頭に染み付いているから。
「それじゃあ、また明日ね」
何気ない言葉。だれが見てもわかるほどに苦しげなのに、それでも大丈夫だと振る舞って、優しく笑いかけながら言った言葉。
それが、私が聞いた、澄希さんの最後の言葉だった。
翌日、いつまでたっても起きてこない澄希さんの様子を見に部屋へ行くと、幼い祈李を、これでもかという程に抱きしめたまま、澄希さんは冷たくなっていた。
澄希さんの腕の中の祈李は、ただひたすらに静かに、安心しきった顔で寝息を立てていて。
初めは、澄希さんも同じように寝ているのだと思った。
けど、その顔があまり悲し気で。
声を掛けても、反応がなくて。
違和感を覚えて近付くと、その肺は、空気を取り込んでいなくて。
揺り起こそうと、手を、伸ばして。
肌に触れた時の、その芯から温度の消えたその冷たさは、今もずっと、指先に残っている。
あの人は、明日を生きようとしていた。
苦しかったはずなのに。安堵など、抱くこともできなかったはずなのに。
どうして、最後に娘を抱きしめたのか。
どうして、あんな顔をしていたのか。
それを理解したのは、私の心が少女でなくなり、その髄まで母親というものに生まれ変わってからだった。
子供。
この世で最も愛した人と、私の血の混ざった子供。
二人で求めたその最上の愛の結晶は、自分を含めた他の何よりも大切なものになった。
それがこの世に生まれ落ちたその瞬間から、何があっても守ろうと思った。誰よりも幸せになってほしいと思った。
例えそのせいで自らの身を削ったとしても、その子が幸せに生きれるなら、自分なんて、どうなっても構わなかった。
それを知ったから、私は、それほどまでの愛を、ほとんど知らぬまま生きることが、どれほど悲しい事なのかと考えた。
だから私は、自らの愛の結晶を使ってまでも、祈李にそれを与えたかった。
あの悲しげな眼が見ていた、我が子の背後にある幸せな未来を、私は少しでも現実のものにしたかった。
二年という短い歳月に与えられた愛がすり減って、虚構で満たされていたあの心を、あたたかさで満たしたかった。
かつて、無知な私が憧れを抱いたあの人によく似た少女の、心の底からの笑顔を見たかった。
だから、それが祈李を何よりも苦しめていたなんて、思ってすら、いなかった。
この夏、彼女が毎日のように出かけていた理由の真相を知って、私は、人生で最も後悔した。
確かに、私が“祈李を愛そうと思った”のは、あの人の娘だからだった。
でも、私が“祈李を愛した”のは、祈李が他でもない、私の家族になったからだった。
遥のように、彼方のように。例え血のつながりはなかったとしても、助けた動機は懺悔からだとしても、それでも私は親として、母親として、あの子を愛していた……つもりだった。
けれど、どうやらそれ自体が、そもそも間違っていたらしい。
私は結局、どこまでいってもあの子の親ではなく、澄希さんの代わりになろうとしていた誰かに他ならなかった。
そもそも、その認識の時点で、私はあの子をいつまでも澄希さんの娘としか見れていなかった。
親になっていたはずの私の心は、その実いつまでもあの少女時代の夏のままで、あの頃のやり直しを求め続けていた。
その時点で私は、あの子に何もしてあげられていなかった。
あの人のいない未来を生きるあの子を、あの人がいた過去に誰よりも縛り続けていたのは他でもない、誰よりも近くにいたはずの私だったのだ。
あの日、あの子を助け出した時点で、本来私の役目はもう終わっていた。
過去の楔は、とっくの昔に砕かれていなければならなかった。
だから、今更幾ら後悔しようとも、私に償いの機会はもう永遠に訪れない。
奇跡なんて、決して起きはしないんだ。
――――コッ、コッ。コッ、コッ。
時が、過ぎていく。
空虚な時が、過ぎていく。
なにもせず、ただ待つだけの時が過ぎていく。
不安は尽きないし、今すぐにでもなにかをしたくてしょうがない。
でも、それでも私は、待ち続ける。
あの子が未来へ進んで、それでも過去を振り返ってくれる時、今度こそ、私の娘として愛せるように。




