第十三話 目覚め その4
「祈李君」
空が夕焼けへと移ろい始めた頃、薄暗い林の中程にある異空を訪れた私は一つ息を吸ってから、彼女の名前を呼ぶ。
声はきちんと聞こえたようで、先ほどまでじっと何処かを見続けていた彼女が、待ち望んでいたようにこちらを振り向くと、その昨日ぶりのとびきり喜ばしそうな笑顔が私の目に映った。
それから、ほんの少し、かみ砕くための間。そして、今現在の状況を飲み込んだであろう彼女の顔からみるみると明るさが消え失せる。
そして、ここまでなるかという困惑顔を代わりに浮かべると、一言。
「……なん、で」
訳が分からない、とでも言いたげな声色。それもそうだろう。彼女からすれば、ここはこれまで彼女だけが知っている安らぎの場であり、他に来る人物といえば、彼女の人生において唯一の友人だけだったのだから。
「なんでって、それはこっちの台詞だよ。君こそどうしたんだい? こんな何もないところに一人で」
“何もない”という言葉に、彼女はまた少し表情を歪ませる。どこまでかは知らないけれど、少なくともこれまでの日々の記憶は、いや、むしろ思い出したからこそ、彼女はこの場所に、ここにいるかもしれない誰かに、縋ったのか。
それはまた、随分と……。
「関係ないでしょ、あんたには」
やや怒気のこもった声が、静かに林に響き渡る。声の先を改めて見やると、先ほどまでの純心な混乱を捨て、見慣れたあの目付きをした彼女がそこに立っていた。
その目に諦観はない。そのかわり、以前より剝き出しになった敵意が怪物のように襲い掛かる。
知っていたつもりだったが、実際に真正面から向けられるとこうも苦しいものなのかと思いながらも、私は怯むことなく言葉を返す。
「関係ないって、ひどいなあ、こっちは君のことが心配で一日中探し回ったっていうのに」
「はあ? 探し回ったって、何でわざわざそんな事」
「何でも何も、昨日あれだけのことがあったっていうのに、朝君の部屋を訪れたら消えてたんだ。もしもを考えるのは当たり前じゃないか」
「……昨日?」
「そうだけど……もしかして覚えてないのかい?」
「それ、は…………知らない、なにも……なんにも、わかんない」
俯きながら、苦し気に彼女は呟く。その表情は、かつて出会ったあの老婆が最後に見せた顔にどこか似ていて、どうしてか、幼げに見える。
「わからないって……いや、確かにあれだけ錯乱していたんだから、そうなっていてもおかしくは無いか」
「錯乱って、私が?」
何の話だ、と言いたげな彼女に対し、私は昨日起こった事実だけを、淡々と告げる。
「昨日、君がいつまでたっても帰ってこなかったから、みんなで探したんだけど、見つかった時に、随分と酷い精神状態でさ。あんまり暴れるものだから、大人何人かがかりでやっと抑えて連れ帰ったんだよ」
私がそれを言い終えても、彼女は言葉を発さなかった。ただ、頭に手を置き、目をぎゅっと瞑りながら、必死に何かを思い出そうする。
けれど、結局なにも思い出せなかったようで、目を開けて手を下ろすと、縋るような目線と共に、私に問いかける。
「ねえ、昨日、さ。私、何してた?」
「そういうってことは、やっぱり、覚えてないのかい?」
そう問い返すと、彼女は少し俯きながら、ぽつぽつと、話し始めた。
「なんていうか、覚えてないわけじゃなくってさ、分からないんだよ。記憶が、なんか細切れみたいになってて、そのほんの少しの断片が、ちょっとずつだけおもいだせて。でも、全部を思い出そうとすると、またちりじりになってさ」
微かに、声が震えだす。
「でも、その時何を思ってたかっていうのは、なんとなく覚えてる。嬉しかったとか、楽しかったとか。でも、どうしてそう思ったかってのが、何一つわかんない。それこそ、あったはずのものが、抜け落ちたみたいでさ」
表情が、泣きだしそうになる。
「すごく、すごく嬉しくって、今までの人生の中で、一番楽しかった。なのに、そのはずなのに、肝心なことだけ、なんにもわかんないし、なんにも残ってない……それに、なによりさ」
そして、彼女は最後にそれを口にする。
「あの人の事が、名前が、何にも思い出せないんだよ」
悲痛な声が、耳に響く。
それは、本来私には届くはずのなかった言葉。告げられたのは、私を含めても、ほとんどの人が知りえない、彼女だけの救い人。
元々知りはしないのだから、打ち明けても無駄なこと。そんなことわかっているだろうに、それでも、彼女は私に言う。
零れてしまったたのだろう、溢れてしまったのだろう。
でも、それは仕方がない。例え記憶になかったとしても、その身体と心に刻まれたのものは、紛れのない真実なのだから。
だから彼女は、この場所に来た。この場所で、ただひたすらに待ち続けた。
情景だけの小説。役者のいない映画フィルム。そんな記憶を何度も何度も思い返して、そのたびに幸せだったと思い出して、その先がある、続きがあるはずという希望を絶やせぬままに。
その行く末を、もう私は知っている。未来を望むまま、永遠に過去に囚われるという結末を知っている。
―――ああ、そうだ、そうだとも。だから私が、ここに来た。
「祈李君」
名前を呼ぶと、彼女は少し顔を上げて、やや潤んでいるせいか、光を反射したキラキラとした目を私に向ける。
けれど、私の次の言葉を受け取ると、その目から、光は消えた。
「君は、いつまでその馬鹿げた幻想を見ているつもりだい?」
「………………え?」
「本当に、そんな理想的な幸福を手に入れたとでも思っていたのかい?」
「え、いや、何言って……」
「実際君の生い立ちやその後は世間一般から見れば実に不幸なものだったさ。けど、君はいつまでもそれだけじゃないか」
「それだけって、私はそれがなにより苦しくて……」
「じゃあ聞くけど、君はあの日の事件より後に、自身を救うために自分自身で何かを決断して行動したことはあったかい?」
「それはっ!……それは、それは……」
彼女はそれ以上言葉を発さず、その答えを言い淀む。けど、私はそれを許さない。逃げることを、許さない。
「言えないだろう? そりゃあそうだ、だって君は逃げてばっかりで、実際は何一つとして、そんなことしていないんだから」
「違う、そうじゃない、そんなわけない!」
「いいや違わないさ。君は自分を取り巻く周りにだけ変化を求めて、そのくせ自身は何一つとして変わろうとしなかった。いつまでもいつまでも、不幸な少女であろうとした」
「違う、違う違う違う違うっ!」
半ば、金切り声のような声が響く。
「あいつらが私をこうした、あいつらが私を追い詰めた、あいつらが私を、あいつらのせいで! 私は私だっただけなのに、ただ私として生きたかっただけなのに!」
諦めという栓を失った感情は、ただ無秩序に流れ出る。
「私は何も悪くなかったのに、何にもしてなかったのに! 親が、親が親がって、全部私には関係ない! 全部私の罪じゃないっつ!」
それは、ついに胸の内から出てしまった、彼女の最大の本音。
叶うことのない願いなのだと、自己を殺すほどにまでひた隠し続けた、三司祈李という少女の、剥き出しの心だ。
そして、それを聞いて一つ、私は確信する。
《《友寄さん》》、貴方の言った通りだった。綾音さんも、清美さんも、他の誰であろうとも、彼女を救うことは、何があってもできなかった。
そしてそれは、《《三司澄希にすら成しえない》》。
だからこそ今一度、他でもない私がこの場所に来た意味を思い返す。
彼女を救おうとした人に、罪悪を背負わせるわけにはいかない。けれど、伝承を知らない人は、真実を知ることはできない。まして、彼女を知らぬものに、彼女の人生を否定させられない。
そう、だから私だ。正直ここまででもうかなり苦しいけれど、それでも、私はやり遂げなければならない。
――それでしか、もう私は救われない。
誰よりも清らかな者になれないならば、誰よりも罪を認め、彼女を苦しめ、その憎しみの全てを背負おう。
そうして初めて、私の中の罪悪は形になって、一生で償えるのだから。




