第十三話 目覚め その2
風そよぐ夏空の下、一人の少女が歩いていた。
彼女の行き先は決まっている。だから、迷うことはない。
例えその内に理性も本能もなかったとしても、体躯に染みついた習慣が、彼女を前へと歩ませる。
彼女が終着へと進むその間にも太陽は容赦のない光を地上に浴びせ、肌を焼き、熱を与え、生きる気力を奪っていく。
けれど、その猛攻が彼女の思考に影響を及ぼすことはない。
それは苦痛を感じていないわけでも、認識していないわけでもなく、今彼女の心を満たしているのが、それすらも気にさせない程のものであるという、それだけの話だ。
※※※※※※
あるく、あるく、あるく。
ただ、あのばしょをめざしてあるく。
『あの場所って?』
わからない。いや、やっぱりわかるかもしれない。ああ、そうだ。あのはやしにいくんだ。
『そこに行ってどうするの?』
どうする、どうするって。あいにいくの。
『会うって、誰に?』
だれに? それはもちろん……あれ、だれに、だれに、だれに…………だれに?
『わからないの?』
わから、わか、わからないっ、んじゃない。わからないんじゃないっ!でも、でもでも、でも……。
『わからないんでしょう?』
ちがう、ちがうちがうちがうちがうチガウちgaうtiがう。
『……じゃあ、その人に会ったとして、何がしたいの?』
なにがしたい、なにがしたいは、なにもない。なにもないけど、なにかしたい。
『それに、何の意味があるの?』
いみ、いみ……。いみは、かんがえたことない。かんがえようともおもわない。でも、それでよかった。それだけでよかった。
『それだけで?』
うん、それだけで、それだけで。ああ、そうだ、それだけだったけど、わたしはずうっとてにはいらなかった。
しなないすべはわかっていたけど、いきるりゆうはしらなかった。
ふつうにいきてはいたけれど、ふつうがなにかはしらなかった。
ふこうとはおもってなかったけれど、ふこうだとはおもわなかった。
『幸せを知らないのが、きっと何よりの幸せだった』
ふつうがなにかをまなんだけれど、わたしはふつうのひとではなかった。
あいされてなかったとわかったけれど、あいがなにかはおそわらなかった。
いきるりゆうをしれたけれど、どういきるかはしらなかった。
『だからあの時、ああするしかなかった』
わたしがしあわせになることを、わたしいがいはつみといった。
じぶんでじぶんをすくったのに、わたしはなんにもすくわれなかった。
あくいにあらがったわたしのこころは、とっくにあくいでころされていた。
『でも、それでも、私は普通になりたかった』
すくってほしかったけど、たすけてほしいわけじゃなかった。
ふこうだったけれど、ふこうだとおもわれたくはなかった。
ははのむすめではあったけれど、ははのむすめではありたくなかった。
だから、わたしはうれしかった。
だから、わたしはたのしかった。
だから、わたしはたくさんないた。
だから、わたしはすなおになった。
……そうだ、だから私は、あの人と。
私を肯定してくれたあの人と、未来に向かっていこうと思った。
※※※※※※
一筋の、風が吹いた。
熱を孕みながら進むその風は、先へ行くたびにその熱さを大きくし、やがて、一人の背中へと辿り着く。
そして、その有り余るほどの熱さは、さらに大きな熱を宿した少女の歩みに糧を与え、それを燃料として、少女は確かな意志と共に駆けだした。
輝きを取り戻したその目に映るのは眼前の景色ではなく、幾度となくこの夏に訪れた場所。
その場所を目指して勢いを増すその足を動かすのは無意識の記憶ではなく、確かに心に刻まれていた未来への希望。
そして、心に刻まれたその未来への希望を輝かせるものは、彼女がこの人生において初めて手に入れた理解者との、何よりも美しく華やかな日々の記録であった。
一歩につき一つ、どうしてか忘れてしまっていた思い出が蘇っていく。
諦観が満たしていたのが嘘のように心が染まっていき、それまで生きてきた十数年の人生を全て塗り替えるような鮮烈で輝かしい静かな日々が、その美しさをもって彼女の世界を変えた。
あの木漏れ日が差す物静かな話の中だけが、あらゆる悪意と苦しみから彼女を解き放つ楽園であった。
あの【忘却】によって入り浸っていた孤独な世界は、何よりも穏やか時間を作り出す鍵であった。
そしてなにより、その楽園にて短くも長い日々をともに過ごした住人が、彼女の欲していた全てを彼女に与えた。
【忘却】さん、【忘却】さん、【忘却】さん、【忘却】さん、【忘却】さん!
心の中で、幾度も彼女の名を叫ぶ。
【忘却】さん、【忘却】さん、【忘却】さん、【忘却】さん、【忘却】さん!
忘れない、忘れない。忘れてしまっているはずがない。
【忘却】さん、【忘却】さん、【忘却】さん、【忘却】さん、【忘却】さん!
違和感を抱えながら、それでも彼女の元へ急ぐ。
【忘却】さん、【忘却】さん、【忘却】さん、【忘却】さん、【忘却】さん!
ひどく痛む頭を抱え、なおもその足は止まらない。
【忘却】さん、【忘却】さん、【忘却】さん、【忘却】さん、【忘却】さん!
思い出せないことそのものが異常なのだと、彼女は決して気づかない。
【忘却】さん、【忘却】さん、【忘却】さん、【忘却】さん、【忘却】さん!
そんなことは、約束された希望へと向かう彼女にとって何の問題でもない。
だから、彼女は走る。
夏の暑さも、心肺の苦しさも、原因不明の頭痛も、何もかもを無視して、安寧の地へと向かっていく。
確かな未来が、輝かしい未来があるのだと、ただひたすらに信じて、信じ込んで、それまでのように救われるのだと淡い期待を抱きながら。
そんな彼女を見ながら、自分は、思う。
ああ、本当に、
どうして自分たちは、彼女をこんな最も遠い所へ連れてきてしまったのだろう。
どうして、こんな運命を背負わせてしまったのだろう。
この感情を後悔と呼ぶことすら、自分には烏滸がましい。
何もできなかった、何もしてやれなかった。何一つ、残すことができなかった。
いつから歯車が狂って、こんな運命になってしまったのだろう
いや、分かっている、わかっているさ。
それが分かっているからこそ、後悔と呼びたくなるのだろう。
無い力をあるように振る舞い、暗闇しかないところに希望を見出したふりをして。
金に出来ない感情に繋がりを求めて、現実を忘れて捨て去って。
数あるはずだった道を自らの選択で塞ぎ続け、最後に残ったものすら断ち切ってしまって。
いくつもの悔恨を、いくつもの悪意を、いくつもの不幸を、残してしまった。
何度も何度も嘆いて、何度も何度も自らを怒り、憎み、蔑んで、それでも償えないものを彼女に背負わせてしまった。
君に、あの子に、自分は、何一つ幸福をあげることができなかった。
許されることではない。許してもらうべきことではない。
これは、永遠に償いを許されない咎であり、抱えていなければならないものだ。
……でも、それでも、自分に出来ることを、少しでも、やりたかった。
――――だから、祈る。
何もできなかった自分に、今、出来ることを。
何もできなかった彼らが、それを成してくれることを。
この先いくつも苦難が訪れる彼女に、祈李に、救いをもたらしてくれることを。
ただただ、ひたすらに祈り続けた。




