第1話:『嘘つきたちの朝』
第1話:『嘘つきたちの朝』
教室の窓から差し込む朝日は、驚くほど退屈で、ひどく平和だった。
黒板に書かれた数学の数式。
クラスメイトたちの他愛のない笑い声。
どこにでもある、ありふれた田舎の高校の風景。
――けれど、俺の制服の右袖の下には、昨夜の生々しい記憶が張り付いている。
無意識に右手を開閉し、手のひらの感覚を確かめる。
痛みはない。傷一つない、いつもの白くて細い人間の手のままだ。
だけど、昨夜あの暗闇の中で自分の右腕に起こった『異常』を思い出すだけで、胸の奥がドクンと熱を持った気がした。
「おはよー、斑目。お前、今日も眠そうだな」
「あ、うん。おはよう。ちょっと夜更かししちゃってさ」
声をかけてくれた席の近い男子に、俺――斑目亜樹は、いつもの冴えない転校生の笑みを貼り付ける。
ただ静かに、普通に暮らすはずだった。それなのに、昨夜の出来事のせいで、俺の予定はすべて狂ってしまった。
すべての始まりは、昨夜の、なんてことのない放課後だった。
この町の高校に転校してきてもう一カ月。
俺は学校の授業の進度にすっかり置いてけぼりを食らっていた。
静かに、目立たず、普通に暮らしたい。
その一心だけで、俺は放課後の図書室に居残り、一人で黙々と教科書と格闘していた。
ふと時計を見上げると、針はすでに夜の八時を回っていた。
すっかり人影の消えた校舎を後にし、街灯のまばらな夜道を一人で歩く。
空を見上げれば、都会では見られないような綺麗な星空が広がっていたが、それ以外は本当に何もない、退屈で平和な田舎の夜だった。
――その時だった。
ドクン、と胸の奥で心臓が跳ね上がった。
全力疾走でもしたかのように、唐突に心拍数が跳ね上がる。
それと同時に、周囲の空気がべっとりと肌に張り付くような、言葉にできない圧倒的に嫌な空気が押し寄せてきた。
「なんだ、これ……。息が、苦しい……」
冷や汗が背中を伝う。
不吉なんて言葉じゃ足りない。
まるで、この世界の理が歪んでいくような、悍ましいナニカがすぐ近くにいる。
呼吸を整えようと顔を上げた瞬間、俺は自分の目を疑った。
街灯に照らされた電柱のてっぺん。その細いコンクリートの足場を、一人の少女が、まるで重力を無視した猫のような軽やかさでジャンプし、駆け抜けていくのが見えた。
短い黒髪が夜風に躍る。切れ味の鋭い、涼しげな瞳。
制服のスカートをなびかせながら、手にしたナタのような物が街灯の明かりを少し反射させ印を鋭く結ぶその少女は、間違いなく俺の隣の席の、小金井紗夜さんだった。
「小金井……さん? なんであんなところに……」
心臓のバクバクとした高鳴りは止まらない。
あの嫌な空気の源は、彼女が追っている方向から放たれている。
普通なら逃げ出すべき不気味さだった。
だけど、俺の身体は本能的な警鐘に突き動かされるように、気づけば彼女の後を追って走り出していた。
彼女が跳躍し、着地したのは、道路の脇を流れる川のすぐ側だった。
ゴオオオオオッ! と、水面が爆発したように跳ね上がる。
川底のヘドロをそのまま引き剥がしたような、おぞましい巨体が姿を現した。
ゴミや排水の悪臭を撒き散らしながら、鎌首をもたげるそれは、全長十メートルはあろうかという、歪な泥の『龍』だった。
「ウ、オォォォオオオン……ッ!」
地響きのような咆哮。胸を締め付ける嫌な空気の正体は、間違いなくこの化け物だ。
普通の人間なら腰を抜かす大怪異を前に、小金井さんは空中で鋭く叫んだ。
「――急急如律令っ!」
彼女の指先から放たれた目に見えぬ衝撃――『祓詞』の波動が、龍の側頭部を直撃する。
だが、泥の巨体は微動だにせず、逆に太い尾が激しい風切り音を立てて小金井さんを襲った。
「くっ……!?」
空中で避ける術のない彼女の体が、まともに叩きつけられ、川沿いのコンクリートの地面へと激しく転がった。
「痛っ……あ、あぁ……」
制服を泥に汚し、小金井さんが必死に立ち上がろうとする。
だが、彼女の足は激しく震えていた。
そんな彼女を見下ろすように、泥の龍が大きく口を開ける。
その奥には、ヘドロにまみれた無数の牙がぎらついていた。
身体が、勝手に動いていた。
「おい、離れろっ!」
気がついた時には、俺は小金井さんと妖怪の間に飛び出していた。
「なっ……あなた、確か隣の席の――逃げて! あなたじゃ勝てっこないわ……!」
床に伏せた彼女が悲鳴のような声を上げる。
まだ俺の名前すら覚えていない彼女の、必死の焦燥。
けれど逃げられるわけがない。背中を向けば、二人まとめて噛み砕かれるだけだ。
俺は深く息を吸い込み、体内の奥深く、普段は厳重に鍵をかけている『化け物の力』を引きずり出した。
右腕へと一気に熱が流れ込む。
人間の許容量を超えたエネルギーに耐えかねて、皮膚が、肉が、骨が、どす黒く変色し、異形のものへと膨れ上がっていく。
「――っ、はあああああ!」
泥の龍が、俺を握り潰そうと巨大な顎を突き出してきた。
「オラァッ!」
迎撃の一拳。異形と化した俺の右拳が、龍の脳天へ向けて一直線に炸裂する。
ドガァァァァァンッ!
凄まじい衝撃波が夜の空気を引き裂いた。
圧倒的な質量を持っていたはずの泥の龍の頭部が、一撃で木っ端微塵に粉砕され、ヘドロの雨となって周囲に飛び散る。
そして――それと同時に、最悪の『代償』が訪れる。
パンッ、と肉の弾ける生々しい音が響いた。
中途半端に変異した代償で耐えきれず、俺の右腕は、肘の先から破裂するようにして、完全に吹き飛んだ。
ボタボタと地面に滴る鮮血。右腕のあった場所は、無惨な断面を晒している。
「あ……あ、ああぁ……っ!」
背後でそれを見ていた小金井さんが、喉を詰まらせた。
学校で見せるクールな面影なんてどこにもない、恐怖と絶望に染まった、ただの少女の悲鳴。
「あ、あなた、腕が……っ、私のせいで、そんな……!」
大粒の涙をボロボロと流しながら、彼女は俺の失われた右腕を見て狂ったように泣き叫ぶ。
だが、俺は慣れっこだった。
呼吸を一つ、整える。
ジュ、と肉の焼けるような音がした。
吹き飛んだ肘の断面から、肉の繊維と骨が目にも止まらぬ速さで、生き物のように蠢きながら急速に伸びていく。
――たった一秒。
血煙が晴れた時には、そこには昨夜と変わらない、傷一つない白くて細い人間の右腕が、元通りに再生していた。
「な……に、これ……」
涙を流したまま、呆然と俺の右腕を見つめる小金井さん。
俺は再生したばかりの手のひらをグーパーと動かし、いつもの冴えない転校生の笑みを作ってみせた。
「これ、人に言ったら怒られちゃうからさ。……内緒にしてくれると、助かるな」
ヘドロの雨が降る暗闇の中、俺と彼女の、絶対に誰にも言えない秘密が始まった。
ガララ、と教室の前のドアが開く。
その瞬間、騒がしかった教室が一瞬だけ静まり返った。
クラスの視線を集めながら入ってきたのは、小金井さん。
耳元できれいに切り揃えられた黒髪のショートカット。
切れ味の鋭い涼しげな瞳。いつもどこか他者を寄せ付けないクールな雰囲気を纏った彼女は、まさに学校中の憧れの的だった。
小金井さんは誰とも群れず、教室の窓際、俺のすぐ前の席へと向かって歩いてくる。
当然、俺とも目は合わせない。ただの偶然隣り合っただけの、関わりのないクラスメイト。
周囲の目には、そう映っているはずだった。
トン、と彼女が自分の席に鞄を置く。
その刹那、小金井さんの背中が、微かにビクリと震えたのが分かった。
彼女は前を向いたまま、机の下で、自分の右手をぎゅっと握りしめている。
お互いに背中を向けたまま、俺たちは息を潜める。
あの誰も知らない夜の出来事は、俺と彼女だけの――絶対に他人に明かせない『秘密』なのだから。
「――ねえ、斑目くん」
不意に、前の席から小さく、でもはっきりとした声が降ってきた。
小金井さんが、ゆっくりとこちらを振り返る。
いつもの冷徹とも言えるクールな仮面を被っているけれど、その猫のような瞳の奥は、今にも張り詰めそうなほど必死に揺れていた。
「日直の仕事、手伝ってくれないかしら」
一見、ただの事務的な頼み事。
けれどその声の震えが、「今すぐ昨日の話をさせなさい」という、彼女からの無言のサインだった。
「――いくわよ。ついてきて」
小金井さんは俺の返事を待つこともなく、短い黒髪を揺らして席を立った。
連れてこられたのは、校舎の最上階の奥にある、薄暗い資料準備室だった。
古い紙と埃の匂いが充満する部屋に足を踏み入れた瞬間、小金井さんは背後で静かにドアを閉め、鍵をカチャリと回した。
「小金井さん、ここは――」
「見せて」
振り返った彼女の瞳には、さっきまでの『クラスの憧れの美少女』の面影は微塵もなかった。
「……何を?」
「決まっているでしょう。あなたの、右腕よ」
小金井さんは躊躇なく距離を詰めると、俺の制服の右袖を強引に掴み、肘の上まで手荒く捲り上げた。
そこにあるのは、傷一つない健康的な高校生の肌だ。
「本当に、元通りなのね……。あんな無茶苦茶な戦い方をしておいて、傷一つないなんて。……あなた、一体何者なの?」
「何者って……ただの転校生だけど」
「嘘をつかないで。昨夜のあれは、普通の人間が使っていい力じゃない。……まぁ、いいわ。あなたの正体が何であれ、私には関係ない。単刀直入に言うわね。
斑目くん、私の『手駒』になりなさい」
「……は?」
耳を疑った。昨夜あんなにボロボロと涙を流して心配してくれた彼女の口から出たのは、あまりにも冷酷な要求だった。
「私の目的は、この土地に潜むある特定の妖怪を殺すこと。そのためなら、私は何だって利用する。……例え、それがあなたのような『怪異じみた力』であってもね」
「利用するって……小金井さん、あんた昨日、俺の心配をして泣いてくれたんじゃ」
「泣いたわよ! 心配もしたわ!」
小金井さんが、初めて感情を爆発させるように声を荒らげた。
俺の腕を握る指に、爪が食い込むほどの力がこもる。
「あなたのその、自分の身を滅ぼすような戦い方が……っ、昔の、私の大嫌いで、大好きだった人にそっくりだったから! だから放っておけなかった! ……でも、それとこれとは話が別よ。私には、どうしても見つけて殺さなきゃいけない奴がいるの。
私の実力じゃ、まだあいつには届かない。でも、あなたのあの威力があれば……」
彼女は一度、深く息を吐き、再び冷徹な仮面を被り直した。
だが、その直後の行動は、俺の想像を遥かに超越していた。
「だから――絶対に逃がさない」
「うおっ!?」
小金井さんは俺の手首を掴んだまま、自分のほうへと強く引っ張った。
ぐらりと体勢を崩した俺の右手が、彼女の制服の胸元――柔らかく、でも確かにドクドクと脈打つ彼女の胸の真上に、強く押し当てられる。
頭が真っ白になった。
だが、小金井さんは顔を真っ赤に染めながらも、空いた左手でポケットから手際よくスマホを取り出した。
カシャ、と無機質なシャッター音が薄暗い準備室に響く。
「……な、何して――」
「これ、今すぐ学校のグループラインに流してもいいのよ?」
小金井さんは俺の手をパッと離すと、勝ち誇ったような、でもどこか必死な歪んだ笑みを浮かべてスマホを突きつけてきた。
画面には、怯えたような表情でクラスの令嬢の胸を揉んでいる(ようにしか見えない)俺の姿が映っている。
「『転校生の斑目くんに準備室に呼び出されて、襲われそうになった』……って。
これが拡散されたら、あなたの望む『静かで普通の学園生活』なんて一瞬で終わり。……どうする?」
「……わかったよ。降参だ」
俺は両手を軽く上げて、ため息混じりに苦笑いを浮かべた。
「諦めるのが早いのね」
「だって、そこまでして俺の力が欲しいんでしょ。自分の胸まで人質に出してさ。……女の子にそこまで必死にすがられて、突っぱねられるほど、俺は強い人間じゃないから」
小金井さんは一瞬だけ目を見開いた。
しかし、すぐにふいっと顔を背け、スマホをポケットにしまい込む。
「勘違いしないで。すがったんじゃない、脅したのよ。……それから、もう一つ。昨日のあの怪異、あなたただの薄汚れた泥の龍だと思ったでしょう。すごいゴミまみれだったし」
「違うのか?」
「あれはね……元々、この町を流れる川の『神様』だったのよ」
小金井さんの口から漏れ出た言葉は、静かだけど、重かった。
「神様……?」
「そう。この地方で古くから祀られていた土地の神。……だけど、ここ数十年の開発で川はゴミ捨て場になり、人々の感謝も消え失せた。人間の傲慢と陰湿なポイ捨てによって、自然の力が完全に汚染された結果、あの姿に成り果てて暴れていたの」
彼女は自分の白くて細い手をそっと見つめる。
「神が、人によって貶められ、怨念の塊に変わる。私たちはそれを『荒神』と呼んでいるわ。
私の兄を殺した奴も、おそらくそう。
この町の深い闇から生まれた、とてつもない怪異……。
斑目くん、これからもっとエグい現実に直面することになるわ。それでも……私についてきてくれる?」
小金井さんは再び俺を振り返り、今度は脅迫の笑みではなく、どこか切なげな瞳で俺の答えを待っていた。
「……あぁ、覚悟はしておくよ」
俺の返気を聞くと、彼女は安心したように小さく息を吐き、鞄から一冊の古びた黒いノートを取り出した。
革の表紙には、彼女の綺麗な字で、どこか不気味なタイトルが刻まれている。
――『夜怪日記』。
「これはね、私が今まで戦った妖怪や、街で聞いた怪異の情報を記録している日記。兄さんを殺した奴を追い詰めるための、私のすべてよ。……昨日の川の神のことも、ここに記録してあるわ」
小金井さんは日記を愛おしそうに撫で、それから意地悪く、でも少しだけ嬉しそうに俺を見た。
「そして今日からは、あなたのその右腕の秘密も、この日記に加わるってわけ。……じゃあ、放課後、裏の曲がり角で待ってるから。遅れたらあの写真、本当に流すからね」
言い残すと、彼女はそそくさと準備室を出て行った。
残された俺は、彼女が去ったドアを見つめながら、これからあの黒い日記に刻まれていくであろう、俺たちの異常な日常に、少しだけ胸を高鳴らせていた




