第9話 扉の前に立つ人々
第9話 扉の前に立つ人々
公開審理の朝、王立契約院の正面階段には、開廷の二時間前から人が並んでいた。ヴァルモント領の職人、慈善院へ寄付した商人、貴族の家で働く使用人、新聞記者が、傘を畳んで順番を待っている。夜明けまで降っていた雨は上がり、花壇の青い紫陽花から、石畳へ大きな雫が落ちていた。
セレナは宿の食堂で、白パンと茹で卵を食べていた。薄い塩味の豆のスープには細かく刻んだ人参が入り、湯気から月桂樹の匂いがする。以前なら審理資料を読みながら食べたはずだが、今日は書類を革鞄へ入れたまま、匙を置いてから頁を確認すると決めていた。
「スープが温かいうちに、全部召し上がってください」
リタは蜂蜜の瓶をセレナの前へ置いた。緊張しているのか、蓋を二度も開け閉めしている。セレナは白パンへ蜂蜜を一匙塗り、二匙目も自分で加えた。
「甘すぎませんか」
「今日は二匙にします」
「では、明日は三匙でもかまいません」
「明日の朝、決めます」
セレナはパンを最後まで食べた。椅子の背には、今日着る濃紺のドレスが掛けられている。新しく仕立てた物ではなく、母が若いころに着ていたドレスを直したものだったが、胸元にはリタが刺した白い鈴蘭が並んでいた。
契約院の大法廷には、百を超える傍聴席があった。高い天井から三つの燭台が下がり、正面の窓には契約と秤を表す色硝子がはめ込まれている。長く使われた木の椅子には細かな傷があり、セレナの席の肘掛けにも、誰かが爪でつけた半月形の跡が残っていた。
代理人席には、主任調査官のマリアン・クローデルが座っていた。五十代半ばの女性で、黒い髪を一つに束ね、銀縁の眼鏡をかけている。机には証拠を収めた木箱が五つ並び、箱ごとに赤、青、緑、黄色、白の紐が結ばれていた。
ノアは傍聴席の最後列にいた。担当を外れているため、制服ではなく濃い灰色の上着を着ている。セレナと目が合うと、彼は立ち上がらず、ただ一度だけうなずいた。
やがてガストン侯爵、ベアトリス侯爵夫人、レオナールが入廷した。侯爵の礼服には以前と同じ数の勲章がついていたが、磨かれていないものが二つあった。侯爵夫人の帽子には大きな白百合が飾られ、花粉が肩へ落ちている。
レオナールは深紅の上着を着ていた。髪にはたっぷりと香油を使い、セレナの前を通ると甘く重い匂いが残る。彼は被告側の席へ着く前に、傍聴席のノアを振り返った。
「愛人に見守られて、さぞ心強いだろうな」
「発言は許可を得てからなさい」
中央の審理官が木槌を鳴らした。レオナールは口を閉じたものの、椅子へ座ると脚を何度も揺らした。卓上の水を飲もうとして蓋を落とし、代理人が拾っても礼を言わなかった。
審理は、セレナへの無報酬労働から始まった。クローデル調査官が、ヴァルモント家三名の署名がある確認書を提出する。そこには、セレナへ命じた業務、二年二か月という期間、報酬を支払わなかった事実が記されていた。
「セレナ嬢は、将来侯爵夫人になるため、自ら学びたいと申し出たのだ」
ガストン侯爵は前回と違う主張をした。息子が勝手にしたことだと言えば、自分の魔力印について問われるため、今度はセレナの希望だったことにしたらしい。セレナは革鞄から、十二通の報酬請求書を取り出した。
「私は十二回、無報酬での業務継続を拒否しました」
「形だけの請求だったのだろう。お前は一度も屋敷を出なかった」
「三度、実家へ戻る許可を求めました。そのすべてに、『借金の援助を打ち切る』との回答がございます」
「息子が書いた物だ!」
「五通には侯爵閣下、四通には侯爵夫人、三通にはレオナール様の署名があります」
侯爵は隣の夫人を見た。ベアトリスは扇で口元を隠し、目を合わせない。セレナは署名者ごとに書類を分け、審理官へ提出した。
「私は自由に屋敷を出られませんでした。出れば、家族が住居を失うと告げられていたからです」
「実際に追い出してはいない!」
「実行しなければ、脅迫してよいことにはなりません」
次に、慈善院の寄付金流用が審理された。二冊の帳簿が公開されると、傍聴席の商人たちから低い声が上がった。王宮へ報告された食材の量と、子どもたちが実際に食べた量には、七年間で金貨千百枚を超える差があった。
ベアトリス侯爵夫人は扇を閉じ、背筋を伸ばした。
「食材の一部を侯爵邸へ運ばせたことは認めます。しかし、茶会で寄付を募るために必要だったのです。結果として慈善院のために使いました」
「茶会で集まった寄付金の記録は、どこにございますか」
クローデル調査官が尋ねると、夫人は代理人を見る。代わりに答えたのは、侯爵家の元侍女長マーサだった。証言台へ立った彼女は、以前と同じ焦げ茶色のドレスを着ていたが、袖口は新しい布で丁寧に繕われていた。
「茶会の寄付箱は、毎回、奥様の衣装部屋へ運ばれました。金額を記録しようとすると、帳面を取り上げられました」
「嘘よ!」
「では、こちらをご確認ください」
マーサは、解雇前に写した衣装部屋の出納記録を提出した。寄付金を数えた翌日に、ほぼ同額が宝飾商や仕立屋へ支払われている。侯爵夫人の新しい首飾り、白百合の帽子、舞踏会用の靴に使われていた。
「侯爵夫人として、身なりを整える必要があったのです」
「子どもたちの鶏肉を減らしてまで、必要だったのでしょうか」
セレナが尋ねると、侯爵夫人は帽子の白百合へ触れた。黄色い花粉が指へつき、高価な手袋に細かな染みを作る。彼女は手を隠すように扇を開いた。
「セレナがもっと上手に帳簿を管理していれば、こんな間違いは起こりませんでした」
「私は三年前から、実際の納入量を記録するよう求めています」
「聞いていません」
「こちらが、四回提出した改善要求書です」
セレナは受領印のある書類を並べた。すべてに侯爵夫人の署名と、『慈善事業に口を出すな』という返答が残されている。夫人は五通目がないことを指摘したが、審理官は四度拒絶した事実が消えるわけではないと告げた。
料理人も証言台へ立った。以前より新しい白い前掛けを身につけ、左手の火傷には清潔な布が巻かれている。傍聴席の端には五歳の娘が座り、左右の違う靴下を履いた足を揺らしていた。
「この指示書は、侯爵夫人から渡されました。子どもたちには豆と蕪を食べさせ、鶏肉と小麦を侯爵邸へ運ぶようにと書かれています」
「院長が勝手に、私の印章を使ったのよ!」
「魔力印は、本人にしか使えません」
審理官が答えると、夫人は再び口を閉じた。裏面には料理人の娘が書いた母親の名前があり、紙をすり替えたという主張も成立しない。未成年のフィン一人へ責任を負わせず、納品業者と御者の証言も揃っていた。
昼の休廷になると、傍聴席へ焼いた豆と黒パンが配られた。セレナは廊下の窓辺に立ち、紙皿から豆を一粒ずつ匙ですくった。少し焦げた玉葱が混ざっており、噛むと甘い味がした。
ノアは近づかなかった。担当を外れた者として、廊下の反対側で同僚と昼食を取っている。彼の紙皿には嫌いらしい茹でた人参だけが最後まで残っていたが、しばらく眺めたあと、諦めたように食べた。
午後は、アルフェルト伯爵家の債務について審理された。銀行の完済証明書、権利証の受領記録、完済後に徴収された十一回分の金銭記録が提示される。最後に、ガストン侯爵の署名が黒く変色した確認書が、色硝子から差す光の下へ置かれた。
「金は預かっていただけだ」
ガストン侯爵は、同じ言葉を繰り返した。額には汗が浮かび、襟元の布が濃い色へ変わっている。クローデル調査官は預り金の保管記録を求めた。
「帳簿は、セレナが持ち出した」
「私は侯爵家の私有財産に関する帳簿を持ち出しておりません。契約院による家宅調査でも、預り金の記録は発見されていません」
「お前が燃やしたのだ!」
「焼却炉の灰も調査済みです。過去半年以内に、帳簿を燃やした痕跡はありません」
「では、息子が使った!」
レオナールが椅子から立ち上がった。顔は白くなり、握っていた羽根ペンが中央から折れている。父親を見たまま、掠れた声を上げた。
「私は受け取っていない! 父上が借金の利息だと言って、ご自分の口座へ入れたではありませんか!」
「黙れ! お前の浪費を補うために必要だったのだ!」
「ヴィオラの品物は、父上が侯爵家の資産で払うと——」
「お前が女に見栄を張った結果だろう!」
父と息子は互いを指さし、責任を押しつけ始めた。侯爵夫人は家の名誉を守りなさいと叫んだが、自分の衣装代については間違いだったと言い張る。三人の声が重なり、誰の言葉も最後まで聞き取れなかった。
審理官が木槌を三度鳴らした。大法廷に音が響き、三人はようやく黙る。卓上には、彼ら自身の署名と印章がある書類が並んでいた。
「ヴァルモント侯爵家は、セレナ・アルフェルト嬢へ二年二か月分の報酬と慰謝料を支払うものとします。アルフェルト伯爵家から不当に徴収した金銭は、利息を加えて返還してください」
審理官は判決文を読み進めた。慈善院の横領金は全額返還され、ガストン侯爵とベアトリス侯爵夫人には公金を扱う資格の永久停止が命じられる。レオナールは領地経営から外され、セレナの事業計画を自分の功績として提出した件についても、王宮から得た報奨金の返還を命じられた。
侯爵家の財産には仮差し押さえが行われる。屋敷と別邸は売却の対象となり、領地の管理権は王国と領民評議会へ移された。慈善院は侯爵夫人の私設団体ではなくなり、料理人、教師、医師、寄付者が会計を確認できる施設へ改められる。
「こんな判決は認めない!」
ガストン侯爵が立ち上がった。退廷させようとする職員を振り払い、セレナを指さす。最後まで、自分がしたことではなく、告発した者を責める顔をしていた。
「お前がもっと早く訴えていれば、ここまでにはならなかった!」
レオナールも続いた。彼の深紅の上着には、折れた羽根ペンのインクが飛び、黒い点が幾つもついている。セレナは椅子から立ち、革鞄の最後の仕切りを開いた。
「私は七度、正式な改善要求を出しました」
七通の書類を、一通ずつ卓上へ置く。最初は二年前、最後は婚約破棄の一か月前に提出したものだった。そのすべてに、レオナールの署名と『却下』の文字がある。
「私は七度、扉をたたきました」
「そんな昔の書類など、覚えていない!」
「開けなかったのは、あなたです」
レオナールは八度目の言い訳を口にできなかった。職員に両脇を挟まれ、踵を引きずるように法廷から連れ出される。ガストン侯爵とベアトリス侯爵夫人も続き、白百合の帽子から花弁が一枚、床へ落ちた。
判決文への署名が終わると、傍聴席の人々が立ち上がった。織物工房の職人は互いの肩をたたき、料理人は娘を抱き上げる。フィンは証拠として預けていた小さな帳面を返され、最初に頁の数を確認してから胸へ抱えた。
セレナは誰にも持ち上げられず、自分の席で書類を鞄へしまった。最後の一枚を入れると、肩へ食い込んでいた鞄が急に軽くなったように感じる。鞄の重さは同じでも、明日から新しい証拠を加える必要はなかった。
契約院を出るころには、午後の日差しが紫陽花を照らしていた。雨粒の乾いた葉から青臭い香りが立ち、玄関前では傍聴人たちが判決について話している。ノアは人々から少し離れた場所で、セレナを待っていた。
彼は駆け寄って抱き締めなかった。自分が証拠を揃えたとも、自分が侯爵家を倒したとも言わない。セレナの前へ立つと、上着の内側から銀色の徽章を取り出した。
「リドウェル調査官」
「その呼び方は、今までです」
ノアは契約院の職員へ徽章を返却した。一時的に外れていた担当が、審理終了によって正式に解除されたことを確認し、受領書へ署名する。それから再びセレナの前へ戻った。
「これ以降、私はあなたの担当官ではありません」
「はい」
「ですから、一人の男性として、食事にお誘いしてもよろしいでしょうか」
セレナはすぐに答えなかった。ノアは返事を求めて手を差し出さず、断られる可能性もある場所で立っている。セレナが黙っていても、眉をひそめることも、理由を尋ねることもしなかった。
「今、お返事しなくてもよいのですか」
「もちろんです」
「断っても、今日までの記録は変わりませんか」
「変わりません。あなたが集めた証拠も、得た判決も、すべてあなたのものです」
「では、考える時間をいただけますか」
「もちろんです」
ノアは一礼し、先に階段を下りた。セレナを送るとも、返事を待っているとも言わなかった。青い紫陽花の横を通り、夕方の人混みへ入っていく背中を、セレナは見えなくなるまで見送った。
三日後、ノアの机には、薄青色の封筒が届いた。差出人はセレナ・アルフェルト。封蝋には、侯爵家の紋章ではなく、小さな鈴蘭が刻まれていた。
封筒の中には、王都の食堂の住所と、夕食の日時が書かれていた。末尾には短い文章が一つだけ添えられている。
『今度は、記録に残さなくてよいお話をいたしましょう』




