第8話 働かない侯爵家
第8話 働かない侯爵家
セレナが侯爵邸を出てから三週間で、ヴァルモント領の織物工房は操業を停止した。染料を仕入れる注文書にはレオナールの署名があったが、代金を支払うための決裁書が作られていなかったからである。倉庫には生成りの布だけが積み上がり、春の新色として売り出すはずだった若草色と薄紅色の反物は、一枚も完成しなかった。
北部領の水路では、修繕用の石材が届かなかった。ガストン侯爵は「去年と同じ商人へ頼め」と命じたものの、その商人の名前も契約条件も知らなかった。セレナが残した業務引継書は侯爵の執務机にあったが、彼は百二十頁もあるという理由で、表紙さえ開いていなかった。
侯爵夫人が主催する茶会も中止になった。招待状の日付が二種類あり、料理人へ伝えた人数と、食器係へ伝えた人数が合わなかったためである。夫人は使用人たちを叱りつけたが、これまで日付を確認し、人数を数え、足りない食器を借りていたのはセレナだった。
王立契約院には、ヴァルモント領から毎日のように報告書が届いた。未払い賃金、届かない種麦、停止した水車、返事のない注文書。ノアの机には書類が山のように積まれ、その横では朝に淹れた茶が、飲まれないまま冷えていた。
セレナは向かいの席で、領民から届いた申立書を読んでいた。今日は薄紫色のブラウスと紺色のスカートを着ている。宿の女主人から借りた香草石鹸で洗ったため、袖口からラベンダーの匂いがした。
「織物工房の職人たちは、今月の賃金を受け取っておりません」
「緊急支払いの申請は、王領管理局へ提出しました」
「種麦の購入期限は五日後です」
「そちらも手配済みです。侯爵家の私有財産ではなく、差し押さえた事業資金から支払われます」
ノアは一枚ずつ、処理済みの印を押した。書類の山は低くならなかったが、右側には赤い封蝋がついた処理済みの箱が増えている。セレナは次の書類へ手を伸ばしかけ、前回の約束を思い出して指を引いた。
「何か気になる点がありますか」
「いいえ。それは、あなたのお仕事です」
「確認していただいて構いません」
「分担表では、私の担当ではありません」
セレナが答えると、ノアは小さくうなずいた。机の端には、昼食用のパンが二つ置かれている。一つは干し肉入り、もう一つは蜂蜜と胡桃入りで、それぞれ別の紙に包まれていた。
「今日は最初から二つ買ったのですね」
「一つは昼食、一つは夕方の間食です」
「私へ渡すためではなく?」
「違います。あなたの分は、ご自分で持っているでしょう」
セレナは革鞄を開き、リタが入れた茹で卵と春豆のパンを見せた。二人とも相手の食事を減らさなくても、今日一日を過ごせる。そんな確認が少しおかしくなり、セレナは鞄の蓋を閉じながら口元を緩めた。
扉が強くたたかれたのは、その直後だった。返事を待たず、契約院の若い職員が入ってくる。腕には黄色い百合の花粉がついており、玄関の花瓶を倒しかけたらしい。
「リドウェル調査官、緊急の申立てです。レオナール・ヴァルモント氏から、あなたとアルフェルト嬢の不適切な関係について告発がありました」
職員は封書を差し出した。ノアはすぐに封を切らず、受領時刻を記録してから、立会人として隣室の職員を呼ぶ。セレナも自分の席を動かず、二人の職員が揃うまで待った。
告発書には、セレナが婚約中からノアと密会し、新しい男を得るためにヴァルモント侯爵家の証拠を捏造したと書かれていた。祝賀会の夜、契約院での相談日、慈善院の調査日、銀行を訪れた日が、密会の証拠として列挙されている。最後には、ノアが職権を使い、セレナへ有利な調査を進めたとも記されていた。
「やはり、こう来ましたか」
ノアは告発書を読み終え、卓上へ置いた。声は変わらなかったが、紙を押さえる人差し指の爪が白くなっている。セレナは自分の膝へ手を置いた。
「審理へ影響しますか」
「正式な調査が必要になります」
「事実ではありません」
「分かっています。しかし、私が分かっているだけでは不十分です」
ノアは祝賀会の面会記録を取り出した。二人が話したのは大広間の中であり、近くには給仕とリタがいた。時間は十分足らず、内容は宝石の受領書についてだった。
契約院での相談には、受付の記録と相談室の入退室記録があった。慈善院の調査には、契約院職員二名、院長、料理人、四十八人の子どもが同席している。銀行では職員が立ち会い、完済証明書の発行時刻も記録されていた。
「二人きりだった時間は、こちらの休憩時間だけですね」
若い職員が、第7話の事情聴取記録を確認した。金魚草が飾られていた部屋で、記録係が退出してから戻るまで十八分ある。そのうち十六分は、ヴィオラがセレナと二人で話していたことが、廊下の監視記録に残っていた。
「残り二分は?」
「私が入室し、本日の調査終了を記録しました」
ノアは署名入りの面会記録を提示した。焼き菓子を渡したことも、私物の授受として備考欄へ記入されている。菓子の購入店、価格、購入時刻まで、領収書で確認できた。
「菓子一つに、ここまで記録したのですか」
若い職員は目を丸くした。ノアは当然のことだという顔で、領収書の折り目を直す。セレナは油紙に残っていた林檎と肉桂の匂いを思い出した。
「調査対象者へ私物を渡したのですから、記録が必要です」
「交際を申し込んだことは?」
「ありません」
「好意を伝えたことは?」
ノアはすぐに答えなかった。卓上の冷めた茶へ視線を落とし、カップの取っ手を一度触ってから手を離す。窓の外では白い西洋栃の花が風に揺れ、散った花弁が一枚、窓枠へ張りついていた。
「ありません。調査終了後に話したいことがあると、伝えただけです」
「その内容は?」
「仕事の話ではない、としか告げていません」
「では、それも記録へ加えます」
職員は淡々と書き留めた。セレナはノアの横顔を見たが、彼は目を合わせなかった。言葉にしなかったものまで調査対象にされても、否定のために彼女を傷つけるようなことは言わなかった。
午後、レオナールを呼んだ確認聴取が開かれた。彼は以前より痩せ、白い上着の釦を一つ掛け違えている。髪には高価な香油を使っていたが、袖口からは葡萄酒と汗の匂いがした。
「セレナとリドウェル調査官の不貞を示す証拠を提出してください」
審査官が求めると、レオナールは数枚の紙を卓へ置いた。そこには、セレナが契約院へ出入りした日時と、ノアが侯爵邸を訪れた日時が書かれている。どれも公式記録に残された日付と同じだった。
「二人はこれほど頻繁に会っている!」
「すべて調査または相談のための面会です。第三者が立ち会っています」
「銀行から出たあと、二人でベンチに座っていたという証言もある!」
「銀行員が窓から確認しています。アルフェルト嬢の体調が整うまで休憩していました」
「菓子まで贈っているではないか!」
「銅貨二枚の焼き菓子です。受領の事実も記録されています」
レオナールは卓をたたいた。置かれていた水差しが揺れ、蓋の隙間から水がこぼれる。彼は濡れた袖を気にせず、セレナを指さした。
「こいつは、私と婚約していたころから、あの男に取り入っていた! そうでなければ、契約院がここまで動くはずがない!」
「王立契約院が動いた理由は、証拠があったからです」
セレナは椅子に座ったまま答えた。ノアは隣にいたが、彼女の言葉へ付け加えない。審査官が提出済みの証拠を一つずつ読み上げた。
無報酬労働を認めた侯爵家の署名。慈善院の二重帳簿。侯爵夫人の指示書。銀行の完済証明書。完済後も金銭を受け取った十一通の受領証。黒く変色した侯爵の虚偽署名。
「これらをリドウェル調査官が捏造したと主張するのですか」
「そうだ!」
「銀行、商会、慈善院の料理人、元侍女長、契約院職員が共謀した証拠はありますか」
「セレナに騙されているんだ!」
「では、セレナ・アルフェルト嬢が関係者全員を騙した証拠は?」
レオナールは答えられなかった。証拠として提出した日付は、密会ではなく、二人が記録を残して調査していたことを裏づけている。最後の反撃として放った告発は、自分たちの不正調査が正規の手順で進められた証明になった。
「不貞の告発は、証拠不十分として却下します」
審査官が告げると、レオナールは椅子から立った。左右にいた職員が出口を示す。彼はセレナへ何か言おうとしたが、誰にも聞き取れないほど唇を動かしただけで、部屋から連れ出された。
それでもノアは席へ戻らなかった。銀色の徽章を外し、審査官の前へ置く。布の擦れる小さな音が、静まった室内に響いた。
「最終審理まで、本件の担当から外れることを申し出ます」
セレナの指が膝の上で動いた。告発は却下されたのだから、必要はないと言いかける。しかしノアは彼女ではなく、審査官を見ていた。
「不貞の事実は否定されました。ですが、私がアルフェルト嬢に私的な関心を持っている可能性まで、完全に否定されたわけではありません」
「調査内容に不正は認められていません」
「承知しています。それでも最終審理まで私が担当を続ければ、ヴァルモント家は判決後も、個人的な関係によって結果が歪められたと主張するでしょう」
「あなたが外れれば、アルフェルト嬢側の準備へ影響が出ます」
「引継書は作成済みです。後任には、主任調査官のマリアン・クローデルを推薦します」
ノアはすでに、自分が担当を外れる場合まで準備していた。セレナとの関係を守るために証拠を隠すのではなく、セレナの告発が今後も疑われないために、自分から距離を置こうとしている。審査官は書類を確認し、最終審理までの一時交代を認めた。
聴取が終わると、外では細かな雨が降り始めていた。契約院の玄関脇では青い紫陽花が開き、丸い葉に雨粒を載せている。ノアは徽章を外した黒い上着を着て、軒下へ立っていた。
「後任のクローデル調査官は、私より経験があります。引継ぎも今夜までに終えます」
「あなたは悪いことをしていません」
「はい」
「それでも、外れるのですね」
「あなたの証拠を、私との噂で曇らせたくありません」
ノアはそれ以上、理解を求めなかった。セレナが怒ることも、引き留めることも、彼の判断を嫌うことも受け入れるように黙っている。雨で湿った風が吹き、彼の黒い髪を少し乱した。
「審理が終わるまでは、私的にお会いしません。必要な連絡は、クローデル調査官を通してください」
「焼き菓子も、もういただけないのですね」
「残念ですが」
「食事にも、誘っていただけませんか」
ノアの唇がわずかに開いた。セレナは鞄の持ち手を両手で握り、逃げずに彼を見る。今までなら、相手に望まれるまで何も求めなかった。
「リドウェル様」
「はい」
「審理が終わったら、記録に残らない場所でお会いしたいです」
雨樋から落ちた雫が、石畳へ一定の音を立てていた。ノアはすぐに近づかず、彼女の言葉が変わらないことを確かめるように待つ。それから、徽章のない胸元へ手を当てた。
「そのときは、調査官としてではなく、お誘いします」
「お待ちしております」
「私も、お待ちしています」
宿の馬車が到着し、御者が扉を開けた。ノアはセレナの手を取らず、濡れた踏み台だけを布で拭いた。セレナは自分で馬車へ乗り込み、窓から彼を見た。
二人の間には、最終審理までの距離ができた。けれどそれは、見捨てられたために閉じられた扉ではない。審理が終わったあと、どちらからでも開けられるように、正しく鍵を掛けた扉だった。




