第7話 愛されていたのは誰か
第7話 愛されていたのは誰か
五月の終わり、王都の街路樹には白い西洋栃の花が咲いていた。契約院の窓から見ると、円錐形に集まった花が燭台のように並び、その下を荷馬車や買い物籠を提げた人々が行き交っている。セレナは窓辺に立ち、冷めた薄荷茶を飲みながら、午後の事情聴取を待っていた。
今日の相手はヴィオラだった。彼女が侯爵邸から持ち出した宝石、衣装、美術品について、どれが贈与で、どれが貸与だったのかを確認する。宝石と外套は返却されたが、侯爵家の帳簿には、ヴィオラの名義で購入された品がほかに二十七点も記載されていた。
セレナは白いブラウスに深緑色のスカートを合わせていた。ブラウスは宿の洗濯場でリタと洗ったもので、袖口に石鹸が少し残り、動くたびに清潔な香りがする。侯爵邸では自分の衣服を洗う前に百二十枚の布巾を片づけていたため、昼の日差しの中で自分の一着だけを干したのは、初めてだった。
「お嬢様、今日の昼食は召し上がりましたね」
リタが籠の中を確かめた。茹で卵の殻と、チーズを挟んだパンの包み紙しか残っていない。セレナがうなずくと、リタはようやく籠の蓋を閉じた。
「残さず食べました」
「ノア様へ差し上げていませんね」
「今日はお会いする前に食べましたから、渡せません」
「たいへんよくできました」
「子どもではありません」
「食事を人に譲らず食べられた方は、褒めてもよいのです」
リタはそう言い、セレナのブラウスの襟を直した。強く引いたため、一番上の釦が首へ当たる。セレナが苦しいと告げると、リタは謝りながら釦を一つ外した。
事情聴取室の卓上には、二十七点の品物を記した一覧が置かれていた。窓辺には黄色い金魚草が飾られていたが、水差しの底には、誰かが落とした赤い封蝋の欠片が沈んでいる。ノアは黒い制服を着て、記録係とともに資料を確認していた。
「セレナ嬢、こちらへお座りください」
「私も同席するのですか」
「品物の所有者として、確認していただく必要があります。質問はこちらで行いますから、相違がある場合だけお知らせください」
「承知しました」
セレナはノアの向かいへ座った。以前なら、質問内容を予想して補足資料まで机に並べただろう。今日は封をした革鞄を椅子の横へ置き、両手を膝に重ねた。
やがて廊下から硬い靴音が近づき、事情聴取室の扉が開いた。ヴィオラは淡い黄色のドレスを着て、母親と代理人を伴っていた。胸元にサファイアはなかったが、耳には小粒の真珠が揺れている。
「こんな狭い部屋へ呼び出すなんて、ずいぶんな扱いですこと」
ヴィオラは椅子に座る前に、手巾で座面を拭いた。薔薇の香油は以前より薄く、代わりに樟脳の匂いがした。侯爵家から返された荷物を急いで箱へ詰め、衣装へ虫除けを入れたのかもしれない。
「聴取へのご協力に感謝します」
ノアが告げると、ヴィオラは彼の顔を見て姿勢を直した。レオナールに向けていたものとよく似た笑みを浮かべ、声を少し高くする。母親が肘で触れると、ヴィオラはようやく書類へ目を落とした。
「ヴィオラ・メルディ嬢。こちらに記載された二十七点について、レオナール・ヴァルモント氏から贈られた物で間違いありませんか」
「ええ。すべて、私のために選んでくださった物ですわ」
「贈与証書はありますか」
「愛する相手へ贈り物をするときに、証書など作りませんでしょう?」
ヴィオラはセレナを見た。以前なら、その視線の先でサファイアを返せと頼む立場だった。今日はノアが質問を続けるため、セレナは何も言わずに座っていた。
「では、贈ると告げられた手紙はありますか」
「ございません。でも、ドレスの色に合う、君にこそふさわしいと言ってくださいました」
「品物をお受け取りになった場所と日時は?」
「そんな昔のことまで覚えておりません」
「最も古い品でも、三か月前です」
ヴィオラは扇を開き、顔の下半分を隠した。扇には白い羽根がついていたが、一本だけ折れて横へ飛び出している。彼女はそれに気づかず、何度も開いたり閉じたりした。
ノアは一覧の一番上を指した。それは王都の宝飾商から購入された真珠の耳飾りだった。現在、ヴィオラが身につけている物と特徴が一致している。
「こちらの代金は金貨三十枚です。請求先はヴァルモント侯爵家ですが、購入者の署名欄には、あなたの名前があります」
「レオナール様から、ここへ名前を書けばよいと言われました」
「代金は誰が支払うと聞きましたか」
「侯爵家です。当然でしょう」
「侯爵家の帳簿では、あなたへの貸付金として処理されています」
ヴィオラの扇が止まった。代理人が身を乗り出し、帳簿の写しを求める。ノアが提示すると、ヴィオラ名義の貸付金は、利息を含めて金貨九百四十枚に達していた。
「嘘です。私は借りておりません」
「こちらは赤いドレスの購入証書です。署名はあなたのものですか」
「私の字です。でも、贈り物を受け取る確認だと説明されました」
「文面には、代金をヴィオラ・メルディ嬢が負担すると記載されています」
「細かい文字まで読んでいませんでした!」
ヴィオラは立ち上がり、耳の真珠へ触れた。美しい贈り物だと思っていた品が、利息つきの借金へ変わったように見えたのだろう。彼女は耳飾りを外し、卓上へ音を立てて置いた。
「レオナール様は、私を愛しているとおっしゃいました。侯爵夫人にしてくださるとも」
「婚約に関する正式な契約書はありますか」
「ございません。でも、セレナ様との婚約を破棄したではありませんか」
「それは、あなたとの婚約が成立した証明にはなりません」
ヴィオラの母親が息をのみ、娘の肩を押して椅子へ座らせた。ノアは責める口調を使わず、品物を受け取った経緯について質問を続ける。ヴィオラは最初こそ曖昧に答えたが、やがて一枚の紙を鞄から取り出した。
それは、レオナールが書いた買い物の一覧だった。真珠の耳飾り、赤いドレス、毛皮の外套、化粧台、銀の茶器。最後には『署名すれば侯爵家が処理する』と記されていた。
「これは証拠としてお預かりできます」
「返していただけるのですね」
「受領書を発行します。審理終了後の返却についても、書面へ記載します」
ヴィオラは受領書の一文一文を読んだ。以前なら、そんな物は必要ないと笑ったはずだった。署名する指は震え、インクが名前の最後で小さくにじんだ。
休憩になると、ノアと記録係は別室へ移った。ヴィオラの母親と代理人も廊下へ出て、事情聴取室にはセレナとヴィオラだけが残る。窓から入った風が金魚草を揺らし、花瓶の中で封蝋の欠片が転がった。
「満足なさいました?」
ヴィオラは卓上に置いた耳飾りを手巾で包んだ。薔薇の香油をつけ直したらしく、部屋の空気へ甘い匂いが広がる。セレナは冷めた水を一口飲んだ。
「事実を確認しただけです」
「あなたは最初から知っていたのでしょう。レオナール様が私の名義を使っていたことを」
「いいえ。今日、初めて知りました」
「でも、借金のことは調べられた。私に教えてくれてもよかったではありませんか」
「私は何度も、署名する前に文面を読むよう申し上げました」
「私が笑ったから、仕返しをしたのね」
セレナは返事をしなかった。サファイアの受領書を細かすぎると笑い、外套一枚で大げさだと言ったのはヴィオラ自身である。だからといって、借金を背負わされて当然だとは思わなかった。
「レオナール様との会話を、できるだけ思い出してください。購入の経緯が分かれば、支払い義務を争える可能性があります」
「助けてくださるの?」
「証言するのは、あなたです。私は助けるとも、許すとも申し上げておりません」
「相変わらず、冷たい方ね」
ヴィオラは立ち上がり、黄色いドレスの皺を直した。扉へ向かいかけたが、取っ手へ手を置いたまま振り返る。視線はセレナではなく、ノアが先ほどまで座っていた椅子へ向けられていた。
「でも、あなたも気をつけたほうがよろしいわ」
「何をですか」
「ノア様が親切なのは、あなたが有能だからでしょう。何年もかけて証拠を集め、領地事業まで成功させる女だから、契約院も利用する価値があると思っているのです」
セレナの指がカップの取っ手から外れた。受け皿に落ちた雫が、卓上へ小さな丸を作る。ヴィオラはその反応を見て、折れた羽根の扇を広げた。
「レオナール様も、最初はあなたを褒めていたそうですわ。賢くて仕事ができる、侯爵家に役立つ婚約者だと。ノア様も同じではなくて?」
「リドウェル調査官は、職務を行っているだけです」
「では、審理が終われば、あなたに会う理由もなくなりますわね」
ヴィオラは廊下へ出ていった。扉が閉まると、薔薇の香油だけが部屋に残る。セレナは黄色い金魚草を見ながら、自分の両手を膝へ置いた。
レオナールもガストン侯爵も、セレナの計算や記憶力を褒めたことがある。ただし、それは必ず新しい仕事を押しつける前だった。父も、家を守れるのはお前だけだと言って、借金の処理をセレナへ任せた。
必要とされることと、愛されることの違いを、セレナは説明できなかった。役に立たなければ、誰も自分を引き留めない。それなら、ノアも審理が終われば、彼女の名前を忘れるのかもしれなかった。
午後の聴取が再開すると、セレナはいつも以上に働いた。ヴィオラの証言を整理し、品物の購入日を侯爵家の帳簿と照合し、求められていない補足資料まで作った。ノアから休むよう言われても、鉛筆を置かなかった。
「セレナ嬢、こちらは契約院で行います」
「私のほうが早く終わります」
「速さを競っているのではありません」
「使える資料は、多いほうがよいでしょう」
「もう十分です」
十分だと言われると、セレナの指がさらに速く動いた。それ以上は必要ないという意味が、もう自分はいらないという言葉に聞こえる。鉛筆の先が折れても別の一本を取り、帳簿の数字を書き写した。
夕方、記録係が帰っても、セレナは席を立たなかった。西日が窓から差し込み、金魚草の影を長く伸ばす。廊下では清掃係が床を掃き、夕食に使う玉葱を炒める匂いが、職員食堂から漂ってきた。
「本日の調査は終了です」
ノアは正式な面会記録へ、終了時刻を記入した。署名をして砂を振り、インクが乾いたことを確かめる。セレナはまだ書類を片づけようとしたが、ノアはその上へ面会記録を置いた。
「今日は、ここまでです」
「あと少しで終わります」
「明日でも間に合います」
「審理が終われば、私にできる仕事はなくなります」
言ってから、セレナは唇を結んだ。ノアはすぐに返事をせず、卓上の書類を一つずつ箱へ戻した。最後に金魚草の花瓶から赤い封蝋の欠片を拾い、屑入れへ捨てる。
「それを心配していたのですか」
「いいえ」
「では、なぜ夕食の時刻を過ぎても、仕事を増やしているのです」
「仕事が残っているからです」
「残してよい仕事です」
ノアは黒い上着を着直した。何かを言いかけてセレナを見たが、胸の銀色の徽章へ触れると口を閉じる。調査官と当事者の間で、私的な約束をするべきではないと考えたらしい。
「セレナ嬢」
「はい」
「審理が終了したら、その後についてお話ししたいことがあります」
「契約院から、新しい仕事をいただけるのでしょうか」
「仕事の話ではありません」
それ以上は告げず、ノアは机の引き出しから油紙の包みを取り出した。夕方、外回りの職員が買ってきた物らしく、まだ温かい。包みの隙間から、焼いた林檎と肉桂の甘い香りがした。
「これは証拠品ではありません。返却も報告も不要です」
「いただく理由がありません」
「理由がなければ、受け取れませんか」
「何かのお礼ですか」
「お礼でも、報酬でもありません。市場で二つ買いました。私は一つ食べます。これはあなたの分です」
「半分で十分です」
「一つずつです」
ノアは自分の包みを机へ置き、セレナへ一つ渡した。受領書を作ることも、代金を請求することもない。彼女が包みを持ったのを確認すると、宿まで送るとは言わず、馬車を手配したことだけを伝えた。
宿へ戻ると、リタは洗った靴下を暖炉の前へ干していた。片方だけ裏返しになっており、もう片方には木製の洗濯挟みが二つもついている。卓上には夕食の野菜スープがあったが、セレナは先に油紙の包みを開いた。
焼き菓子は掌ほどの大きさで、表面には林檎の薄切りが花の形に並んでいた。端から溶けた砂糖が垂れ、油紙へ飴のように固まっている。セレナはナイフを探しかけ、手を止めた。
「半分、食べますか」
リタが尋ねると、セレナは焼き菓子を両手で持った。まだ温かく、指先へ柔らかな熱が移る。肉桂の香りを吸い込み、そのまま一口かじった。
「これは、私の分だそうです」
「では、お嬢様がお食べください」
「一人で食べてもよいのでしょうか」
「お嬢様の物なら、お嬢様が決めてよいのです」
セレナはもう一口かじった。煮た林檎は柔らかく、甘い汁が生地へ染み込んでいる。ノアの分を残す必要も、リタへ譲る必要も、食べたことを帳面へ記録する必要もなかった。
最後の一口を飲み込んでも、胸の中に返さなければならない物は残らなかった。油紙には砂糖の欠片が一つついていたため、セレナは指で取り、自分の口へ入れた。初めて、誰にも分けずに食べたことを、あとから悔やまなかった。




