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第6話 それは息子が勝手にしたこと

第6話 それは息子が勝手にしたこと


侯爵邸を出てから十日間、セレナは王立契約院に近い宿で暮らしていた。部屋には寝台と小さな机しかなかったが、窓を開ける時刻も、暖炉へ薪を足す量も、自分で決められる。朝食に出された焼きたての白パンへ蜂蜜を二匙塗っても、誰にも贅沢だと叱られなかった。


窓辺には、リタが市場で買ってきた赤いゼラニウムの鉢が置かれている。花は元気だったが、葉の一枚だけが黄色くなり、リタは毎朝それを摘むべきか迷っていた。セレナは枯れきるまで残しておけばよいと言い、今朝もその葉へ水を一滴落とした。


「お嬢様、また寝台を使わなかったのですか」


リタは机に伏せていたセレナの肩へ、毛織物の肩掛けを掛けた。机の上には、審理へ提出する証拠目録が広がっている。昨夜飲んだ林檎茶はカップの中で冷え、薄く切った林檎が底へ沈んでいた。


「少し眠りました」


「椅子で眠ることを、眠ったとは言いません」


「侯爵家でも、締め切り前はよくこうしていました」


「だからいけないのです。あの家で覚えた悪い習慣まで、旅行箱に入れて持ってくる必要はありません」


リタは書類の隙間から皿を引き出した。そこには夕食に出された鶏肉のパイが半分残っている。セレナは食べた記憶がなかったが、縁だけが細かく切られていたので、無意識にナイフを動かしたらしい。


「今日の予備審理までに、証拠目録を完成させなくてはなりません」


「契約院の方々も作っておられるのでしょう?」


「私がまとめておけば、皆様の仕事が減ります」


「お嬢様は依頼人です。調査官ではありません」


「何もしなければ、迷惑をかけます」


セレナは冷えたパイを一口だけ食べ、紙の束へ視線を戻した。侯爵家にいたころは、誰かが忙しそうにしていれば、自分から仕事を探すよう求められた。手が空いているところを見つかれば、侯爵夫人は「食べさせてもらっている身で」と眉をひそめた。


契約院へ到着すると、廊下には朝の清掃で使った石鹸水の匂いが残っていた。開いた窓からは春の風が入り、向かいの花壇に咲く青い矢車菊を揺らしている。セレナは灰青色の仕事着を着て、両腕に書類を抱えていた。


ノアの机にも、審理の準備書類が積まれていた。端には朝食らしい胡桃パンが紙に包まれたまま置かれ、一口も食べられていない。窓辺の鉢植えには新しい葉が二枚増えていたが、受け皿には水が溜まりすぎていた。


「リドウェル調査官、証拠目録を作成してまいりました」


「昨夜、私が作成するとお伝えしました」


「同じ資料でも、私のほうが内容を把握しております。照合も終わっています」


「何時まで作業していたのですか」


「覚えておりません」


ノアは目録を受け取り、最初の頁へ目を通した。書類番号、作成日、署名者、証明する事実が、百二十七件分すべて記されている。訂正の跡は一つもなかったが、最後の数頁だけ文字が少し右へ傾いていた。


「これは、契約院が作るべき書類です」


「ですが、もう完成しています。調査官はご自分の仕事をなさってください」


「これも私の仕事です」


「では、証人への質問書を作ります。マーサの証言には、解雇日と侯爵夫人の命令との関係を補足したほうがよいと思います」


セレナは机に置かれた質問書を取り、空いている椅子へ座ろうとした。ノアは彼女の指から書類を抜き取る。紙の端が擦れ、小さな音を立てた。


「私の仕事を奪わないでください」


セレナの手が止まった。肩に掛けていた鞄がずり落ちたが、直すこともできない。侯爵夫人から仕事が遅いと叱られたときと同じように、頭の中で謝罪の言葉を探した。


「申し訳ございません。余計なことをいたしました。今後はご指示があるまで——」


「違います」


ノアは強く言ったあと、自分の声に驚いたように口を閉じた。書類を机へ置き、眼鏡を外して眉間を指で押す。昨夜も遅くまで働いたらしく、目の下には薄い影があった。


「言い方を誤りました。あなたが役に立たないからではありません」


「では、なぜ止めるのですか」


「あなたがすべてを終わらせたら、私はあなたのために働けません」


セレナは返事ができず、机の端に残された胡桃パンを見た。紙袋には油が丸く染み、冷めた生地からも香ばしい匂いがする。ノアは眼鏡をかけ直し、少し困ったように続けた。


「私も、あなたの役に立ちたいのです」


「私の、役に?」


「はい。あなたが依頼人だからという理由だけではありません。これまで一人で証拠を集めた方に、審理まで一人で背負わせるなら、契約院は何のためにあるのでしょう」


「けれど、私が何もしなければ、ご負担が増えます」


「仕事の分担はできます。ただし、分担は一人が全部を引き受けることではありません」


ノアは机の引き出しから白い紙を取り出し、中央へ一本の線を引いた。左側にセレナ、右側に契約院と書く。セレナの欄には事実関係の確認と本人しか知らない情報の補足、契約院の欄には証拠目録、質問書、証人保護、法的な主張と記した。


「あなたが担当するのは、こちらです」


「四分の一ほどしかありません」


「十分です」


「残りを本当に、お任せしてよいのでしょうか」


「任せてください。私が間違えたときは、確認をお願いします」


任せるという言葉を聞き、セレナは指先を握ったり開いたりした。レオナールは仕事を押しつけるときに「任せた」と言ったが、失敗すればすべて彼女の責任にした。ノアの言う任せるは、それとは反対だった。


「では、証拠目録はお願いいたします」


「承りました」


「質問書も」


「はい」


「胡桃パンを食べることも、ご自分でなさってください」


ノアは机の端へ目を向けた。忘れていたらしく、紙袋を持ち上げて時刻を確認する。時計の長針は、予備審理の開始まで三十分を示していた。


「これは、仕事に含まれますか」


「体調管理も調査官の責任だと、先日おっしゃいました」


「言った覚えがあります。自分で守らなければ説得力がありませんね」


ノアは胡桃パンを二つに割った。以前と違い、セレナへ差し出さず、自分で片方を食べる。セレナもリタが持たせたチーズ入りの小さなパンを鞄から出し、同じ机で食べた。


予備審理は、契約院の三階にある小法廷で開かれた。窓辺には白い木香薔薇が飾られ、証言台の横では古い暖炉が使われないまま灰を残している。ガストン侯爵は深緑色の礼服を着て現れ、ベアトリス侯爵夫人とレオナールも、その後ろへ並んだ。


侯爵家側には三人の代理人がついていた。最年長の代理人は分厚い書類を卓上へ置き、眼鏡の位置を直す。彼らの前には昼食用らしい銀の弁当箱があり、中から焼いた鴨肉と香草の匂いが漏れていた。


「まず、ガストン・ヴァルモント侯爵。あなたは、セレナ・アルフェルト嬢に対する無報酬労働の命令を認めますか」


審理官が尋ねると、侯爵は胸を張った。昨夜まで怒鳴っていた人物とは思えないほど、落ち着いた声を作っている。彼は息子を一度見てから答えた。


「そのような命令をした覚えはない。領地の仕事を任せていたのは息子だ。それは息子が勝手にしたことだ」


レオナールが横を向いた。自分が責任を押しつけられるとは考えていなかったらしく、口を半分開けて父親を見る。ベアトリス侯爵夫人は扇を広げ、二人の間を見ないようにした。


「父上、私だけで決めたことでは——」


「黙れ。領地経営の勉強として、お前に一部を任せただけだ。まさか婚約者へ無理をさせていたとは知らなかった」


「ですが父上も、確認書へ署名したではありませんか!」


「お前から、婚約者が自発的に手伝っていると聞かされていたのだ」


レオナールの顔が赤くなった。彼は父親の袖をつかもうとしたが、代理人に止められる。審理官は二人のやり取りを記録させ、ノアへ証拠の提示を求めた。


ノアは一人で立ち上がった。セレナが準備した書類をそのまま読むのではなく、彼自身が調べた順序で並べ直してある。最初に提出したのは、ガストン侯爵が各事業の開始前に発行した命令書だった。


「水路事業、織物事業、慈善院会計の三件について、ガストン侯爵本人の署名があります。いずれにも、実務担当者としてセレナ嬢の名前が記載されています」


「息子から聞いた名前を書いただけだ」


「では、こちらをご覧ください」


次に出されたのは、セレナが報酬を求めた十二通の書類だった。うち五通には、ガストン侯爵本人が『婚約者として無償で行うべきもの』と書き添えている。署名だけでなく、侯爵家の公印も押されていた。


「この回答も、息子が勝手に書いたのですか」


「私の署名を使わせていた」


「魔力印は、本人以外には使用できません」


「それは……内容を読まずに押したのだ」


「読まずに公印を使用したのであれば、侯爵としての監督責任をお認めになるのですね」


侯爵の口が止まった。責任を息子へ押しつければ、自分の署名が残る。署名を否定すれば、領主として公文書を確認しなかった責任が生じる。彼がどちらを選んでも、命令への関与は消えなかった。


「これは、言葉の罠だ!」


「いいえ。署名した書類の確認です」


ノアは淡々と答え、証拠を審理官へ渡した。セレナは何もせず、自分の席に座っていた。指先が動きそうになるたび、机の下で膝へ手を置く。


ノアは彼女の助けを求めなかった。書類を取り違えず、日付も署名者も正確に読み上げている。セレナが働かなくても、審理は止まらなかった。


審理官は次に、ベアトリス侯爵夫人へ質問した。


「あなたはセレナ嬢へ、使用人の管理、客室の清掃、衣装の修繕を命じましたか」


「命じたのではありません。未来の娘として教育しただけです」


「無報酬で働くよう求めたことは?」


「家族になる者へ、報酬を払う必要があるのですか。母親が娘に家事を教えて、賃金を払いますか?」


侯爵夫人は扇を閉じ、勝ち誇ったようにセレナを見た。審理官は記録係へ合図を送り、今の発言を書き留めさせる。ノアは別の資料を手に取った。


「ヴァルモント侯爵家には、実のご令嬢が二人いらっしゃいますね」


「それが何です」


「お二人が客室を清掃した記録、使用人の勤務表を作成した記録、夜会後に百二十枚の布巾を洗った記録はありますか」


「娘たちは嫁いでおります。それぞれの家で立派に——」


「婚約中、同じ教育を受けましたか」


侯爵夫人は答えなかった。ノアは侯爵家の元侍女長マーサが保管していた勤務記録を提出する。セレナだけが、実の娘にも使用人にも割り当てられていない仕事をしていた事実が、日付と時刻つきで残されていた。


「セレナ嬢を娘として教育したのではありません。娘にはさせない労働を、婚約者という立場を利用して負わせたのではありませんか」


「違います!」


「では、違うことを示す資料をご提出ください」


侯爵夫人は扇を強く握った。竹の骨が一本折れ、絹の布を内側から突き破る。彼女は折れた扇を卓上へ置き、代理人へ何か耳打ちした。


午前の審理が終わるころには、用意されていた水差しが空になっていた。侯爵家の代理人たちは弁当箱を持って別室へ向かい、廊下には鴨肉の香りが残った。セレナは椅子から立ったが、足元に置かれた書類へ手を伸ばさなかった。


「目録を片づけましょうか」


「私が行います」


ノアはそう答え、一人で書類を番号順に箱へ戻した。セレナは手を出さず、窓辺の木香薔薇を見た。花弁の間には小さな虫が入り込み、黄色い花粉を背につけて動いている。


「何もしないで座っているのは、難しいですね」


「そうでしょうね」


「それでも審理は進みました」


「あなたがこれまでに証拠を集めたからです。今日は、私が使う番でした」


「役に立たなくても、ここにいてよいのでしょうか」


ノアは書類箱の蓋を閉じた。封印紐を結び終えてから、ようやくセレナを見る。その目は、彼女の答えを試すようなものではなかった。


「証言する日も、働く日もあります。座って見ている日もあります。どの日であっても、あなたはこの審理の当事者です」


「仕事をしない日だけ、追い出されたりはしませんか」


「追い出しません」


ノアは短く答えたあと、少し考えて言い直した。


「正確には、私にあなたを追い出す権利はありません。あなたが帰りたいときは、ご自分で帰れます」


セレナは椅子の背へ掛けていた外套を取った。自分で着ようとして袖口を裏返しにしたが、ノアは勝手に直さず、気づくまで待っている。セレナは袖を戻し、釦を一つずつ留めた。


廊下へ出ると、昼休みの職員たちが食堂へ向かっていた。豆と燻製肉を煮た匂いが階段まで漂い、誰かが焼きすぎたパンを焦がしたらしく、香ばしい煙も混ざっている。セレナの腹が小さく鳴った。


「昼食になさいますか」


「はい。ただし、今日は私がごちそうします」


「理由は?」


「今日の私は、あなたの仕事を一つもしていません。それでも審理が進んだお祝いです」


ノアは断らなかった。二人は契約院の食堂へ入り、焼きすぎた黒パンと豆の煮込みを一皿ずつ注文した。セレナはノアの皿へ自分の肉を移さず、自分の匙で最後まで食べた。


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