第5話 準備完了
第5話 準備完了
婚約破棄を告げられる日の朝、セレナはいつもと同じ時刻に起きた。昨夜のうちに洗っておいた白い手袋を窓辺へ干し、冷たい水で顔を洗う。庭では薄桃色の芍薬が咲き始め、開けた窓から湿った土と若い葉の匂いが入ってきた。
朝食は黒パンと玉葱のスープだった。スープには昨夜の残りらしい小さな馬鈴薯が一つ沈み、黒パンの端は乾いて反り返っている。セレナはパンをスープへ浸し、急がずに食べた。
「お嬢様、本当に灰青色のドレスをお召しになるのですか」
リタは衣装棚から、祝賀会で着たドレスを取り出した。袖口には六枚の花びらを持つ勿忘草が並び、裾の内側には靴で踏んだ跡が残っている。侯爵夫人からは、今夜のために目立たない茶色のドレスを着るよう命じられていた。
「これでよいのです。あの方々の色ではなく、私が選んだ色を着ます」
「でも、袖が少し擦れています」
「二年二か月、よく働いた袖です。最後まで着ます」
「では、花だけでも新しくいたしましょう」
リタは庭から摘んだ鈴蘭を一本、セレナの髪へ挿した。小さな白い花からは、顔を近づけなければ分からないほど控えめな香りがする。鏡の中のセレナは昨日までと同じ顔をしていたが、今日は唇へ侯爵夫人が嫌う深い薔薇色を差していた。
机の上には、革鞄と小さな旅行箱が置かれていた。旅行箱の中身は、仕事着が二着、下着、母の形見の髪飾り、リタが焼いた胡桃菓子、秘密の帳面だけである。二年暮らした部屋なのに、持ち出す私物は片手で数えられるほどしかなかった。
「少なすぎませんか」
「家具も寝具も侯爵家の物です。借りた物は持っていきません」
「その理屈ですと、侯爵家が借りた物は、全部返していただかなければなりませんね」
「ええ。そのための一覧も作りました」
セレナが鞄をたたくと、中で紙の束が乾いた音を立てた。リタはその音を聞き、ようやく口元を上げる。窓辺では洗った手袋が風に揺れ、片方の指先だけがまだ濡れていた。
夕刻になると、侯爵邸の大食堂へ招待客が集まった。長卓には銀の燭台と白い芍薬が飾られ、仔羊の香草焼き、鱒の葡萄酒蒸し、春豆の温かなサラダが並んでいる。料理の匂いに混じって、ヴィオラがつけた薔薇の香油が部屋中へ漂っていた。
ヴィオラは赤い絹のドレスを着ていた。胸元では、返却期限を二日過ぎたサファイアが輝いている。椅子の背にはセレナの紺色の外套まで掛けられていた。
「まあ、セレナ様。そのドレス、先日の祝賀会でもお召しになっていましたわね」
「はい。まだ着られますから」
「今夜は大切な発表があるのです。もう少し身なりに気を配ったほうがよろしいのではなくて?」
「ヴィオラ様は十分に気を配っておられますね。お借りになった宝石と外套を、ご自分の衣装のように合わせていらっしゃいますから」
ヴィオラは胸元のサファイアへ手を置いた。近くにいた彼女の母が眉をひそめたが、セレナは会釈して自分の席へ座る。目の前の皿には料理が載っておらず、給仕も彼女の後ろだけを通り過ぎた。
「私の料理は、まだでしょうか」
「お前は食事をしに来たのではない」
レオナールは長卓の上座に立っていた。金糸の刺繍が入った白い礼服を着て、左手には葡萄酒の杯を持っている。すでに何杯か飲んだらしく、頬と耳が赤くなっていた。
「皆様、今夜お集まりいただいたのは、ヴァルモント家の将来に関わる重大な決定をお伝えするためです」
招待客たちが会話をやめた。ガストン侯爵は昨夜の虚偽署名について一言も触れず、平然と息子の隣に座っている。上着は新しい物へ替えられていたが、右の袖口には慌てて葡萄酒を拭いたときの赤い染みが、爪の間にわずかに残っていた。
「私、レオナール・ヴァルモントは、セレナ・アルフェルトとの婚約を、本日をもって破棄する!」
食堂に声が響いた。ヴィオラは驚いたふりをして両手で口を覆ったが、椅子の下には新しい旅行鞄が置かれている。祝いの品を受け取る準備まで済ませてきたらしい。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
「お前には、侯爵夫人となる資質がない。婚約者である私を立てず、母上の指示にも不満ばかり口にする。慈善院へ契約院を引き入れ、父上を陥れようとまでした」
「帳簿と事実を確認しただけです」
「それが生意気だと言っている!」
レオナールは葡萄酒の杯を卓へ置いた。勢いで中身がこぼれ、白い卓布へ赤い染みが広がる。給仕が拭こうとしたが、彼は手で追い払った。
「それに、お前は契約院の男と何度も二人で会っているそうだな。私という婚約者がいながら、新しい男を作ったから裏切ったのか!」
招待客の間から小さな声が上がった。ヴィオラはうつむき、笑みを隠すように手巾を口元へ当てている。セレナが答える前に、食堂の扉が三度たたかれた。
「王立契約院です。正式な監査通知の執行に参りました」
扉が開き、ノアが二人の調査官とともに入ってきた。黒い制服の胸には銀色の徽章があり、手には封印を施した書類箱を持っている。ガストン侯爵は椅子から立ち上がり、給仕へ怒鳴った。
「誰が入れた! 今夜は私的な晩餐会だぞ!」
「昨日、監査への同意書へ署名なさった際、必要に応じて契約院職員の立ち入りを認めておられます」
「取り消す!」
「調査開始後の取り消しはできません。署名の前にも説明いたしました」
ノアはガストン侯爵へ告げたあと、セレナを見た。レオナールが彼女を侮辱した言葉も聞こえていたのだろう。書類箱を持つ指に力が入り、眉間には深い線が刻まれている。
それでも、ノアはセレナの代わりに反論しなかった。彼女を背へ隠すことも、レオナールへ謝罪を命じることもしない。セレナが自分の言葉を口にするための場所を残し、半歩離れた隣に立った。
「答えろ、セレナ! その男と通じていたのだろう!」
セレナはレオナールを見た。彼が浮気を重ねても耐え、仕事を奪われても支え、家族を守るために食事も衣装も削ってきた。それでも彼は、自分が捨てられる理由を、自分の中に捜そうとはしなかった。
「私があなたを捨てる理由に、ほかの男性は必要ありません」
「お前が、私を捨てるだと?」
「あなたがあなたであることだけで十分です」
レオナールの口が開いたまま止まった。招待客の一人が咳をし、誰かの銀の匙が皿へ落ちる。セレナは震えそうになる指を伸ばし、革鞄から一枚目の書類を取り出した。
「こちらが婚約破棄承諾書です。私も婚約の解消に同意いたします。ただし、侯爵家が負う債務と損害賠償については、別途請求いたします」
「債務などない!」
「ございます。まず、二年二か月分の未払い報酬です」
セレナは三人の署名が入った無報酬労働の確認書を卓上へ置いた。侯爵夫人が身を乗り出し、自分の署名を見つけて顔をこわばらせる。それでも彼女は、扇を強く握りながら声を上げた。
「セレナが自分から無報酬で働くと申し出た証拠でしょう!」
「いいえ。私の署名はございません。侯爵家が業務を命じ、報酬を支払っていないと認識していた証拠です」
「騙したのね!」
「記載内容をご確認いただき、相違がなければ署名をとお願いしました。皆様は相違がないと認めて署名なさいました」
セレナは次に、慈善院の二冊の帳簿を出した。鶏肉と小麦を買ったことになっている表向きの帳簿と、実際の納入量を記した帳簿である。続いて、侯爵夫人が料理人へ送った指示書を並べた。
「これは捏造です!」
「筆跡と印章は、すでに契約院が確認しております」
ノアが告げると、侯爵夫人は胸元を押さえた。ヴィオラは自分に関係のない話だと思ったらしく、サファイアの位置を直している。セレナは彼女の前へ、宝石と外套の返還請求書を置いた。
「ヴィオラ様には、貸出期限を過ぎたサファイアと外套を、ただちに返却していただきます」
「レオナール様からいただいた物ですわ」
「私の所有物です。レオナール様には贈与する権利がありません」
「でも、もう私のドレスに合わせてしまいましたのよ」
「色が合うことは、所有権の証明になりません」
ヴィオラはレオナールを見た。助けを求める視線を向けられた彼は、自分の身を守ることしか考えていないらしく、すぐに首を振る。彼女の胸元を指さし、早口で言った。
「貸しただけだ。私は贈るとは言っていない」
「一生大切にしてほしいとおっしゃったではありませんか!」
「宝石をとは言っていない!」
二人が言い争う間に、セレナは最後の書類を取り出した。銀行の完済証明書、侯爵が担保の権利証を受け取った記録、完済後も利息として金を徴収した十一通の受領証。そして、虚偽を示して黒く変色した署名書である。
ガストン侯爵の手が伸びたが、ノアが書類箱を間へ置いた。
「証拠への接触はお控えください」
「セレナ、考え直せ。お前の父親は私に逆らえない。アルフェルト家を潰されたくなければ、その書類を渡せ」
「父の借金は、昨年八月に完済されています」
「何の話だ」
「侯爵閣下ご自身が完済通知を受け取り、担保の権利証も持ち帰っておられます。その後、十一か月にわたり、存在しない利息を父から徴収しました」
「預かっていただけだ!」
「預り金の帳簿は、どこにございますか」
侯爵は答えられなかった。暖炉で薪が崩れ、赤い火の粉が小さく跳ねる。温かかった仔羊の香草焼きは脂が白く固まり、誰も手をつけなかった春豆のサラダからは酢の匂いだけが強くなっていた。
「突然、このような書類を出されても確認できん!」
「突然ではございません」
セレナは革鞄から、受領印の押された通知書を取り出した。無報酬労働については十二回、慈善院の会計については四回、借金残額の開示については七回、書面で確認を求めている。いずれも侯爵家は受け取りながら、調査せずに却下していた。
「皆様が読まなかっただけです」
ガストン侯爵は椅子へ手をついた。レオナールはまだ婚約破棄を撤回すれば支配権を取り戻せると思ったのか、セレナへ手を伸ばした。
「待て。お前の態度次第では、婚約破棄を取り消してもいい」
「必要ありません」
「侯爵夫人になれなくなるんだぞ」
「なる必要がなくなりました」
「伯爵家の行き遅れが、一人でどうやって生きていく!」
セレナは革鞄を閉じた。二年二か月前なら、その言葉を聞いただけで、食べた物を戻すほど身体が縮んだだろう。今夜は空腹だったが、リタが旅行箱へ入れた胡桃菓子があることを思い出せた。
「働いて、生きていきます。これまでと同じです。ただし、今度は自分の名前で働き、報酬を受け取ります」
ノアが監査開始を宣言すると、二人の調査官が侯爵家の帳簿と金庫を封印した。使用人たちは解雇や口封じを禁止され、証言を希望する者には契約院の保護が与えられる。ガストン侯爵が怒鳴っても、誰も封印へ触れなかった。
セレナは席を立ち、ヴィオラから返された紺色の外套を受け取った。薔薇の香油が染みついていたが、外へ出れば夜風が少しずつ匂いを薄めてくれる。サファイアも確認し、受領書の返却欄へヴィオラの署名をもらった。
「これで満足ですか」
「記録が正しくなりました。それだけです」
玄関では、リタが旅行箱を持って待っていた。セレナが扉へ向かうと、レオナールが食堂から追いかけてくる。彼は片方の靴を履き損ね、踵を踏んだまま廊下を走っていた。
「セレナ、戻れ! 私はまだ話を終えていない!」
セレナは立ち止まらず、玄関の扉を開けた。外では雨上がりの風が吹き、庭の鈴蘭が月明かりの下で揺れている。白い花の匂いは弱かったが、薔薇の香油に負けず、確かにそこにあった。
ノアはセレナの前を歩かなかった。後ろから急かすこともなく、半歩離れた隣に立つ。門の外には契約院が用意した馬車が待っていたが、彼は乗るよう命じず、セレナが行き先を告げるのを待った。
「アルフェルト伯爵家へ帰られますか」
「いいえ。契約院が紹介してくださった宿へ参ります。父と弟に会うのは、侯爵家が権利証を返還してからにします」
「承知しました」
「リドウェル様」
「はい」
「昨夜、準備は完了したと思っておりました。でも、一つだけ残っていました」
ノアは続きを促さず、彼女を見る。セレナは振り返り、二年二か月暮らした侯爵邸を見上げた。明るい窓の向こうではレオナールがまだ何かを叫んでいたが、厚い扉を閉めると声は聞こえなくなった。
「この扉を、自分の手で閉めることです」
セレナは取っ手から手を離した。誰かに捨てられたのではない。準備を終え、自分で選び、自分の足で出てきた。
「行きましょう」
「はい」
ノアは彼女を導かず、隣を歩き始めた。セレナの歩幅が小さくなれば速度を緩め、広がれば同じだけ前へ進む。二人の間には半歩の距離があり、その距離には命令も、借金も、返済を求められる親切もなかった。




