第4話 最後の言い訳
第4話 最後の言い訳
アルフェルト伯爵家の借金は、セレナが十五歳の春に作られた。父が共同経営者に印章を預け、その男が伯爵家の名義で大量の毛織物を仕入れたまま隣国へ逃げたためである。残された借用証書には金貨二人分ではなく、金貨二千枚と書かれていた。
ヴァルモント侯爵は、借金の肩代わりと引き換えにセレナをレオナールの婚約者とした。当時十八歳だったセレナは、父と十二歳の弟が屋敷を追われずに済むなら、侯爵家の求めに応じようと署名した。それから二年二か月、レオナールは彼女が仕事を断るたびに、その借金の話を持ち出している。
その朝も、セレナが食堂へ入ると、レオナールは焼いた白パンへ橙の蜂蜜を塗りながら言った。
「今月の舞踏会には、ヴィオラの姉も招待する。ドレスを二着用意してくれ」
「先月、ヴィオラ様へ三着お贈りになっています。衣装費の予算は残っておりません」
「水路事業の利益があるだろう」
「あれは秋の種麦を購入するための資金です」
「侯爵家の金をどう使おうと、君が口を出すことではない」
レオナールは蜂蜜のついた匙を皿へ置き、指先を布巾で拭いた。卓上には薄桃色の芍薬が飾られていたが、花瓶の水は替えられておらず、茎から青臭い匂いがする。セレナは前日に水を替えるよう頼んだものの、侯爵夫人が「花は数日で捨てるのだから、手間をかける必要はない」と断っていた。
「種麦を買えなければ、来年の収穫に影響します」
「では、君の実家から借りればいい」
「アルフェルト家には、その余裕はございません」
「誰のせいで余裕がないと思っている。父上が借金を肩代わりしてくださったことを忘れたのか?」
セレナは膝に置いた手を組み直した。爪の横には、昨夜、書類を綴じたときについた小さな傷がある。指先へ爪を立てそうになり、代わりに冷めかけた紅茶の取っ手をつかんだ。
「忘れておりません。現在の残額を確認したいので、借用証書を見せてください」
「必要ない。父上が管理している」
「これまでの返済額も教えていただけないのでしょうか」
「君は本当に恩知らずだな。侯爵家が援助を打ち切れば、アルフェルト家は一月も持たないんだぞ」
レオナールは二枚目の白パンを取り、蜂蜜をたっぷり塗った。セレナの皿には、端が焦げた黒パンと薄い林檎が二切れ載っている。以前は同じ朝食だったが、侯爵夫人が食費を節約すると言い出してから、セレナの分だけ使用人用の献立へ変えられていた。
セレナは黒パンを一口かじり、いつもどおりうなずいた。蜂蜜の香りが漂うなか、口の中には固い皮の苦みが残る。それでも今日は、その苦みを水で流さず、最後まで噛んで飲み込んだ。
「承知いたしました。私の立場を忘れないようにいたします」
「分かればいい。今日中にヴィオラたちのドレスを注文しろ」
食堂を出たセレナは、自室へ戻らなかった。玄関で灰青色の外套を着ると、預けてあった革鞄をリタから受け取る。鞄の中には、織物事業の配当記録と、アルフェルト家から届いた十七通の送金証明書が入っていた。
「本当に、お一人で行かれるのですか」
「契約院でリドウェル調査官と待ち合わせています」
「それなら安心です」
「まだ、安心できる結果になるとは限りません」
セレナはそう答えたが、外套の襟を直す指は、以前より滑らかに動いた。リタは小さな籠を差し出し、中に昼食用のチーズ入りパンと林檎を入れていた。以前なら一つしか用意しなかったパンが、今日は二つ入っている。
「調査官へ差し上げる分ではありませんよ。二つとも、お嬢様の分です」
「二つは食べきれないかもしれません」
「残ったら夕食になさってください。人に渡してはいけません」
「命令ですか」
「侍女からのお願いです」
リタは眉間に皺を寄せたまま、籠の蓋を閉じた。セレナは小さくうなずき、屋敷を出る。夜の雨で洗われた石畳には朝日が反射し、道端の青い矢車菊が風に揺れていた。
王都第一銀行は、商業地区の中央にある白い石造りの建物だった。正面扉には金色の獅子が彫られ、入口の左右には赤いゼラニウムの鉢が置かれている。室内へ入ると、硬貨の金属臭と、帳簿へ使う革の匂いが混ざっていた。
ノアは窓口の前で待っていた。今日は契約院の黒い制服ではなく、濃紺の上着に灰色のズボンを着ている。胸の徽章は外していたが、右手には正式な調査立会人であることを示す封印書を持っていた。
「お待たせいたしました」
「約束の時刻まで、あと五分あります」
「先にいらしたのですね」
「遅刻しないように来ると、早く着きすぎます。直そうとは思っています」
ノアはそう言いながら、待合所の卓上へ置いた紙袋を持ち上げた。中から焼いた胡桃の匂いがする。セレナが見ていることに気づくと、彼は袋の口を折った。
「朝食を買いましたが、食べる時間を間違えました」
「朝食を食べる時間に、正解があるのですか」
「始業前が正解です。昼前まで持ち歩くのは不正解でしょう」
セレナは口元を手で隠した。笑うつもりはなかったが、ノアがあまりにも真面目な顔で言うため、息が少し漏れた。ノアは何がおかしいのか分からない様子で、それでも紙袋を鞄へしまった。
二人は銀行の応接室へ案内された。深緑色の絨毯が敷かれた部屋には、金色の房をつけたカーテンがあり、窓辺の鉢では白いクチナシが一輪だけ咲いていた。銀行員は盆へ載せた薄荷茶を出したが、自分の分だけ砂糖を三つ入れ、一口飲んでから入れすぎたような顔をした。
「アルフェルト伯爵家の借入金について、確認を希望されるのですね」
「はい。契約者本人である父から、照会の委任状を預かっております」
セレナは父の署名と魔力印がある委任状を渡した。銀行員は光へ透かし、印章の形を確認してから、奥の金庫へ向かう。戻ってきた彼の手には、分厚い帳簿と茶色い封筒があった。
「当初の借入額は金貨二千枚。ヴァルモント侯爵家がいったん全額を代位弁済し、その後、アルフェルト伯爵家から侯爵家へ返済する契約となっております」
「現在の残額を教えてください」
「残額はございません」
室内では壁時計が動いていた。長針が一つ進むたび、歯車の音が小さく鳴る。セレナは膝の上に置いた両手を見たまま、次の言葉を待った。
「もう一度、お願いいたします」
「元金、利息ともに完済されております。完済日は昨年の八月十七日です」
「昨年の、八月ですか」
「はい。アルフェルト伯爵家からの返済に加え、セレナ様が考案された織物事業の配当金を充当しております。こちらがその記録です」
銀行員は帳簿を開き、入金の内訳を示した。最後の金貨百二十枚は、セレナが新しい織機を導入して得た利益から支払われている。その翌月も、その次の月も、侯爵家はアルフェルト伯爵家から利息として金貨二十枚を受け取っていた。
「完済後の入金は、銀行を通しておりません。ヴァルモント侯爵家が直接受け取っています」
ノアが送金証明書を並べた。十七通のうち十一通は、完済後に発行されたものだった。名目はいずれも『借入金利息』であり、受領欄にはガストン侯爵の印章が押されている。
「侯爵は、完済を知らなかった可能性がありますか」
セレナが尋ねると、銀行員は別の書類を取り出した。完済時に債権者へ送られた通知書の控えである。受領証にはガストン侯爵本人の署名と魔力印があった。
「侯爵様は、完済の三日後にこちらへお越しになっています。担保として保管していたアルフェルト領の権利証も、すでに返却いたしました」
「その権利証は、父のもとへ届いておりません」
「ヴァルモント侯爵様がお持ち帰りになりました。債務整理を担当しているため、自分が届けるとおっしゃいました」
セレナは薄荷茶へ手を伸ばした。しかし、指先がカップの取っ手へうまくかからず、受け皿と触れ合って乾いた音がした。ノアは代わりに取ろうとせず、カップが倒れないよう受け皿の端だけを押さえた。
「完済証明書と、権利証を侯爵へ渡した記録を発行していただけますか」
「ご本人の委任状がありますので、可能です。ただし少々お時間をいただきます」
銀行員が部屋を出たあと、セレナは窓辺のクチナシを見た。一輪だけ早く咲いた花は重たそうに首を傾け、白い花弁の一枚に茶色い傷がついている。それでも濃い香りは部屋の隅まで届いていた。
「昨年の八月から、十一回も払わせていました」
「はい」
「父は冬に暖房用の薪を半分に減らしました。弟は学校を辞め、領地の仕事を手伝っています」
ノアは返事を急がなかった。セレナも慰めの言葉を待っているのではなく、卓上に並んだ送金証明書を日付順に重ねた。紙の角を揃えているうちに、爪の横の傷が開き、小さな血がにじんだ。
「私がもっと早く調べていれば」
「完済を知らせる義務は、債権者であった侯爵家にあります」
「それでも、私は帳簿を扱っていました」
「侯爵家の内部帳簿ですね。銀行の記録を閲覧する権限は与えられていなかった」
「疑うことはできました」
「疑ったから、今日ここへ来たのでしょう」
ノアはそれ以上何も言わなかった。セレナも返事をせず、指先へ手巾を巻いた。やがて銀行員が戻り、王都第一銀行の印章が押された完済証明書と、侯爵が権利証を受け取った記録を差し出した。
銀行を出るころには、昼を過ぎていた。春の日差しは明るかったが、セレナの足元では石畳がわずかに揺れているように見えた。完済証明書を鞄へ入れようとしても留め具を閉じられず、指が何度も空をつかんだ。
「少し座ります」
建物の脇には、街路樹を囲む木製のベンチがあった。セレナはそこまで歩こうとしたが、途中で膝から力が抜け、石段の端へ座り込む。通りを走る荷車の音と、露店で魚を焼く匂いが急に近くなった。
ノアは腕をつかまなかった。立てるかと尋ねることも、侯爵家から守ると約束することもしない。少し離れたベンチへ水筒を置き、自分も隣へ腰を下ろした。
「ここにおります。ご自分で立てるまで、急ぐ必要はありません」
セレナは石段に座ったまま、ノアの横顔を見た。彼は彼女を見張らず、通りの向こうにある花屋を眺めている。店先には桃色の芍薬と青い矢車菊が並び、店主の猫が空になった花籠の中で丸くなっていた。
「父と弟を守るためだと思っていました」
「はい」
「侯爵家へ逆らえば、二人の家がなくなると。だから仕事を断れませんでした」
「はい」
「もう、昨年から守る必要はなかったのですね」
ノアはすぐに否定しなかった。セレナが払った時間まで無駄だったと言えば、彼女が二年間積み重ねたものを軽く扱うことになる。彼は水筒を開け、セレナの手が届く場所へ置いた。
「昨年の八月からは、借金を理由に従わせる権利が、侯爵家にはありませんでした」
セレナは水筒を取り、少しずつ水を飲んだ。冷たい水には輪切りの檸檬が入っており、口の中へ薄い酸味が広がる。一口、二口と飲むうちに、肩の高さが少しずつ下がった。
「リドウェル様は、なぜ私を立たせようとなさらないのですか」
「今すぐ立つ必要がないからです」
「ここは道端です。通行人に見られます」
「具合の悪い人が座ることは、恥ではありません。もし石段を塞いでいると言われたら、私が事情を説明します」
「私を抱えて、馬車まで運ぶこともできます」
「必要でしたら、そうします。ただし、あなたが頼んでからです」
セレナはもう一口水を飲んだ。レオナールなら、周囲へ親切な婚約者だと見せるため、返事を待たずに腕を引いただろう。侯爵夫人なら、みっともないから立てと命じたはずだった。
ノアは隣にいるだけだった。身体へ触れず、答えを急かさず、セレナが自分で決めるための時間を奪わない。彼の隣では、胸の奥まで空気が入った。
しばらくすると、セレナは石段へ手をついて立ち上がった。足はまだ少し震えていたが、自分の体重を支えられる。ノアも立ったものの、彼女の前へ手を差し出さず、半歩離れたところで歩調を合わせた。
「もう歩けます」
「では、昼食にしましょう」
「契約院へ戻らなくてよろしいのですか」
「戻ります。ただし、空腹のままでは、あなたが次の判断を誤る可能性があります。私も朝食を昼まで持ち歩いた人間ですから、偉そうには言えませんが」
ノアは鞄から、朝の胡桃パンを取り出した。紙袋の底には油が染み、パンは少し潰れている。セレナもリタから渡された籠を開き、二つのチーズ入りパンを見せた。
「二つとも私の分だそうです」
「では、私の分はありませんね」
「胡桃パンと一つ交換なら、貸し借りにはなりません」
二人はベンチへ座り直し、パンを一つずつ交換した。冷めた胡桃パンは端が固かったが、噛むと香ばしい甘みが出た。セレナはチーズ入りパンも半分残さず食べ、林檎だけを夕食用に籠へ戻した。
侯爵邸へ戻る前に、セレナは契約院で一通の確認書を作成した。そこには、ヴァルモント侯爵家が現在もアルフェルト伯爵家の債務を負担していること、返済完了までセレナが侯爵家の命令に従うことが記されていた。完済証明書については、一言も書かなかった。
夕方、ガストン侯爵は執務室で葡萄酒を飲んでいた。窓辺には昼の芍薬が移され、暖炉の熱で花弁の先が縮れている。侯爵は確認書を一読すると、満足そうに顎を撫でた。
「ようやく、借金を返す責任を理解したようだな」
「確認のために伺います。ヴァルモント侯爵家は、現在もアルフェルト伯爵家の借金を負担しているのですね」
「当然だ。お前の家は一枚の金貨も返していない」
「借金は、まだ完済されていないのですね」
「何度言わせる。金貨二千枚と利息が残っている。侯爵家が援助を打ち切れば、お前の父親は明日にでも屋敷を失うぞ」
「その内容に間違いがなければ、こちらへご署名ください」
侯爵は机上の筆を取り、確認書へ名前を書いた。最後に指輪の魔石を押しつけると、青白い光が署名欄へ染み込む。虚偽のない契約なら文字は銀色に輝くはずだった。
しかし、ガストン侯爵の名前は、端からゆっくり黒く変わった。濡れた紙へ煤を落としたように黒い筋が広がり、署名欄を覆っていく。侯爵は目を見開き、慌てて紙を裏返した。
「何だ、これは。契約紙の不良だ」
「王立契約院で発行された用紙です」
「お前が細工したのだろう!」
「侯爵閣下は、銀行から完済通知を受け取っておられます。担保の権利証も、昨年の八月にお持ち帰りになりました」
セレナは鞄から完済証明書の写しを取り出した。侯爵の顔から色が引き、今度は葡萄酒をこぼして机の上を赤く濡らす。彼は布巾を捜したが見つからず、袖で拭ったため、高価な上着へ紫色の染みが広がった。
「誤解だ。これは、お前のためだった」
「何が私のためだったのでしょう」
「返済する習慣を失えば、アルフェルト家がまた浪費するかもしれない。金は預かっていただけだ」
「預り金の帳簿を見せてください」
「今すぐには出せない」
「では、いつ出せますか」
「生意気な口を利くな。婚約者なら、侯爵家を疑わず従え!」
セレナは返事をせず、黒く変色した確認書と完済証明書を鞄へしまった。侯爵が取り返そうと立ち上がったとき、扉の外で待機していたノアと二人の契約院職員が入室する。虚偽署名の確認には、第三者の立ち会いが必要だった。
「ガストン・ヴァルモント侯爵。今の発言と署名は、すべて記録しました」
「これは家族間の問題だ。契約院が口を挟むことではない」
「債務完済後に金銭を徴収し、虚偽の債務を理由に労働を強いた疑いがあります。家族という言葉で、調査を免れることはできません」
侯爵はセレナへ向かって、恩を忘れた女、誰のおかげで暮らせたと思っている、と声を上げた。ノアは彼女の前へ立って庇わなかった。セレナが自分で退室できるよう、扉だけを開けて待った。
自室へ戻ると、窓の外は薄い橙色に染まっていた。リタが取り込んだ洗濯物から、日に温められた綿布の匂いがする。机には残しておいた林檎があり、半分に切ると、中心の種が一つだけ割れていた。
セレナは秘密の木箱を開けた。無報酬労働の確認書、慈善院の二重帳簿と指示書、そして完済証明書と黒く変色した虚偽署名を、順番に並べる。もう空けておく場所はなかった。
「お嬢様」
リタは声を抑えながらも、扉を閉める手を何度も滑らせた。
「旦那様が、明日の晩餐会で婚約について重大な発表をすると。ヴィオラ様のご家族も招くそうです」
「そうですか」
「きっと、婚約破棄です。どうなさいますか」
セレナは秘密の帳面を開いた。最後に残った空欄へ線を引くと、短くなった鉛筆を木箱へ戻す。外では夕風が吹き、庭の鈴蘭が小さく揺れていた。
「何もする必要はありません」
「でも、明日までしかありません」
「いいえ。明日になればよいのです」
セレナは三本の線が引かれた頁を閉じた。侯爵家が使う言い訳は、もう一つも残っていない。二年二か月を費やした準備が、ようやく終わった。
「準備完了です」




