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第10話 ドアマットではなく、家の主人

第10話 ドアマットではなく、家の主人


公開審理から一年後、セレナは王都の東にある小さな屋敷で暮らしていた。赤茶色の屋根と白い壁を持つ二階建てで、玄関の前には丸い飛び石が七つ並んでいる。庭では初夏の白薔薇と青い矢車菊が咲き、低い生垣の近くに植えた鈴蘭は、今年初めて十六輪の花をつけた。


屋敷は広くなかった。客室は一つだけで、食堂には六人掛けではなく四人掛けの卓が置かれている。台所の棚には大きさの違う皿が並び、窓辺では洗った布巾が風に揺れていた。


それでも、この家にある物はすべてセレナが選んだ。寝台の硬さも、カーテンの灰青色も、食器棚の高さも、玄関へ置いた深緑色の敷物も、誰かの許可を得る必要はなかった。食堂の壁には母から譲られた古い時計が掛かっているが、毎日五分ほど遅れるため、正確な時刻を知りたいときには台所の時計を見ることにしていた。


「お嬢様、この時計は修理へ出しましょう」


リタは朝食の皿を下げながら、壁の時計を見上げた。彼女はセレナの侍女ではなく、正式な家政管理人として雇用契約を結んでいる。勤務は週五日、休憩は昼に一時間、給金は月初に支払われ、有給休暇も年に二十日あった。


「五分遅れることが分かっているなら、困りません」


「お客様まで五分遅れてしまいます」


「この家のお客様は、約束より十分早く来る方が一人しかいません」


「では、玄関の扉を十分早く開けておきますか」


「開けません。ノアは自分でたたきます」


リタは納得したように、焦げた卵焼きの皿を重ねた。今朝の卵はセレナが焼き、裏側だけ黒くしてしまった。蜂蜜を塗った白パンと一緒に食べたが、焦げたところをおいしいとは言わず、次は火を弱くしようと帳面へ書いてある。


セレナは王立契約院の外部監査官として、週に四日働いていた。主な仕事は、婚約や養子縁組に伴う無償労働を調べ、立場の弱い者が不利な契約を結ばされていないか確認することである。以前のように夜明けまで働くことはなく、勤務時間を越える仕事には、翌日の予定を変更するための申請が必要だった。


彼女が提案した新制度では、貴族家の婚約者へ領地経営や家事を任せる場合、業務内容と報酬を記録しなければならない。家族になる予定だからという理由で、無期限に働かせることも禁じられた。制度の案内書には、細かな文字を読めない者のために絵入りの頁も作られ、フィンが最初の確認役を務めた。


フィンは王立契約院の奨学生となり、午前は学校、午後は会計の実習に通っている。細かな数字を見ることが好きなのは変わらず、先月は食堂のパンが一日二個足りないことに気づいた。調べてみると盗難ではなく、料理人が自分の昼食を数え忘れていただけだった。


聖カリナ慈善院では、今日も肉入りのスープが出されている。料理人、教師、医師、寄付者の代表が毎月帳簿を確認し、子どもたちも献立と納入量を見られるようになった。玄関には紫色の菫が植えられ、以前、濁った水の瓶へ挿されていた三輪の花よりも、ずっと多く咲いている。


侯爵夫人だったベアトリスは、横領金を返済するため、宝石と衣装をすべて手放した。彼女が慈善院の食料で開いていた茶会の客は、今では一人も訪ねてこない。王都の小さな貸家で、自分の食事を自分で用意して暮らしているが、豆のスープを焦がしても、叱る使用人はいなかった。


ガストンは侯爵位を停止され、領地の管理権も失った。ヴァルモント家の屋敷は売却され、現在は職業訓練所として使われている。かつてセレナが寝ずに働いた執務室には十台の机が置かれ、平民の娘たちが会計と契約書の作り方を学んでいた。


レオナールは、織物工房の倉庫で働いている。朝は決められた時刻までに出勤し、入荷した羊毛の重さを量り、数字が合わなければ最初から数え直す。作業を他人へ押しつければその日の賃金が減り、遅刻をすれば理由を記録しなければならなかった。


一度だけ、レオナールからセレナへ手紙が届いた。自分が失敗したのは父親に正しい仕事を教えられなかったからであり、セレナが妻として支えていれば、今のようにはならなかったと書かれていた。最後には、もう一度だけ会って話し合いたいとも記されていた。


セレナは返事を書かなかった。手紙は契約院へ提出する必要もないため、台所の火を起こす紙として使った。レオナールの名前が赤い炎に包まれる横で、鍋のミルクが少し吹きこぼれ、セレナとリタは慌てて布巾を二枚汚した。


その日、セレナは休日だった。薄い水色のワンピースを着て、庭の卓で白薔薇の傷んだ葉を切っていた。仕事用の鞄は二階の棚へしまい、机の上に書類は一枚も置いていない。


午前十時になると、玄関の扉が三度たたかれた。ノアはいつも約束より十分早く到着し、残りの時間を庭の前で待ってから、正しい時刻に扉をたたく。門の外を何度も往復するため、近所の犬に散歩仲間だと思われていた。


セレナは鋏を籠へ戻し、玄関へ向かった。扉の向こうに誰がいるか分かっていても、勝手に入れるための合鍵は渡していない。ノアも、婚約者なのだから入れて当然とは一度も言わなかった。


「どなたですか」


「ノア・リドウェルです。本日十時のお約束で伺いました」


「どうぞ、お入りください」


扉を開けると、ノアは灰色の上着に生成り色のシャツを合わせ、片手に革鞄、もう片方に焼き菓子の包みを持っていた。靴の裏についた土を玄関の敷物で丁寧に落とす。深緑色の敷物は一年使って端が少し毛羽立っていたが、誰かが踏むためのセレナではなく、靴の泥を落とすための道具として玄関に置かれていた。


「今日は林檎の焼き菓子ですか」


「杏です。店主が砂糖を入れすぎたと言って、一つ余分にくれました」


「では、三つあるのですか」


「はい。あなたと私で一つずつ。残りの一つは、どちらが食べますか」


「昼食のあとに決めましょう」


「取り分を今すぐ決めなくてもよいのですね」


「菓子は逃げませんから」


ノアは焼き菓子を台所へ置き、勝手に皿を出さず、セレナが用意するのを待った。以前、一度だけ自分で茶を淹れようとして、塩と砂糖の瓶を間違えたことがある。それ以来、瓶には大きな字で名前が書かれていた。


昼食は、春豆と鶏肉の煮込み、胡桃入りのパン、庭で摘んだ葉野菜だった。セレナが煮込みを作り、ノアが野菜を洗った。彼は葉の裏についた小さな虫を三匹見つけ、庭の薔薇の下へ逃がすために、食事の前に二度も外へ出た。


「虫にも正式な退去手続きが必要なのですか」


「無断で捨てると、あなたの庭へ戻れません」


「葉を食べられると困ります」


「では、次から門の外へ移します」


「今日はもう薔薇の下へ置いたのでしょう?」


「はい」


「その三匹だけは、住むことを許可します」


ノアは真面目な顔でうなずいた。二人で食事をし、杏の焼き菓子も一つずつ食べる。残った一つは半分に切らず、夕方まで食器棚へ置いておくことにした。


食後、ノアは革鞄から分厚い書類を取り出した。表紙には『婚姻契約書案』と書かれ、二人の名前が並んでいる。まだ正式な署名はなく、訂正できるよう、紐で仮綴じされていた。


「案なのですね」


「はい。あなたが同意しなければ、何度でも書き直します」


「全部で何頁ありますか」


「四十八頁です」


「以前、レオナールとの婚約契約は三頁でした」


「三頁で、財産、仕事、住居、離婚時の権利まで決めるのは困難です」


ノアは目次を開いた。二人の財産は婚姻後も別々に管理し、共同で購入した物だけを共有財産とする。仕事を辞めるよう相手へ強制してはならず、家事は勤務時間と体調に合わせて分担することが書かれていた。


病気や出産で働けない期間についても、無償で養われているとは扱わない。看病する側にも休息を認め、必要なら外部の助けを雇う。離婚を希望した場合には相手の許可を必要とせず、共同財産を記録に基づいて分ける。


「休息日の項目が細かいですね」


「週に一日は、二人とも仕事をしない日を設けます」


「緊急の相談が来た場合は?」


「王国の存亡に関わらない限り、翌日に回します」


「慈善院で食料が足りなくなったら?」


「担当者が対応します。あなた一人しか助けられない仕組みにしてはいけません」


「あなたの仕事で、急な調査が入った場合は?」


「代わりの調査官を手配します」


セレナは頁をめくった。台所で割った皿の弁償方法、親族が訪問する際の宿泊期間、寝室を別にしたい日の扱い、喧嘩をしたときに食事を抜いて相手を罰してはならないことまで書かれている。細かすぎて、途中で笑いがこぼれた。


「なぜ笑うのですか」


「魚の骨を食卓へ残した者が、皿を洗うという項目があるからです」


「必要でしょう。以前、私が残した骨を、あなたが片づけました」


「あれは一度だけです」


「一度起きたことは、二度起きる可能性があります」


「では、この条項は残しましょう」


最後の頁まで進むと、一項だけ文章のない欄があった。番号と二人の署名欄はあるが、その間に三行分の空白が残されている。セレナは指で空欄をなぞった。


「ここには何を書くのですか」


「あなたが結婚生活で守りたいものを、ご自分でお書きください」


「あなたが守りたいものではなく?」


「私の希望は前の頁までに書きました。最後の項目は、あなたに決めていただきたいのです」


セレナは窓の外を見た。白薔薇の葉では、昼に移された小さな虫が縁をかじっている。空には薄い雲が流れ、干した布巾が同じ方向へ揺れていた。


家族を守ること。財産を守ること。仕事を守ること。どれも契約書の中に、すでに書かれている。


けれどセレナが最も守りたいものは、財産でも役職でもなかった。仕事ができない日にも、この家にいてよいこと。相手の役に立てない日にも、扉をたたく音を恐れなくてよいことだった。


セレナは筆を取り、空欄へ一文を書いた。


『どちらも、愛されるために役立とうとしなくてよい』


ノアは書かれた文章を、声に出さず二度読んだ。すぐに署名せず、言葉の意味に相違がないことを確認する。セレナも最後まで読み直し、自分の名前を書いた。


二人が魔力印を押すと、署名欄から淡い金色の光が広がった。文字は黒く変色せず、最後の一項まで柔らかな光に包まれる。光が消えたあとも、紙には陽だまりのような温かさが残っていた。


「成立しました」


ノアは契約書を勝手に鞄へ入れなかった。原本をどちらが保管するか尋ね、二通作ったうちの一通をセレナへ渡す。セレナはそれを秘密の木箱ではなく、食堂の棚へ収めた。


夕方になると、ノアは帰り支度をした。残っていた杏の焼き菓子はリタが食べ、砂糖が多すぎると言いながら、油紙についた欠片まで集めている。セレナは玄関までノアを見送った。


外には初夏の淡い光が残り、鈴蘭の白い花が風に揺れていた。ノアは飛び石を一つ下りたところで振り返る。婚姻契約が成立しても、明日の予定を自分で決めてよいとは考えなかった。


「明日も来てよろしいでしょうか」


「明日は仕事をしない日です」


「では、何もしないあなたに会いに来ます」


「本当に、何もしませんよ。昼食も作りません」


「私が作ります」


「それでは、あなたが働くことになります」


「二人で何もしないことにしましょう。空腹になったら、パンを買いに行きます」


「気に入らなければ、会わずにお帰しするかもしれません」


「その場合は、パンを持って帰ります」


セレナは声を上げて笑った。ノアも口元を緩めたが、許可なく敷居を戻ってはこない。明日も来ると決まっていても、今日の扉はセレナが閉めるものだった。


けれどセレナは、すぐには扉を閉めなかった。深緑色の敷物の上へ立ち、ノアが門を出るまで見送る。彼が一度振り返ると、セレナは片手を上げた。


彼女を踏みつけた侯爵家は、爵位も屋敷も、他人から奪った金も失った。何もできない者ばかりが残ったのではない。働くべき者が、自分の仕事を自分で行うようになっただけだった。


セレナは自分の家を持った。誰を迎えるか、誰を拒むか、いつ閉めるかを自分で決められる扉も持った。そして、何も差し出さない日に訪ねてくる人を、自分の意思で待つことができた。


庭から白薔薇の香りが入り、台所では洗った皿から水滴が落ちていた。明日の朝食にするパンはまだ買っていない。仕事も予定もない一日を思い、セレナは笑ったまま、扉を開けておいた。


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