第2話 婚約者なら無報酬
第2話 婚約者なら無報酬
翌朝、セレナが目を覚ましたとき、窓の外では春の雨が降っていた。庭の白い鈴蘭は細い茎を濡らし、風が吹くたびに同じ方向へ頭を下げている。机には完成した北部領の収支報告書が置かれ、その隣では、夜食にした豆のスープの器が乾いて白い跡を残していた。
セレナは三時間ほどしか眠っていなかった。顔を冷たい水で洗い、灰色の仕事着へ袖を通すと、六枚の花びらを持つ勿忘草の刺繍を指でなぞった。祝賀会用のドレスを侍女へ渡す前に、ポケットからノアの名刺と宝石の受領書を取り出す。
「お嬢様、雨ですから、こちらの外套をお使いください」
リタが持ってきたのは、セレナの紺色の外套ではなかった。毛織物の端が擦れ、片方の釦だけ色の違う古い外套である。見覚えはあったが、それは使用人たちが買い出しに使っている物だった。
「私の外套はどこですか」
「侯爵夫人が、ヴィオラ様へ貸すようにと。昨日のお帰りに、ヴィオラ様が寒いとおっしゃったそうです」
「貸出記録は?」
「奥様に署名をお願いしましたが、『外套一枚で大げさな』と笑われました」
セレナは衣装棚の空いた釘を見た。ヴィオラが借りたサファイアも、まだ返却されていない。返却期限はとうに過ぎていたが、昨夜のうちに督促状を作ってあるため、今日は外套を取り戻すより先に済ませることがあった。
「その外套を借ります。リタ、貸出記録へ署名してください」
「私がお嬢様へ貸すのに、必要なのですか」
「必要かどうかを、相手の身分で決めてはいけません」
リタは少し考えてから、台帳へ名前を書いた。文字の最後が雨垂れのように曲がっているのは、子どものころから変わらない癖だった。セレナはその署名を確認し、朝食の固いパンを半分だけ食べると、残りを布に包んで鞄へ入れた。
北部領の収支報告書を届けるために執務室へ入ると、レオナールは寝台着の上から絹の部屋着を羽織り、長椅子で朝食を取っていた。卓上には半熟卵、焼いた腸詰め、苺の砂糖煮が並び、飲みかけの紅茶から林檎の甘い香りが立っている。レオナールは報告書を受け取ると、中身を確かめず、作成者欄へ自分の名前を書いた。
「よく間に合わせた。昼までに清書を三部作っておけ」
「本日は契約院へ参りますので、午後になります」
「契約院?」
レオナールの持っていた銀の匙が、卵の殻へ当たって音を立てた。セレナは袖の中で指を重ねたが、目は伏せなかった。嘘をつけば後で説明が食い違うため、調べ物があることだけを伝える。
「アルフェルト家の古い契約について、閲覧したい資料がございます」
「また書類か。君は本当に、紙の束が好きだな」
「紙は、昨日言ったことを今日になって変えませんから」
「何か言ったか?」
「いいえ。午後には戻ります」
レオナールはすでに興味を失い、苺の砂糖煮を載せたパンへかじりついた。皿の端には食べ残した腸詰めが二本あり、どちらも一口ずつ切っただけで冷め始めている。セレナはそれを見ないようにして、執務室を出た。
王立契約院は、王宮から馬車で半刻ほどの場所にあった。灰色の石で造られた四階建ての建物で、正面の花壇には黄色い水仙が植えられている。雨粒を載せた花弁は鮮やかだったが、玄関前には相談者の泥を吸った足拭き布が何枚も積まれ、役人が履く革靴の匂いと、濡れた紙の匂いが廊下まで漂っていた。
受付には十人以上が並んでいた。商人らしい男、赤子を抱いた女性、農作業着の老夫婦が、それぞれ書類を胸へ抱えて順番を待っている。セレナは侯爵家の名を使って先へ通してもらうこともできたが、最後尾へ並び、鞄から昨夜のパンを取り出した。
「それ、今朝のパンですか」
前に並んでいた赤子連れの女性が、泣き出した子を揺すりながら尋ねた。パンは雨の湿気を吸い、包んだ布へ少しくっついている。セレナがうなずくと、女性は自分の籠から飴色の杏を一つ出した。
「そのままじゃ喉につかえますよ。これを挟むと、少し食べやすくなります」
「でも、大切な食料ではありませんか」
「うちの庭では毎年、食べきれないほど実ります。去年なんて、夫が瓶の煮沸に失敗して、砂糖煮を七つも駄目にしたんです」
女性は夫の失敗を叱る口調で話したが、口元は少し上がっていた。セレナは杏を受け取り、パンに挟んでかじった。酸味のあとから控えめな甘さが広がり、冷えた指先に少しずつ力が戻った。
一時間近く待ったあと、セレナは二階の相談室へ案内された。部屋には木の机が二つあり、窓辺には葉の先が茶色くなった鉢植えが置かれている。書類棚はきちんと整理されていたが、ノアの机の端には、何度も湯を継ぎ足したらしい薄い茶と、食べかけの干し杏が一つ残っていた。
「アルフェルト伯爵令嬢。お待たせしました」
黒い上着を着たノアは、昨夜と同じ銀色の徽章を胸につけていた。彼は椅子を勧め、セレナが提出した相談申込書へ目を通す。紙をめくる指は速かったが、一つ一つの日付で短く止まった。
「相談内容は、婚約先における無報酬労働について。期間は二年二か月。主な業務は領地の収支管理、灌漑工事の計画、使用人の配置、慈善院の会計、社交上の文書作成。これをすべて、あなたが行ったのですか」
「はい」
「報酬を求めた記録はありますか」
「十二回ございます。すべて拒否されました」
セレナは革鞄から、日付順に束ねた書類を取り出した。ノアは十二通を一枚ずつ読み、侯爵、侯爵夫人、レオナールの署名を確認する。五通には『婚約者として当然』、四通には『将来の利益で補う』、残り三通には『金銭を求める態度は侯爵夫人にふさわしくない』と書かれていた。
「業務を拒否したことは?」
「三度あります。そのたびに、父の借金への援助を打ち切ると言われました」
「その言葉を記録した文書はありますか」
「ございません。口頭で言われました」
「立ち会った方は?」
「侯爵家の使用人です。現在も雇用されている者に、証言を求めることはできません」
ノアは筆を置いた。窓硝子を雨粒が流れ、屋根の樋から水が落ちる音が相談室へ響いている。セレナは彼の返事を待ちながら、濡れた外套の釦を指で回した。
「現在の資料だけでは、無報酬労働を強制されたことの立証は難しいでしょう」
「十二回も、報酬を拒否されているのにですか」
「支払いを拒否した事実は示せます。しかし侯爵家は、あなたが将来の利益を承知したうえで、自ら仕事を申し出たと主張できます」
「私は申し出ておりません」
「分かっています」
「では、私の話を信じてくださらないのですね」
言葉にしたあと、セレナは膝の上で手袋を握った。これまで何度も「証拠がなくても家族なら信じるべきだ」と言われ、そのたびに署名を求めた自分だけが疑い深いと責められてきた。ノアも同じなのかと思うと、湿った外套が急に重くなった。
ノアは声を荒らげず、机の上の十二通をきれいに揃えた。彼の袖口には、黒いインクの染みが小さく残っている。洗っても落ちなかったらしく、上から同じ場所へ新しい染みが重なっていた。
「信じるかどうかで裁けば、今度は別の弱い人が負けます」
セレナは顔を上げた。ノアは侯爵家を恐れている様子も、彼女へ同情を示す様子もなかった。ただ、一本の定規で線を引くように、必要なことを順番に説明する。
「あなたの訴えを、私が信じたという理由だけで認めれば、権力のある者が調査官を味方につけ、証拠のない訴えで弱い者を追い詰めることも認めなければなりません。私はあなたの代わりに怒ることも、必ず助けると約束することもできません」
「それでは、私はどうすればよいのでしょう」
「命令された事実と、拒否した場合の不利益を書面に残してください。あなたが誰にも否定できない形にするお手伝いをします」
ノアは新しい紙を取り出し、必要な証拠を三項目に分けて書いた。一つ目は、業務の内容と期限を記した命令書。二つ目は、無報酬であることを命じた者が認識していた証拠。三つ目は、拒否すれば婚約や実家への援助に不利益があることを示す記録だった。
「命令書を求めれば、警戒されます」
「正面から要求すれば、そうなるでしょう」
「何か方法があるのですか」
「相手が署名したくなる理由を作るのです」
ノアは収支報告書の控えを見た。表紙にはレオナールの名前があり、末尾には作成者を記入する欄だけが空白になっている。彼はその空欄を指先でたたいた。
「侯爵家は、あなたの仕事を自分たちの功績として提出している。ならば、あなたが報酬を請求しないと明記した書類には、喜んで署名するのではありませんか」
セレナは、祝賀会で得意げに水路の功績を語っていたレオナールを思い出した。彼は自分の名前を残すことには執着するが、仕事の過程には関心がない。セレナが報酬を放棄すると書けば、侯爵も将来の請求を防げると思って署名するはずだった。
「報酬放棄確認書を作るのですね」
「その中に、業務の内容、命令者、期間、これまで報酬が支払われていないことを正確に書きます。ただし、実際に報酬を放棄してはいけません」
「署名したら、放棄したことになりませんか」
「あなたは署名しないのです。侯爵家へ、記載内容に誤りがないことだけを確認させてください」
セレナは椅子に座ったまま、頭の中で文章を組み立てた。侯爵が疑わない言い回しと、契約院が証拠として扱える言い回しは違う。ノアはその違いを一つずつ示し、曖昧な表現を使わないよう念を押した。
相談を終えるころには、雨が上がっていた。窓から差し込んだ光が鉢植えを照らし、茶色くなった葉の根元に、小さな新芽が一つ出ている。セレナが外套を着ると、ノアは十二通の書類を返し、相談記録の控えを封筒へ入れた。
「今日の相談内容は、規則によって守られます。ただし、あなた自身が持ち帰る書類までは、こちらで守れません」
「隠し場所はございます」
「火事になった場合は?」
セレナは答えられなかった。木箱は火にも水にも弱い。ノアは予備の保管方法として、証拠の写しを契約院へ封印寄託できる制度を説明した。
「そこまで考えておりませんでした」
「一人で考えられることには限りがあります。そのために相談窓口があります」
セレナは封筒を鞄へしまった。昨夜まで、自分ですべてを揃えられなければ、契約院へ来る資格がないと思っていた。けれどノアは完成した告発を待つのではなく、完成させるための不足を示してくれた。
侯爵邸へ戻ると、雨上がりの庭でベアトリス侯爵夫人が薔薇の手入れをさせていた。夫人自身は東屋に座り、薄緑色のドレスを汚さないよう、庭師へ鋏の入れ方を命じている。卓上には苺を載せた焼き菓子と温かい紅茶があり、一つだけ残った菓子へ雀が近づいていた。
「セレナ、どこへ行っていたのです。清書がまだ届いていませんよ」
「申し訳ございません。報告書に関して、確認していただきたい書類がございます」
「また書類ですか。あなたは本当に融通が利きませんね」
セレナは東屋の卓上へ、作成した確認書を置いた。侯爵夫人は最初の二行を読んだところで鼻を鳴らす。そこには、セレナが過去二年間に行った業務と、それが婚約者としての無償奉仕であることを侯爵家が確認する、と書かれていた。
「ようやく、自分の立場を理解したのですね。これがあれば、後から報酬を請求できないのでしょう?」
「ヴァルモント侯爵家が記載内容を確認した証明になります」
「では、主人にも署名させます。レオナール、あなたもなさい」
夫人は庭師を呼ぶために使っていた銀の呼び鈴を鳴らした。雀が驚いて飛び去り、嘴でつついていた焼き菓子の欠片だけが卓上に残る。間もなく侯爵とレオナールが呼ばれ、二人は面倒そうに書類へ目を通した。
「セレナが自発的に、無報酬で働いたという確認書か」
ガストン侯爵は最終頁までめくり、口元を持ち上げた。自分たちに有利な書類だと思っているらしく、細かな業務一覧までは読んでいない。セレナは卓上のインク壺の蓋を開け、三人の前へ順番に差し出した。
「はい。水路事業、織物事業、慈善院の会計、使用人の管理について、侯爵家のご命令により私が担当したことも記載しております」
「婚約者へ仕事を覚えさせただけだ。報酬など発生するはずがない」
「そのご認識に相違がなければ、ご署名ください」
「もちろんだ」
侯爵は迷わず署名した。侯爵夫人も続き、レオナールは苺の焼き菓子をつまみながら、自分の名前を書いた。三人の署名が並んでも、セレナは筆を取らなかった。
「君は署名しないのか?」
「私は清書を終えてから署名いたします。インクをこぼすといけませんので、ひとまずお預かりします」
「相変わらず細かい女だな。そんなことより、ヴィオラの外套を新調してくれ。君の物は色が地味すぎるそうだ」
「承知いたしました。ご命令として、記録しておきます」
セレナは確認書を乾かし、折り目をつけず革鞄へ収めた。三人はすでに彼女への関心を失い、春薔薇をどの晩餐会へ飾るか話し始めている。東屋を出ると、雨を含んだ土の匂いが鼻へ届き、石畳の脇では黄色い水仙が水滴を落としていた。
自室へ戻ったセレナは、暖炉へ火を入れる前に確認書の写しを二部作った。一部は木箱へ入れ、もう一部は契約院へ封印寄託する封筒へ入れる。原本には侯爵家の命令、無報酬という認識、担当した業務の内容が、三人の署名つきで揃っていた。
リタは冷めた林檎茶を温め直し、小さな鍋ごと机へ運んできた。底に沈んでいた果肉が煮崩れ、カップへ注ぐと形の悪い星のように浮かぶ。セレナは砂糖を一匙入れ、秘密の帳面を開いた。
「お嬢様、一つ目が揃ったのですか」
「ええ。無報酬の仕事が、私の思いつきではなく、侯爵家の命令だった証拠です」
「では、あと二つですね」
セレナは最初の空欄へ、ゆっくり線を引いた。鉛筆の芯が途中で折れ、小さな黒い欠片が帳面の溝へ転がる。彼女はそれを指先で拾い、残された二つの項目を確かめた。
一つは、慈善院の寄付金流用。
もう一つは、すでに完済されているはずのアルフェルト伯爵家の借金。
セレナは温かい林檎茶を飲み、窓の外の雨雲が東へ流れていくのを見た。
「あと二つです」




