第1話 従順な婚約者
第1話 従順な婚約者
春の戦勝祝賀会が開かれた王宮の大広間には、白い牡丹と薄紫のライラックが飾られていた。磨き上げられた床には幾つもの燭台の光が映り、楽団が奏でる軽やかな曲に合わせて、色鮮やかなドレスの裾が花びらのように回っている。壁際の長卓には仔牛肉のパイや川魚の香草焼きが並んでいたが、セレナ・アルフェルトは会場へ入ってから一度も皿に手を伸ばしていなかった。
セレナが着ているのは、二年前にも使った灰青色のドレスだった。傷んだ袖口には同じ色の糸で小さな勿忘草を刺繍し、擦れた部分を目立たなくしてある。新しい衣装を注文するために取っておいた金貨は、先月、ヴァルモント侯爵家の領地で壊れた水車を修理する費用へ回したため、今夜の彼女が身につけている物で新品なのは白い手袋だけだった。
その白い手袋をはめた指で、セレナは銀盆から葡萄酒の杯を取った。喉は乾いていたが、口をつける前に、甘い香油の匂いが横から流れてくる。振り向かなくても、誰が近づいてきたのか分かった。
「セレナ、こんなところにいたのか。ヴィオラを捜していたんだ。彼女の靴の留め具が外れてしまったらしい」
婚約者のレオナール・ヴァルモントは、淡い桃色のドレスを着たヴィオラ・メルディ子爵令嬢を伴っていた。ヴィオラの巻き髪には真珠が散らされ、胸元には大粒の青い宝石が輝いている。それは今朝、セレナが侯爵家の金庫から取り出し、貸出品として台帳へ記録したサファイアだった。
「まあ、レオナール様。自分で直せますから、セレナ様のお手を煩わせるほどではありませんわ」
ヴィオラはそう言いながら、直すつもりなどないらしく、ドレスの裾を少し持ち上げた。銀糸で刺繍された靴の留め具が外れ、細い革紐が床を引きずっている。近くにいた令嬢たちが扇の陰からこちらを見ていたが、レオナールはその視線を気にするどころか、得意げに胸を張った。
「遠慮しなくていい。セレナはこういう仕事に慣れている。将来、侯爵夫人になれば、客人の世話も立派な務めだからな」
セレナは葡萄酒の杯を卓上へ戻した。まだ一口も飲んでいない杯の縁には、燭台から落ちた小さな煤が浮いていた。靴の留め具を直すことより、人前で膝をつかせるために自分を捜したのだろうと分かったが、セレナは白い手袋を外して腰をかがめた。
「承知いたしました。ヴィオラ様、足を少しだけ上げていただけますか」
「ごめんなさいね。私、不器用ですから」
ヴィオラの靴からは、新しい革と薔薇の香油が混ざった匂いがした。セレナが金具をはめ直すあいだ、レオナールは近くの青年貴族へ、先月完成した灌漑水路について話していた。その水路の設計者も、工事費を捻出した者もセレナだったが、彼の話の中に彼女の名前は一度も出てこなかった。
「北側の小麦畑は、今年から収穫量が三割は増えるだろう。領民たちも、私の決断には感謝している」
「さすがはレオナール殿ですね。しかし、あの地区は水源との高低差が大きかったのでは?」
「細かいことは家令に任せた。人を使うことも、領主に必要な才能だからね」
セレナは留め具を直し終え、つま先についた泥を布で拭った。その布は今朝、自室の古いシーツの端を切って作った物である。洗濯女に頼めば済むことだったが、侯爵夫人から「嫁入り前の令嬢が布を無駄にしてはいけません」と言われて以来、破れたシーツも捨てずに取ってあった。
「終わりました。少し歩いて、外れないかお確かめください」
「まあ、本当にお上手。レオナール様のおっしゃるとおり、セレナ様は使用人の仕事がお似合いですわ」
ヴィオラは口元を押さえて笑い、二、三歩進んでみせた。周囲から小さな笑い声が上がったが、セレナは立ち上がると、汚れた布を小さく畳んだ。レオナールは彼女の肩へ手を置き、教師が従順な生徒を褒めるように二度たたいた。
「怒らないところが君の長所だ。ヴィオラも見習うといい。セレナは自分の立場をよく理解している」
「もちろん理解しております」
セレナが答えると、レオナールは満足そうにうなずいた。彼はヴィオラを踊りへ誘い、二人で広間の中央へ向かっていく。ヴィオラの胸元で揺れるサファイアが燭台の光を弾き、そのたびに、セレナの指先には今朝確認した傷の位置が浮かんだ。
宝石の貸出期間は今夜限りで、返却期限は祝賀会終了から一時間以内。留め金の右側に針先ほどの傷が一つあり、鑑定額は金貨百八十枚。ヴィオラ本人の署名も、レオナールの保証人署名も受領書に記されている。
セレナは壁際へ戻り、ようやく葡萄酒へ口をつけようとした。しかし、今度は給仕が冷めた料理を下げ始めたため、代わりに小さな焼き菓子を一つ取った。蜂蜜と胡桃の香りがしたものの、噛んでみると端が少し焦げていて、幼いころに姉と台所へ忍び込み、料理人の失敗作を分け合った日の味に似ていた。
「お嬢様、今のはあんまりです」
背後から声をかけたのは、付き添いの侍女リタだった。彼女は怒鳴り出すのを我慢するように、空の銀盆を両手で強く握っている。セレナは残りの焼き菓子を半分に割り、大きいほうをリタへ渡した。
「祝賀会のお菓子は持ち帰れないそうです。今のうちに食べておきましょう」
「お菓子の話ではありません。どうして言い返さないのですか。水路を造ったのはお嬢様でしょう」
「知っています」
「皆様は知りません。あの方が考えたと思っています」
「今夜、知っていただく必要はありません」
リタは焼き菓子を受け取ったものの、すぐには食べなかった。セレナの返事に納得できず、焦げた縁を親指で削っている。床へ落ちた細かな欠片を見て、セレナは幼いころのリタも嫌いな干し葡萄だけを器用に菓子から抜いていたことを思い出した。
「では、いつまで我慢なさるのですか」
「我慢ではありません。確認しているのです」
「何をです?」
セレナは答えず、ドレスの内側に縫いつけた隠しポケットへ手を入れた。ところが、折り畳んで入れたはずの受領書がない。指先に触れるのは、予備の髪留めと小さな鉛筆だけだった。
先ほどヴィオラの靴を直したときに落としたのだと気づき、セレナは来た道を戻った。人々の靴が行き交う床を捜したが、白い紙は見当たらない。受領書の原本を失えば、台帳に記録があっても、ヴィオラ本人が宝石を受け取った証明は弱くなる。
「何かお捜しですか」
低い声に振り向くと、黒い礼服を着た男性が立っていた。華美な刺繍も勲章もなく、銀色の細い徽章だけを胸につけている。その徽章が王立契約院のものだと気づき、セレナは背筋を伸ばした。
男性の手には、四つ折りにされた受領書があった。端に靴跡はなく、汚れもついていない。彼は拾った直後に踏まれないよう保管してくれたらしい。
「こちらを落とされたのではありませんか」
「ありがとうございます。大切な書類です」
「ですから、内容を確かめさせていただきました。申し訳ありません」
男性は受領書を返す前に、セレナ本人であることを確認した。セレナが署名と貸出品の特徴を答えると、ようやく紙が差し出される。慎重すぎるほどの手順だったが、彼の指には葡萄酒の染みも料理の油もついておらず、受領書は落とす前よりきれいな状態だった。
「これほど詳細な受領書を、毎回作っているのですか」
「はい。宝石だけではありません。衣装、金銭、領地の備品についても作成しております」
「個人間の貸し借りにしては、返却期限、鑑定額、破損時の責任まで明記されている。保証人の署名もある」
「執念深いと、よく笑われます」
口に出すと、舌に残っていた焦げた蜂蜜の味が急に強くなった。レオナールは受領書へ署名するたび、「誰も君の安物を盗んだりしない」と笑う。侯爵夫人からは、家族になる相手を疑う女は愛されないとも言われていた。
男性は笑わなかった。哀れむように眉を下げることも、事情を聞き出そうと身を寄せることもしない。受領書の記載事項をもう一度確認し、紙の端を揃えてセレナへ返した。
「執念深いのではありません。正確なのです。よくできています。これなら証拠になります」
セレナは受領書を受け取ったまま、すぐにはポケットへ戻せなかった。会場では新しい曲が始まり、レオナールとヴィオラが人々の間を楽しげに踊っている。ライラックの香りに料理の湯気と大勢の香水が混ざるなか、その男性の言葉だけが、雑音に埋もれず耳へ残った。
「証拠に、なるのですか」
「正規の署名があり、品物も特定できる。契約院へ提出するなら、貸し渡した事実を示す資料として扱われます。ただし、原本は火と水を避けて保管してください」
「あなたは、契約院の方なのですね」
「ノア・リドウェルと申します。調査官です」
ノアは名刺を一枚差し出した。角が少し丸くなっており、胸ポケットへ何度も出し入れした跡がある。裏には契約院の所在地と相談受付の曜日が、小さく読みやすい文字で書かれていた。
セレナは名刺を受領書と重ね、今度はポケットの一番奥まで押し込んだ。慎重であることを褒められたのは、生まれて初めてだった。胸の奥に固く詰め込んでいたものが少しだけ緩み、先ほど飲めなかった葡萄酒よりも、冷たい空気を一口飲みたくなった。
「リドウェル様。一つだけ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「契約に関することであれば」
「自発的な奉仕だったと相手が主張しても、命令された記録があれば、それを覆せますか」
ノアの視線が、セレナの古いドレスの袖口へ落ちた。そこには自分で繕った勿忘草が並び、そのうち一輪だけ、急いで刺したため花びらが五枚ではなく六枚になっている。彼はそれを笑わず、すぐにセレナの目を見た。
「命令の日時、内容、命じた者、拒否した際の不利益が分かれば、覆せる可能性があります。一つの記録だけでは足りませんが、複数の資料が互いを裏づけていれば強い」
「そうですか」
「すでに、何かお持ちなのですか」
「まだ足りません」
セレナはそれだけ答えて頭を下げた。ノアもそれ以上は尋ねず、相談が必要なら正式な窓口へ来るよう告げて立ち去った。彼の背中が人混みに消えるまで見送ってから、セレナはリタとともに会場を出た。
侯爵邸へ戻ったのは、夜半を過ぎてからだった。セレナの部屋には火の消えかけた暖炉と、朝から水につけたままの洗濯物が残っていた。机の上では夕食代わりの豆のスープが冷えて膜を張り、その隣にレオナールからの書き置きが置かれている。
『明朝までに北部領の収支報告書を完成させること。私の名で王宮へ提出するので、作成者欄は空けておけ』
セレナは濡れた外套を椅子へ掛け、書き置きへ触れないよう端をつまんだ。いつもなら、そのまま机へ向かっていた。しかし今夜は新しい紙を一枚取り出し、書き置きの到着時刻と、届けた従僕の名前を記入する。
「お嬢様、報告書を作るのですか」
「作ります。その前に、レオナール様から署名をいただきます」
「今まで、一度も求めなかったのに?」
「今までも求めていました。署名を拒否された記録が、十二回あります」
セレナは衣装棚の奥から、底の擦れた革鞄を取り出した。鞄の下に敷かれた板を外すと、壁との隙間に細長い木箱が隠されている。蓋を開けた途端、乾燥させた月桂樹の葉と、古い紙の匂いが立ち上った。
箱の中には、日付順に束ねられた二年分の書類が入っていた。無報酬で行った仕事の記録、慈善院の納品書、アルフェルト伯爵家の債務に関する明細。そして一番上には、『準備完了まで』と書かれた小さな帳面が置かれている。
セレナはノアから受け取った名刺を帳面へ挟み、鉛筆で一つ目の項目に線を引いた。正規の受領書が証拠として認められることは確認できた。残っている空欄は三つだった。
冷めた豆のスープを一口飲むと、塩気がほとんどなかった。セレナは棚から塩の瓶を取り、今夜は侯爵夫人の決めた量より一振りだけ多く入れた。匙でゆっくり混ぜてから、三つの空欄を指でなぞった。
「あと三つです」
リタが聞き返す前に、セレナは帳面を閉じた。明日の朝も、彼女は従順な婚約者としてレオナールの命令に従う。けれど、必要になる日は、もうそれほど遠くなかった。




