第62話「お見舞い」
翌朝。
市内の総合病院。その一角にある個室には、ツンとする消毒液の匂いと、ひりつくような重苦しい沈黙が満ちていた。
ベッドの上には、全身を包帯で固められた仁神伸二。
その正面には、パイプ椅子に腰掛けた火山夕夏が静かに座っている。
窓際では俺と社長が立ち尽くし、少し離れた壁際では最上と結城が黙って成り行きを見守っていた。
火山の妹たち――真昼と夏夜は、すでに別室で検査を終え、母親と無事再会している。軽い脱水と疲労だけで済んだのは、不幸中の幸いだった。
「……姐さん」
仁神が掠れた声を絞り出した。
火山は何も答えない。ただ膝の上で、両手を固く握り締めていた。
「妹さんたち……無事、だったんですか」
「うん」
「そう、ですか……」
仁神の顔から僅かに緊張が抜ける。だが、それは一瞬だった。彼は枕元へ視線を落とし、震える唇を強く噛み締める。
「俺が……家を教えました。見張りの配置も、姐さんが帰ってくる時間も……全部です」
「知ってる。それも聞いた」
「俺が裏切ったせいで、妹さんたちは誘拐された。姐さんも、皆さんも殺されかけた。言い訳するつもりはありません。人質にされた仲間を助けたかった。それでも、俺が姐さんを売った事実は変わらねぇ」
火山は黙っていた。
仁神はその沈黙に耐えきれないように、無理やり上体を起こそうとする。
「俺を、好きにしてください。殺されても文句はありません。冥竜の掟なら、裏切り者は――」
「今の私は冥竜じゃない。私も、あんたの姐さんじゃない」
火山の声が、仁神の言葉を鋭く切り裂いた。
仁神が弾かれたように顔を上げる。
「今は会社員。ダンジョン攻略課の火山夕夏」
火山は仁神をまっすぐに見つめた。怒っている。悲しんでいる。それでも、かつて裏社会で敵を睨みつけていた頃とは違う。感情のまま拳を振るうのではなく、自分の言葉で相手と向き合おうとしていた。
「あんたがやったこと、絶対に許せない」
「……はい」
「真昼と夏夜がどれだけ怖かったか。私がどんな気持ちで、あのダンジョンに入ったか。たぶん、あんたには分からない。でも……あんただって、仲間を助けたかったんでしょ」
仁神の瞳が大きく見開かれる。
「だからって、私たちを売っていい理由にはならない。どうすればいいか分からなかったなら、相談すればよかったじゃない」
「できるわけ、ねぇじゃないですか……!あいつらは、姐さんの妹を攫える奴らだ!警察に言えば人質を殺す。姐さんに言えば、あんたは一人で殴り込みに行く!俺には、どうしようも――」
「私がいるって言ったでしょ」
火山の声が強くなる。
「私だけじゃない。課長も、社長も、最上さんも、結城さんもいる」
仁神が、初めて俺たちの方を見た。
「昔みたいに、一人で全部抱えなくていいの。私も……それを昨日、教えてもらったから」
火山は立ち上がり、仁神の前まで歩み寄って右手を振り上げた。
仁神は逃げない。目を閉じ、裁きを待つ。
パァン、と乾いた音が病室に響いた。
「いってぇ……」
火山の平手が、仁神の頬へ綺麗に決まっていた。
「これで終わり」
「……え?」
「次は警察に全部話して。新堂たちに言われたことも、煙道株式会社のことも。人質にされてる仲間がいるなら、その場所も。裏切った責任は取って。逃げないで」
火山は一度だけ仁神へ背を向ける。
「それが終わったら、もう私の前に現れないで」
「姐さん……」
「だから、姐さんじゃないって言ってるでしょ」
火山は二度と振り返らなかった。
仁神の目から、静かに涙が流れ落ちる。
「……はい」
それが、二人の間に交わされた最後の言葉だった。
病室を出ると、火山は廊下の壁へ背を預けた。俯いたまま動かない。
「火山」
「課長……。私、間違ってませんでしたか」
「知らん」
「えっ」
「正しかったかどうかなんて俺には決められない。お前が決めたなら、それでいい」
「相変わらず、冷たいですね」
「無責任に『正しい』と言うよりはマシだろ」
火山は僅かに笑った。
「……そうですね」
そこへ、待合室から社長の甲高い声が響いてきた。
「ちょっと! 見なさい、これ!」
社長はスマートフォンを両手に持ち、ドタバタとこちらへ駆け寄ってくる。画面には、昨夜のダンジョン内部を撮影した短い動画が表示されていた。
ハイオークの群れ。火山の炎。俺が社長を肩に担ぎながら戦っている場面。そして、救出された二人の少女を抱き締める火山。
「……何ですか、これ」
「昨日の救出映像よ!新堂が設置してた監視カメラから匿名で流出したみたい!」
「それは、普通に情報漏洩では?」
「今はそこじゃないわ!見て、再生回数!」
社長が画面を突き出す。動画の再生数はすでに百八十万回を超え、コメント欄には凄まじい勢いで新しい書き込みが流れ続けている。
『妹を助けるために一人で突入する炎使い、格好良すぎる』
『片腕で社長を担ぎながらオーク倒してる奴、何者だよ』
『社長が完全に荷物扱いで草』
『ネクロス・テック・ワークスって会社らしい』
『社員救出に社長まで現場来るとか超ホワイト企業じゃん』
「最後の奴は事実ですね」
「そうよ!ようやく世間が真実に気づいたわ!」
「都合のいいコメントしか見てませんよね」
俺は画面を下へ送る。
『社員にダンジョン攻略させてる時点でブラックだろ』
『この会社、去年営業損失八億超えてなかった?』
『社長、救出中にトイレ探してて笑う』
「最後の映像まで流出してるじゃないですか」
「誰よ撮ったの!?」
社長が顔を真っ赤にして叫ぶ。その横で、最上が自分の端末を操作しながら淡々と口を開いた。
「フォロワー、増えてますよ。昨日の夜が四千八百人。現在、二万三千人です」
「二万!?」
社長の顔から即座に怒りが消え、金を見つけた経営者の目になる。
「広告収益は!?案件の問い合わせは!?」
「企業案件が二十三件。取材依頼が十五件。テレビ局から三件。救出に使った装備メーカーから、正式なスポンサー契約の打診も来てます」
「やったわ!これで今月の固定費が払える!」
「人命救助の次に言うことが、それですか」
「人命を守るにも金がいるのよ!」
社長は堂々と胸を張った。否定できないのが無性に腹立たしい。
「それと。気になる投稿があります」
最上が画面を切り替える。表示されたのは、昨夜の映像を分析した匿名アカウントだった。
『煙道株式会社が使用していた従属端末は、現在流通していないKDC系列の試験機と術式構造が酷似している』
その下には、首輪に刻まれていた回路と、KDC製の魔導端末を比較した画像が添えられている。
「クロサワ・ダンジョン・キャプチャー……」
「姉さんの会社が、新堂に武器を流したってこと?」
火山が呟き、社長の表情が険しくなる。
「まだ分かりません。誰かがKDCの技術を盗用した可能性や、横流しされた可能性もある。KDCそのものを敵と判断するのは早いです」
最上が即座に否定し、俺は窓の外へ視線を向けた。
クロサワ・ダンジョン・キャプチャー。火山を引き抜こうとしている業界最大手であり、社長の姉が率いる企業。偶然にしては、出来すぎている。
「社長。スポンサー契約と取材依頼、全部保留にしてください」
「はぁ!?何言ってるの!?会社の口座、今月も火の車なのよ!」
「だからです。今、俺たちには世間の注目が集まっている。その状態で安い案件に飛びつけば、足元を見られる。それに、KDCが関わっているなら、向こうもこの騒ぎを無視できない」
「こっちから交渉材料に使うってこと?」
「違います。まず、請求書を作ります」
「請求書?」
「治療費。装備の損耗。救出作業の人件費。時間外手当。精神的損害。それと社長のトイレ休憩妨害」
「最後の項目、最高額にしなさい」
「却下です」
俺はスマートフォンへ届いている無数の通知を見下ろした。
会社を救う金。KDCとの関係。新堂へ仕事を発注した黒幕。事件は終わっていない。むしろ、ようやく入口に立っただけだ。
「さあ、仕事に戻るぞ」
「え、課長。今日くらい休まないんですか?昨日あれだけ働いたんですよ?」
火山が驚いたように俺を見る。
「だからこそ、今日中に労災申請を出す必要がある」
「そこはちゃんとしてるんですね……」
「当然だ。ブラック企業で働くなら、自分の権利くらい自分で守れ」
俺たちは病院の廊下を歩き出した。
命懸けの救出劇の翌日に待っていたのは、感動的な休暇でも、平穏な日常でもない。膨大な事務処理と、企業間戦争の始末。
会社員にとって、本当の戦いは、現場から帰った後に始まるのだ。




