第63話「東京へ帰るまでが出張です」
新堂雹牙による誘拐事件から、二日が経った。
真昼と夏夜は病院で一通りの検査を受けたものの、大きな怪我はなかった。軽い脱水と疲労、それに下水道の悪臭が服に染みついていた程度だ。
新堂たちは警察へ引き渡され、仁神も知っていることをすべて話したという。
事件そのものが完全に片づいたわけではない。それでも、これ以上俺たちが地元に残っていても、できることはほとんどなかった。
「忘れ物、本当にないんだな?」
火山の実家の玄関。
俺は人数分の荷物を確認しながら、火山たちへ声をかけた。
「大丈夫です。たぶん」
「その『たぶん』が一番信用できない」
「だって、来た時より荷物が増えてるんですもん」
火山が困ったように、足元に置かれた大きな紙袋を見下ろす。中身は真昼と夏夜が用意した手作り弁当や菓子、それから地元の土産だった。
「持っていけよ。どうせ東京じゃ、まともなもん食ってないんだろ。コンビニ弁当を食事って呼ぶなよ」
「私、ちゃんと料理もできますけど?」
「最近作ったの、いつだよ」
「……先月?」
「終わってんな」
真昼から容赦なく切り捨てられ、火山がしょんぼりと肩を落とす。その隣では、夏夜が小さな手で紙袋の口を結び直していた。
「おにぎりも入れたから、電車で食べてね」
「ありがとう、夏夜」
「今度は、怖いことがない時に帰ってきてね」
火山の表情が、僅かに固まった。
彼女はゆっくりとしゃがみ込み、夏夜と目線を合わせる。
「うん。今度は普通に帰ってくる」
「約束?」
「約束」
二人が小指を絡める。
真昼はその様子を横目で見ながら、俺の方へ近づいてきた。
「課長」
「何だ」
「姉貴を助けてくれたことは感謝してる」
ぶっきらぼうに言いながら、一度だけ頭を下げる。
すぐに顔を上げた真昼は、今度は鋭い目で俺を睨んできた。
「でも、東京で無茶させんなよ。止めるのが上司の仕事だろ」
「正論だな」
「あと、死ぬまで働かせるとか絶対すんなよ」
「それは俺もできれば避けたい」
「できればじゃねえよ」
真昼の言葉に、後ろで火山が小さく笑った。
「課長、自分には平気でやりますからね。自分を大事にできない人が、部下を大事にできるんですか?」
「……誰にそんな生意気な理屈を教わった」
「課長を見て、自分で学びました」
反論できずに俺が黙っていると、社長がキャリーケースを引きながら玄関へ出てきた。
「全員、準備できた? 新幹線に遅れたら大変よ」
「冷蔵庫のプリンを持ち帰ろうとして出発を遅らせたのは誰ですか」
「あれは賞味期限切れを防ぐための善意よ!」
「私たちのです。置いていってください」
夏夜が静かに指摘すると、社長は気まずそうに視線を逸らした。
最上と璃々華も荷物を持って集まり、五人分の靴が並んだ狭い玄関は、来た時以上に窮屈になる。
宿泊中、俺と社長は客間を使い、最上と璃々華は空いている部屋を借りていたため、ホテル代がかからなかったのは本当に助かった。
東京からの往復新幹線代、在来線の運賃、現地での食費。五人分すべて俺のポケットマネーから出ている。口座から消えた金額は、できれば計算したくなかった。
「でも、社員の家族を助けるために使ったお金よ? 経費として認められるんじゃない?」
駅へ向かう道すがら、社長がのんきなことを言う。
「認められても、会社に払える金がないでしょう」
「領収書だけは取っておきなさい。将来、会社に余裕ができたら返すから」
「その頃まで会社が残っていればいいですね」
「残すのよ!」
社長が胸を張る。
それを見た真昼が、火山へ小声で尋ねた。
「姉貴。この会社、本当に大丈夫か?」
「私も毎日それ思ってる」
「本人たちの前で言うな」
門を出たところで、夏夜の声が背中へ届く。
「夕夏お姉ちゃん! またね!」
振り返ると、夏夜が両手を大きく振っていた。
その隣では、真昼が片手をポケットへ入れたまま、もう片方の手を小さく上げている。
「姉貴。次はもっと早く帰ってこいよ!」
「うん!」
火山も負けないくらい大きく手を振り返した。角を曲がり、家が見えなくなるまで、彼女は何度も後ろを振り返っていた。
最寄り駅から列車へ乗り、さらに新幹線へ乗り換える。
指定席へ腰を下ろした火山は、窓の外を流れていく街並みを黙って眺めていた。
通路を挟んだ向かいには最上と璃々華。俺の隣には社長が座っている。
社長は早速、真昼たちが用意した紙袋を開けようとしていた。
「それ、火山の弁当ですよ」
「五人分入ってるわよ。社長には選択権があるの」
「ありません」
俺が紙袋を取り上げ、火山へ渡す。
「昼になったら分けてくれ」
「分かりました」
火山は弁当を受け取り、しばらく膝の上で大事そうに抱えていた。
「課長」
「何だ」
「新幹線も食事も、全員分、課長が払ったじゃないですか。東京に戻ったら、少しずつ返します」
「いらん」
「でも」
「お前が妹たちに仕送りしているのは知ってる。余計な金があるなら、そっちに使え」
「……課長」
「勘違いするな。無利子で貸したわけじゃない。部下を地元へ連れていくために、上司が勝手に使った金だ。お前に返済義務はない」
火山はしばらく黙っていた。やがて、窓の外へ視線を戻す。
「ありがとうございます」
「礼なら仕事で返せ。東京へ着いたら、まず事件の報告書だ」
「……はい」
「それと無断でダンジョンへ突入した件の始末書」
「やっぱり書くんですか!?」
「当然だ」
「せっかく良い雰囲気だったのに!」
火山の悲鳴に、最上と璃々華が笑う。
社長だけは真剣な顔をしていた。
「ところで煉夜くん。東京に着いたら、明日香ちゃんとの勝負の準備よね」
車内の空気が僅かに変わった。火山の表情から、先ほどまでの柔らかさが消える。
一週間後。クロサワ・ダンジョン・キャプチャーに所属する連実明日香と、火山夕夏の勝負が待っている。
「まず火山の回復が優先です」
「でも、時間はないわよ」
「分かっています」
火山が、膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。
「私、勝ちます。課長を、KDCには渡しません」
「俺の転職先を勝手に決めるな」
「負けたら課長、本当に行っちゃうかもしれないじゃないですか」
「それは勝負とは別の話だ」
「なら、勝ってから聞きます」
火山は正面から俺を見た。
「ネクロス・テック・ワークスに残りたいかどうか」
俺は答えなかった。
窓の外では、火山の故郷がどんどん遠ざかっていく。代わりに、ビル群が立ち並ぶ東京の景色が近づいていた。
地元で起きた事件は終わった。だが、俺たちの仕事は何一つ終わっていない。
むしろ、これから始まるのだ。
会社員にとって、出張は東京へ帰るまで。
そしてブラック企業にとっては、帰った瞬間から次の仕事が始まるのである。




