第60話「損傷転嫁《ダメージ・アウトソーシング》」
鉄扉の先を進んだ火山が辿り着いたのは、巨大な貯水槽を改造したような空間だった。
天井から無数の錆びた配管が垂れ下がり、茶色く濁った水が絶え間なく滴り落ちている。
重苦しい湿気と鉄の匂いが立ち込める中、中央には堅牢な鉄格子の檻が鎮座していた。
「真昼! 夏夜!」
「姉貴!」
「夕夏お姉ちゃん!」
二人の妹が、鉄格子へ駆け寄ってきた。
服は薄汚れているものの、怪我はない。顔色もよく、むしろ妙に元気そうだ。火山は安堵のあまり、足の力が抜けそうになるのを必死に堪えた。
「二人とも無事……? 何もされてない?」
「大丈夫!変な奴におにぎりもらっただけ!」
「すごく美味しかったよ!」
監禁先での食事を絶賛する妹たちに微かな戸惑いを覚えつつ、火山は空間の最奥へと鋭い視線を向けた。
薄暗がりの中、新堂雹牙が鉄製の椅子に深く腰掛けている。
その周囲には、首輪を嵌められたオークたちが十体ほど、異常なほど大人しく跪いていた。
「よう来たなァ、炎姫」
「妹たちを返して」
「せっかちやな。刑務所の中で何年も考えた俺との、感動の再会やろが」
新堂は椅子から立ち上がり、芝居がかった手つきで両腕を広げた。
「お前が冥竜を潰したせいで、俺は金も組織も全部失った。やから、お前に勝ったと証明する方法をずーっと考えとったんや」
「勝ってないじゃん。あんた、昔負けたんでしょ?」
檻の中から真昼が容赦なく口を挟む。
「引き分けや言うとるやろがッ!」
新堂が激昂して怒鳴ると同時に、空間の温度が急激に下がった。彼は虚空から鋭利な氷柱を創り出し、あろうことか自らの太腿へ深々と突き刺した。
肉を貫く生々しい音。鮮血が床へ飛び散る。
「なっ……!?」
だが次の瞬間、新堂の傷は跡形もなく消失した。
代わりに、傍らに跪いていたオークの一体が悲鳴を上げ、その太腿が大きく裂けて血を噴き出す。
「これが俺の能力――"損傷転嫁"や」
新堂は傷一つない脚で、倒れ伏すオークを冷酷に踏みつけた。
「俺が受けた傷、痛み、毒。全部契約した部下へ押しつけられる。優秀な経営者はな、自分で損失を抱えへんのや」
「ただの卑怯者じゃない」
火山の周囲に、怒りに呼応して炎が巻き起こる。
しかし、新堂は歪な笑みを崩さず、パチンと指を鳴らした。
檻の中にいる真昼と夏夜の首元で、赤い術式が不気味に浮かび上がる。黒い布のチョーカーに偽装されていたそれは、オークの首輪と全く同じ呪縛だった。
「え……?」
火山の炎が、一瞬で凍りついたように消え失せる。
「この二人も、もう俺の『臨時社員』や。オークが全部死んだら、次は妹らが損失を引き受ける。俺を殴れば妹が傷つく。俺を燃やせば妹が燃えるんやで」
「新堂……!」
「さあ、決着をつけようや。お前は反撃できへんけどなァ!」
新堂の腕を分厚い氷の装甲が覆う。
強烈な氷の拳が、無防備な火山の頬を容赦なく打ち据えた。小柄な身体が宙を舞い、泥水で濡れた床を無様に転がる。
「夕夏お姉ちゃん!」
「姉貴!」
「来ないで!」
火山は口元の血を乱暴に拭い、よろめきながらも立ち上がった。
反撃はできない。炎を放てば、妹たちの命が危ない。
新堂はそれを完全に理解しているからこそ、恐怖も警戒もなく悠然と距離を詰めてくる。
「何やその腑抜けた顔は。会社員ごっこで弱くなったか?」
腹部へ、再び重い氷の拳が突き刺さる。
「がっ……!」
火山の身体がくの字に折れ曲がる。すかさず髪を掴まれ、強引に顔を上げさせられた。
「お前は一人や。昔から、ずっとな」
「……違う。私は……一人じゃない」
その時、火山の耳元に装着された通信端末から、僅かなノイズが響いた。
その頃。
鉄扉の外側では、俺と社長が極狭の点検通路を這うように進んでいた。配管の隙間から、一方的な蹂躙の様子が見える。
「急いでください。火山が持ちません」
「分かってるわよ!管理者権限だけは厳重ね。無駄なところに金かけてる会社だわ」
社長は魔導端末を凄まじい速度で操作しながら、苛立たしげに舌打ちした。
画面には、十三件の生命情報が並んでいる。オーク十体、真昼、夏夜、そして新堂雹牙。
「解除まで何分です」
「内部資料から認証方式は抜いてある。あとは従属契約を切るだけ……一分半!」
「三十秒でお願いします」
「無茶言わないで!」
「うちは納期に厳しい会社なので」
「そこだけブラック企業の自覚出すんじゃないわよ!」
社長の指が、画面の上で残像を描く。
一方、貯水槽では、新堂が倒れた火山の前へ立ち、巨大な氷の槍を頭上に創り出していた。底冷えする殺気が空間を支配する。
「終わりやな、炎姫」
「やめろ!姉貴を傷つけるな!卑怯者!」
「うるさいガキやな。先にお前から殺したろか?」
新堂が檻へ冷酷な視線を向けた瞬間。
火山の耳元に、俺の声がクリアに届いた。
『火山。最大火力で、新堂を撃て』
火山の瞳が大きく見開かれる。
「無理です……!妹たちに傷が……!」
『部下に危険な命令はしない。俺を信じろ』
短い言葉だった。根拠も保証もない。
それでも、火山の脳裏には、これまで何度も自分を助けてくれた上司の背中が鮮明に浮かんでいた。
火山は震える手で、ゆっくりと杖を持ち上げる。
「何や?妹を見捨てる気になったんか?」
「違う」
杖の先に、辺りの冷気を食い破るほどの紅蓮の光が急速に集まっていく。
「私は、一人で戦ってるんじゃない」
圧倒的な熱量に、新堂の余裕の笑みがわずかに引きつった。
「焼き尽くせ――」
ピピッ、と社長の端末に『全契約解除』の文字が表示される。
「今よ、煉夜くん!」
「撃て、火山!」
「"フレイム・ストーム"ッ!」
放たれた凝縮された炎の濁流が、逃げ場を失った新堂へ真正面から襲いかかった。轟音と共に、氷と絶望が灼熱に呑み込まれていく。




