第58話「嘘」
オフィスビルの崩落した応接室。
コンクリートの瓦礫が散乱する静寂の中で、俺たちは奇妙な膠着状態の中にいた。
動けない岸夫と、床に転がったまま意識を失っているブルーノ。
それを少し離れた位置から、俺と社長がじっと見張っている。
お互いに手の内を知り、仁神への偽のメッセージ送信を終えたからこその、張り詰めた相互監視の時間。
ズキズキと脈打つ左腕の痛みが、俺の思考を冷徹に研ぎ澄まさせていた。
「……すみません、社長。ちょっとトイレに行ってきます」
「ダメ」
「は?」
「冗談よ。早く戻ってきなさい」
俺は剣を腰の鞘に収め、痛む左腕をかばいながら、崩壊を免れた廊下の奥へと足を進めた。
背後からは、岸夫がじっと俺の背中を睨みつけている視線を感じる。
数分後。俺が個室から戻ってきて、再び元の位置へと腰を下ろすと、今度は社長が退屈そうに髪をいじりながら立ち上がった。
「あー、私もトイレ。煉夜くん、ちゃんと見張っててよ?」
「ダメです」
「はっ!やり返しのつもり?部下が私に命令しないでね。答えは『はい』のみよ」
「はいはい、分かってますよ。気をつけてくださいね」
トコトコと軽い足取りで廊下の奥へと消えていく社長の背中。
応接室に残されたのは、俺と、壁に背を預けて座り込む岸夫の二人だけになった。
岸夫は血の滲む左肩を押さえながら、ふ、と不敵な笑みを漏らす。
「随分と余裕ですな。本当に"炎姫"を一人で向かわせるなど……ホワイト企業の経営者というのも、随分と冷酷なものですな」
「仕事だからな。それに、俺は部下を信じている」
俺は淡々と冷めた声を返す。
やがて、社長がトイレから帰ってきた。
「漏らしそうだったわ。全く」
「危なかったですね」
じっとりとした沈黙が、重苦しく部屋を満たしていく。
一秒が妙に長く感じられた。天井のコンクリートから時折こぼれ落ちる砂埃の音、遠くを走る車の微かな騒音、そして俺たちの規則正しい呼吸の音。
岸夫は、目の前の俺たちを値踏みするように睨みつけているが、その双眸には焦燥の色が混じり始めている。
こちらを威嚇するようなその視線すらも、まるでスローモーションのように感じられた。
その奇妙な時間の引き伸ばしに、岸夫が何かを察して目を見開いた。
「まさかッ!?」
俺と社長の二人が、蜃気楼のようにグニャリと歪み、霧散していく。
「なっ――幻覚ッ!?」
――視界が、爆発的な速度と風の音で塗りつぶされていた。
アスファルトを蹴る衝撃が、足裏から脳を揺らす。
応接室の静寂などとうに過去のものだ。俺たちはすでにビルを飛び出し、街を全速力で駆け抜けていた。
すれ違う街灯の光が、尾を引く残像となって背後に流れていく。
「トイレに行く」と言ってそれぞれ部屋を出たあの瞬間、俺と社長はあらかじめ仕込んでおいた幻術のデコイと入れ替わり、すでにこの場所まで距離を稼いでいたのだ。
心臓が早鐘を打ち、肺が冷たい夜気を求める。
追いかけてくる社長の足取りを盗み見るが、やはり限界が近い。
「ちょ、煉夜くん早すぎ……っ!」
「ああ、もう」
俺は速度を落として、社長に並走して、横から社長の身体をひょいと抱きかかえる。
「てか煉夜くん!よく意図に気付いてくれたわね」
「社長が最初から約束を守る気がないのは分かってましたよ。うちのブラックな会社みたいにね。そういう人ですから」
俺がそう突き放すと、腕の中の社長は抗議の声を上げた。
「失礼ね!うちはバリバリのホワイト企業なんだから!」
「へいへい……。幻術による緊急脱出なんて業務、ないんですけどね」
冷めた溜息をつく俺の耳元で、社長がふいっとそっぽを向く。
「それよりも火山ちゃん、一人で大丈夫かしらね」
「大丈夫ですよ。俺は火山が一人だから心配なんじゃない。ただ、ムカつくだけです」
「それはいいけど」
「なんですか」
社長は腕の中で身じろぎすると、どこか心底不愉快そうに唇を尖らせた。
「私まだトイレしてないんだけど!?漏れるって! 女子トイレに足を一歩踏み入れようとした瞬間に、いきなり引き戻されたのよ!心臓止まったかと思ったわ!」
「時間がないんです。あそこで数分の隙ができれば、僕たちの首が飛びますよ」
「死ぬのと漏らすの、どっちがマシか選ばせなさいよ!」
「どちらも御免です。我慢してください」
社長の抗議を右から左へ受け流しながら、俺はさらに速度を上げた。
風を切り裂き、夜の街を弾丸のように駆ける。腕の中の社長は「うっ、揺れる、揺れるわよ!」と騒いでいるが、聞いてる暇はない。
「……ま、いいわ。次は火山ちゃんの敵討ちついでに、最高のトイレ休憩を確保することにするわよ」
「ええ、せいぜい豪華な便器のある場所を選んでください」
俺たちは互いに軽口を叩き合いながら、火山の待つ最前線へと加速を続けた。
◆
ひんやりとした死臭の漂う、D級ダンジョンの入り口――"下水の牢獄"。
幻術のデコイで時間を稼いだとはいえ、市内のオフィス街からここまで走破するのに少々時間を食ってしまった。錆びついた鉄扉はすでに乱暴に蹴り開けられており、そこから濃密な魔力の残滓が漂ってくる。
「……遅かったかしら」
「いえ、まだ扉が開いてからそこまで時間は経っていません。行きますよ」
俺はまだ「揺れるわよ!」と抗議の声を上げている社長を、右の肩に米俵のように担ぎ直した。
瓦礫に潰された左腕は使い物にならない。
完全に片腕が塞がった最悪の労働環境だが、泣き言を言っている暇はなかった。
一歩足を踏み入れた瞬間、暗闇の奥からグオオオと地鳴りのような咆哮が響く。
現れたのは、鼻息を荒くする醜悪な巨漢の魔物――オークの群れだ。三体が一斉に棍棒を振り上げ、狭い通路を塞ぐように突撃してくる。
「煉夜くん、敵よ!」
「我慢しててください!」
俺は攻撃の意思――殺気を完全に消し去った。
ただ淡々と、右足のステップだけで突進の軌道をずらす。肩に担いだ社長の体重をカウンターの重しとして利用し、すれ違いざまに一体目のオークの膝裏へ、容赦なく硬い革靴の踵を叩き込んだ。
グギャッ、と骨の砕ける音が響き、巨躯が崩れ落ちる。
その巨体が地面に沈む影を利用し、俺は『虚実転換』を発動した。残る二体の網膜に焼き付けたのは、俺がそのまま直進してくる偽の残像。
「ガァ!?」
虚空へ向かって棍棒を振り下ろすオークの死角へと滑り込み、自由な右手で剣を抜き放ち一閃。首の皮一枚を正確に切り裂いて二体を同時に無力化する。
片腕に社長を抱えたままでの曲芸じみた近接戦闘。だが、息をつく余裕はなかった。
「……煉夜くん、見て」
社長が指差した通路の壁を確認し、俺は細く息を吐いた。
下水道のコンクリート壁が、ドロドロに溶け、黒く焦げ付いている。一般的な火力を遥かに凌駕する、凝縮された紅蓮の熱量の跡。
「間違いないですね。火山が先に通っています。それも、相当頭に血が上っている」
「あの健気な火山ちゃんがねぇ……。よっぽど妹たちのことが心配なのね」
焦げ跡の生々しさは、火山の焦燥そのものだ。
単身で最奥へ突っ走っている。俺はさらに足に力を込め、下水道の奥へと影のように滑り込んでいった。
激しい金属音と、怒号が聞こえてきたのは、それからすぐのことだった。
開けた大空洞。その中心で、火山は完全に孤立していた。
「ハァ……ハァ……ッ 邪魔、しないでって、言ってるでしょう……!」
火山の周囲を取り囲んでいたのは、通常のオークを二回りは巨大にした上位種――"ハイオーク"の重装歩兵の群れだった。
十数体に完全に包囲され、どれだけ炎で焼き尽くしても、圧倒的な質量兵器の前に火山の結界が悲鳴を上げて軋んでいる。
火山の息は荒く、杖を握る両手には明らかな疲労の色が見えた。多勢に無勢。D級の主級を前に、単身での限界を迎えている。
「シネェ!」
ハイオークの隊長格が、容赦のない巨大な大剣を火山の脳天へと振り下ろす。
視界の端で、火山が恐怖に瞳を見開くのが分かった。
「火山!」
俺の叫びと同時に、俺の本体はすでに火山の背後へと影から躍り出ていた。
「社長、降りますよ」
「えっ、ちょっ――きゃあっ!」
担いでいた社長を安全な後方へ容赦なく放り投げると同時に、左腕の激痛を精神力でねじ伏せ、右手の剣をハイオークの大剣の腹へと正確に噛ませる。
「か……課長……!?」
「遅れてすまない」
「やっぱり負けてなんてなかったんですね……!」
驚愕に震える火山の前に立ち塞がり、俺は手負いの剣を静かに構え直すのだった。




