第57話「人質」
ひんやりと湿った空気が、肌にまとわりつく。
暗がりの奥から漂ってくるのは、生ゴミと泥が混ざり合ったような、鼻を突く下水道の臭気。
冷たい鉄格子の檻の中に、二人の少女が身を寄せ合うようにして閉じ込められていた。
「ねぇ、真昼お姉ちゃん。夕夏お姉ちゃんは来てくれるかな……」
小気味よく震える夏夜の小さな肩を抱き寄せ、真昼は鋭い眼差しを暗闇の奥へと向けながら、自分自身にも言い聞かせるように言葉を返す。
「安心しろ。来るに決まってんだろ、姉貴は……」
その時、ペチャ、ペチャ、と不気味な足音が闇の向こうから響いてきた。
湿ったコンクリートを這う音。
現れたのは、ドロドロと茶色く濁った不定形の塊――不浄のスライムだった。
それは生き物の気配を察知し、意思を持つようにうねりながら、鉄格子の隙間から中へと這い入り込もうとしてくる。
「お、お姉ちゃん。これ……っ!?」
「チッ!モンスターだ!」
真昼は妹の夏夜を背中に庇い、落ちていた錆びた鉄パイプを咄嗟に構えた。
だが、スライムの身体が膨れ上がり、まさに二人に飛びかかろうとしたその瞬間。
「消えろや」
――パァン!
乾いた音と共に、スライムが一瞬でカチカチに凍り付き、白く染まった。
冷徹で、けれどひどく聞き馴染んだ声が、暗闇の奥から響く。
コツ、コツ、と重い足音を響かせ、暗闇から這い出てきたのは、仕立ての良いスーツに身を包んだ男――新堂雹牙だった。
その後ろには、鼻息を荒くする醜悪な巨漢の魔物――オークは、犬のように大人しく付き従っている。
「新堂雹牙……!」
「これが"炎姫"の妹……久々やなァ、真昼ちゃん」
「てめぇ!仁神さんも利用しやがって!ここから出せ!」
「利用される奴が悪いんやわ。力は利用する者にのみ与えられた特権。だから戦いは面白いんやろ?分かる?ま、今頃"炎姫"とそのお仲間さんは死んでるかもな」
冷たい笑みを浮かべて哲学を語る新堂を、真昼はキッと睨みつけ、鼻で笑った。
「ハッ!何が特権だよ。偉そうに能書き垂れてるけどさ、結局あんた、昔うちの姉貴にボコボコにされて負けたじゃん。負け犬のくせに煽ってんじゃねえよ」
「……あァ?」
新堂の笑顔が、一瞬で消えた。周囲の空気が一気に氷点下へと叩き落とされる。
「負けてへんわ。炎姫には負けてない。あれは引き分けや……!」
「はいはい、そっくりそのまま負け犬のセリフ」
「引き分けや言うとるやろがッ!!」
新堂の叫びと共に、彼の頭上に鋭利な氷柱が出現した。
次の瞬間、彼は狂った笑みを浮かべながら、その氷柱を自分の頭へと勢いよく突き刺した。
ザクッ、と生々しい音が響き、新堂の額から鮮血が吹き出す。
「お、お姉ちゃん……!?あの人、自分で……!」
「な、何やってんだアイツ……!?」
真昼と夏夜がドン引きして身をすくめる中、新堂は額から血を流したまま、獰猛な目を後ろのオークへと向けた。
新堂がオークの肌に素手で触れる。
一瞬にして、新堂の額の傷と流血が綺麗に消え去り、代わりに後ろのオークの額が激しく破裂して血が噴き出した。
オークは悲鳴を上げる間もなく、その場に崩れ落ちて痙攣し始める。
「ふぅ……。イライラさせやがって。……あー、胸クソ悪い」
新堂はポケットから、コンビニで無料でもらえる、四角いおしぼりを取り出した。
それで手の汚れをマメに拭き取ると、信じられないほど不機嫌そうな顔で、傍らに置いていた袋を檻の隙間からと中に押し込んできた。
「このウンカス野郎が。俺の慈悲を無碍にしやがって……。ほら、これ飯や」
袋の中には、おにぎりが入っていた。
新堂はフンと鼻を鳴らすと、おしぼりのゴミを律儀にポケットに仕舞い、オークの鎖を引いて闇の奥へと去っていった。
数十分後――。
袋の中から漂う信じられないほど良い香りが、二人の鼻腔を容赦なくくすぐっていた。
グゥ、と夏夜のお腹が小さく鳴る。
「……お姉ちゃん。これ、どうする?」
「……毒が入ってるかもしれない。警戒しろ」
真昼はそう言いつつも、あまりの空腹に耐えかね、落を手に取り、恐る恐るおにぎりを口に運んだ。
ひと噛みした瞬間、真昼の目が限界まで見開かれる。
「な、中々美味い……っていうか、めちゃくちゃ美味いじゃん、これ……」
「えっ、本当!?私も、私も食べる……!」
監禁されている絶望的な檻の中で、二人の妹たちは、手料理をバクバクと貪り食い始めるのだった。
◆
ひんやりとした死臭の漂う、D級ダンジョンの入り口――"下水の牢獄"。
錆びついた鉄扉を乱暴に蹴り開け、一人の少女が暗闇の中へと歩みを進めていた。
「……伸二の言った通り、ここなんだね」
火山は、愛用の杖を白くなるほど強く握りしめていた。
病院で目覚めた仁神から聞いた、最悪の報告。――『ダンジョン攻略課のメンバーは全滅させた』。
そんなわけがない。あの課長が、刺客ごときに易々と遅れをとるはずがない。
頭ではそう分かっている。けれど、新堂雹牙という男の残虐性と、妹たちが今まさに人質として囚われているという恐怖が、火山の胸を容赦なく締め付けていた。
(もし……もし本当に、みんなに何かあったんだとしたら)
その思考を、火山は首を振って強引に打ち消した。
やるべき仕事は一つだけ。妹たちを奪い返し、新堂の奴らを一人残らず叩きのめす。それだけだ。
キィィィィン、と暗闇の奥から嫌な駆動音が響いた。
生き物の気配を察知し、迷宮の影から這い出てきたのは、禍々しい三対の複眼を持つ巨大な百足の魔物――"鉄甲ムカデ"の群れだ。
D級ダンジョンの洗礼。常人のダイバーであれば、その圧倒的な質量と毒針の前に一歩後退するような絶望的な光景。
「……邪魔、しないで!」
火山の瞳が、一瞬で冷徹な温度へと切り替わる。
そこにあるのは、かつて地元の裏社会を単身で恐怖に陥れた、伝説の不良"炎姫"の顔そのものだった。
彼女が杖を静かに掲げた瞬間、迷宮の空気が一気に爆発的な熱量へと跳ね上がった。
「焼き尽くせ――"フレイム・ストーム"!」
激唱と共に放たれたのは、一般的なのそれとは文字通り桁が違う、凝縮された紅蓮の業火。
放たれた炎の濁流は、下水道の湿った空気を一瞬で蒸発させ、突撃してきた鉄甲ムカデの群れを甲殻ごと、悲鳴を上げる暇すら与えずに一瞬で灰へと変えた。
爆風が火山の髪を激しくなびかせる。
「待ってて、真昼、夏夜……。すぐに行くから」
火山は一歩も立ち止まることなく、立ち込める煙を切り裂いて、さらに深い闇の奥へと突き進んでいく。
己の中に眠る暴虐の炎を静かに燃え上がらせながら、炎姫は単身、かつての因縁が待つ最奥の檻へと進んでいった。




