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第51話「まさかの因縁」

「どうしたのさ」


 隣に腰掛けた明日香が、覗き込むように顔を寄せてくる。


「ん……なんでここで働いてんだっけなーって」


 手元に残ったぬるい缶コーヒーを見つめながら、俺は自嘲気味に呟いた。どうしようもない脱力感が身体を支配している。


「行くとこなかったからでしょ?」


 明日香は小さく吹き出すと、いたずらっぽく微笑んだ。身も蓋もないが、彼女なりの優しさなのだと素直に受け止められる。


「そうだな。恩義だけでやってきたけど、もう限界だ。お前からのスカウトの話……正直、めっちゃ揺らいでる」

「だったら、ウチ来なよ!」


 明日香は身を乗り出し、俺の目を真っ直ぐに見つめた。迷いのないその瞳は、かつて共に戦場で見上げた空のように眩しい。


 ――ダンジョンを攻略する。


 その一点だけを評価するなら、今の泥舟のような会社より、最大手のKDCを選ぶ方がよほど合理的だ。

 二度と潜らないと決めていたはずなのに、なんだかんだで今、俺は泥をすするようにしてダンジョンに潜り続けている。

 だったら、より気楽で、休みの多い場所を選ぶべきなのは明白だった。


 ぬるい缶コーヒーを強く握りしめる。鉄の冷たさすら感じないほど、今の俺はすり減っていた。

 彼女の手を取れば、どんなに楽だろう。

 義理や責任という名の鎖を断ち切り、ただ純粋に上だけを目指していた、あの眩しい季節へ戻れるような――そんな錯覚さえ覚える。


「お前は、いつも俺が一番欲しい言葉をくれるな」


 ぽつり、と零れた声は、夜の風に溶けていくようだった。


「当たり前でしょ。誰の妹だと思ってるのさ」


 明日香は誇らしげに胸を張り、それから、少しだけ寂しそうな、だけど愛おしそうな目で俺の手元を見つめた。


「ずっと見てたよ、お兄ちゃんがボロボロになりながら、誰かのために背中を丸めてる姿。もう十分だよ。今度は自分の為に力を使いなよ」


 彼女の言葉が、冷え切った胸の奥にじんわりと染み込んでいく。

 遠くで、夜の街の灯りが小さく瞬いていた。終わらない残業、理不尽な謝罪、報われない日々。そんな世界の片隅で、自分の存在を全肯定してくれる誰かがいる。それだけで、張り詰めていた何かが静かにほどけていくような気がした。


 俺は息を深く吸い込み、ゆっくりと明日香を見つめ返す。


「明日香、俺は――」


 本音を口にすると、胸の奥が少しだけ軽くなった気がした。だが、決断を下すには背負っているものが多すぎる。

 俺が深くため息をついた、その時――。


「か、課長……!」


 夜の静寂を切り裂くような声が響いた。

 振り返ると、そこには息を荒くした火山が立ち尽くしていた。


「火山……!なんでここが?」

「実は、後着けてて……」


 照れ臭そうに笑う火山を見た瞬間、明日香の表情から笑みが消え、鬼が宿った。


「チッ……"炎姫"……兄貴の部下、火山夕夏か」

「……ッ!?あ、明日香、まさかこんなとこで出くわすとはね」

「悪いけど、私は兄貴に話があるの。席を外してもらえる?」


 明日香が睨みつけるように、火山の前に立ち塞がる。


「中学ぶり?あの時の"決着"を着けるために来たの?」

「違う。テメェらクソ企業とクソ部下共から兄貴を助け出すために、うちの会社に引き抜きに来たんだよ」

「え?え?何が起きてんだ?どうした二人とも――」

「「黙ってて」」


 二人同時に怒声が飛ぶ。

 火山の拳は白くなるほど強く握りしめられ、明日香は冷徹な氷のような眼差しで火山を射抜いていた。かつて戦場でその名を轟かせたという“炎姫”の片鱗が、彼女の全身から立ち上る。


「兄貴を苦しめてる、だと……?明日香、まさか煉くんの妹だったなんてね。似てなさすぎ。煉くんはこんなに聡明でかっこいいのに」

「は?煉くん?馴れ馴れしいんだよ。聡明でかっこいいの認めてやるけど」

「何が馴れ馴れしいだ。公認なんだけど?」


 火山がフッと鼻で笑うと、明日香は一歩前へ踏み込み、あざ笑うように見下ろした。


「兄貴はあんたたちみたいな無能の尻拭いのために、人生をすり減らしてる。それを『かっこいい』?自分の無力さを課長の優しさにすり替えて、甘えてるだけじゃない」

「テメェ……何も知らないくせに……!」


 火山の瞳に激しい敵対心が燃え上がる。


「私は知ってる。兄貴がどれだけ限界か。そして、あんたがどれだけ彼に依存してるかもね。だからスカウトにきた」

「チッ……」

「ねえ夕夏、あの時の決着、着けようか?どう?」

「……ええ、望むところ」


 二人の間に流れる空気は、もはや一触即発の暴風だった。


「やめろ、二人とも……!」


 俺の必死の制止を完全に無視し、二人の視線は火花を散らしながら交錯し続ける。

 しかし、明日香はフッと肩の力を抜くと、レザージャケットの襟を正した。


「ま、これ以上ここで騒いでも、近所迷惑だしね。――日時は一週間後。場所は都内の指定エリア。細かいルールはまた、兄貴を通して連絡するから。……準備、怠らないでよね、夕夏」


 冷たく、けれど確かな闘志を宿した笑みを火山に向け、明日香はそのまま夜の闇へと背を向けた。


「明日香……っ!」


 火山の鋭い声が響くが、明日香は振り返ることもなく、軽やかな足取りで堤防の向こうへと消えていった。


 嵐が去った後の防波堤には、ただざばざばと不気味に響く潮騒の音だけが残されていた。

 俺は手元に残った、すっかり冷めきった缶コーヒーを一気に飲み干し、深くため息を吐き出す。


「……はぁ。帰るか、火山」

「……はい」


 火山の実家へと続く、薄暗い田んぼ道の帰り道。

 俺と火山は、お互いに微妙な距離を保ったまま、並んで歩いていた。街灯の下を通るたび、二人の影が長く伸びては縮む。

 あまりにも気まずい沈黙に耐えかね、俺は頭を掻きむしりながら、おずおずと口を開いた。


「あのさ……明日香と、何があったのか聞いていいか?」


 すると、火山はいつもの柔らかな表情とは一変し、恥ずかしそうに頬を赤らめながら、お気に入りの杖をぎゅっと抱きしめた。


「アイツ……中学の時に私の噂を聞きつけて、わざわざ他県からカチコミにきたんです」

「他県からカチコミって、お前らいつの時代のヤンキーだよ……」


 頭が痛くなってきた。というか、明日香の行動力も大概おかしい。


「うぅ、もう言わないでください、煉くん。私だって、今思えば黒歴史っていうか……マジで恥ずかしいんですから……!当時の私、何をやってたんでしょうね……!敵作りまくりで……」

「そういや、仁神が"冥竜"がどうこう言ってたな」

「あ、それは……」

「聞かない方がよかったか?」

「い、いえっ!うちの地元に根付いてた半グレ集団で、用心棒やってお金を巻き上げる……みたいな。そいつらにうちの妹が襲われたので、それで」

「壊滅させた……かぁ」


昨夜、座布団に顔を埋めていたときのように、火山は歩きながら両手で顔を覆って悶絶している。

俺は、どこかフェアじゃないと感じ、腹をくくった。


「やばいですよね。黒歴史すぎる……」

「それを言うなら俺だって似たようなもんだ。高校の頃、親に隠れて"黒い虚飾(ブラック・ヴォイド)"とかいう二つ名でコソコソ探索者してたのがバレてさ。親父と大喧嘩して家出したんだ。まぁ、人間誰しも古傷はあるから気にすんな」

「――ブラック・ヴォイド!かっこいいじゃないですか!だから、あんなに強いんですね!」


 自分で言っていて古傷が抉られた。バツが悪そうに視線を泳がせる俺を見て、火山は指の隙間からクスリと小さく笑った。


「うるさい。頼むからそれ以上触れないでくれ」

「顔真っ赤ですよ?」

「うるせぇ!これでフェアだろ?」

「はいっ!」


 お互いの恥ずかしい過去を曝け出し合ったことで、少しだけ張り詰めていた空気が和らぐ。

 俺は少しだけホッとした。


「……で、勝てるのか?明日香に」

「中学の頃は、魔法ありで戦って互角。決着は着きませんでした」

「なら勝算はあるんだな」

「でも、明日香は"スキル"を使いませんでした」


 ――使わなかった。

 そうなると天秤は、今の明日香の実力なら間違いなくあっちに傾く。


「煉くんは……会社、辞めたいですか?」


 火山は、消え入りそうな声で俺の顔を覗き込んできた。


「そう、だな。どちらかと言うと――」

「――まぁ!お二人とも、ずいぶんと楽しそうな秘密の過去バナをしていらっしゃること!」

「「うわああああっ!?」」


 暗闇から突如響いた上品な高笑いに、俺と火山は揃って飛び上がった。

 慌てて振り返ると、街灯の逆光を浴び、腕を組んで不敵に微笑む人影が立っていた。


「なんだよ今度は……って、お前は」

「課長さん!昨日のこと、深く、深くお詫び申し上げますわ!」

「え?」


 高笑いしていたはずの人影が、ドレスの裾を引くようにして、優雅に、しかし直角に頭を下げてくる。


「わたくしたちの不徳の致すところ……。いいえ、主に最上さんの愚行のせいで、結果として、あなたに泥を塗るような真似をさせてしまいましたの」


 あまりの急展開に、俺の脳の処理が完全に追いつかなかった。


「俺も連携ってやつは苦手だ。気持ちは分かる」

「は、はい……!」

「次回以降気を付けたらいいさ。行くぞ」

「え?終わり……?」


 結城が呆気に取られて声を漏らした。

 いちいち気にして立ち止まるには、俺のライフはもう残っていないのだった。

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