第45話「スカウト」
「……んだよ。ジロジロ見て」
ふいっと顔を背けた明日香の耳の尖が、ほんのりと赤い。さっきまでの、強気な探索者のメッキが剥がれ落ちていく。
「あ、いや……。なんでもない」
彼女が配信を付けていないのであれば、当然、トップダイバーである明日香のリスナーが、こちらに流れ込んでくるわけがなかった。
「今日は皆さん見ていただき、ありがとうございましたー」
俺は配信を切った。
画面が暗転し、完全にプライベートな空間に戻る。
深くため息をつくと、不意に、トントンと服の袖が控えめに引かれた。
見ると、明日香が俺の服の裾を、小さな手で、ぎゅっと恐る恐る摘まんでいる。
「お、お兄ちゃん……」
上目遣いに俺の顔を覗き込んでくるその表情には、さっきまでの棘が嘘のように毒が抜けていた。
ぽうっと上気した頬と、どこか縋るような潤んだ瞳。そこには、ただの可愛い妹としての明日香が居た。
「お前、武器持つと人格変わるよな」
「うるさいっ……!なんか高ぶるんだもん。仕方ないでしょ……」
ふくれっ面をして見せるものの、その声にはいつもの鋭さはなく、甘えるような響きが混ざっている。
「それで、配信もせずに、こんな田舎に何の用だ?」
俺が尋ねると、明日香は小さく「あ」と声を漏らし、視線を泳がせながら、おずおずと応える。
「……まずは、これを見ろ」
照れ隠しにツンとした口調を装いながら、明日香はスマホ画面を俺の顔の前に突き付けてきた。
端末の端を握る小さな指先が、おずおずと微かに震えている。
そこに表示されていたのは、予想だにしない文字列だった。
――“KDC所属:連実 明日香”
それは、大手事務所の看板を背負った、彼女の公式SNSの画面だった。
「え……?お前……!?」
「そう、何を隠そうあの最大手の—―」
「この宣材写真、映りいいな」
「そこ!?」
「え、ああ。そうだが」
「えーっとさ、"KDC"だよ?"クロサワ・ダンジョン・キャプチャー"って、知ってるでしょ?」
「え、いやいや。まさかお前が所属してるなんてあり得ない……いや、まじなのか?」
俺はじわじわと実感が湧いてくる。
明日香は不満そうに、だけどどこか寂しそうに唇を尖らせた。
「一年位前から所属しているのに、知らなかったの?」
「すまん、知らなかった。仕事が忙しくてな」
「私も連絡とかしてなかったし、それはごめんだけどさ。お兄ちゃん、私の配信全然見てないでしょ。……まぁ、いいけど。それでね、今日の本題っていうのが……」
そこまで言って、明日香は一度言葉を切り、ごくりと唾を飲み込んだ。
俺の服の裾を握る手に、さらにぎゅっと力がこもる。
「どうした?」
促すと、彼女は顔を真っ赤に染め、今度こそ逃げないように俺の目をまっすぐに見つめてきた。
「お兄ちゃんを、"KDC"にスカウトに来たの」
「どういうことだ?」
「だからスカウトだよ」
「そ、そうかー……スカウトかぁ」
脳の処理能力が完全にキャパシティをオーバーした。
俺はおもむろに右手の親指と人差し指を口元に運び、深く息を吸い込んだ。
「何してるの」
「タバコ、吸う」
「怖いよ。何も持ってないじゃん、何が見えてるの……」
「ち、ちなみに、なんで俺?」
「ん、社長が興味があるってさ。白銀さんが社長に話したんだって。だからだよ」
限界まで張り詰めていた緊張の糸が切れたのだろう。明日香は恥ずかしさに耐えかねたように、俺の胸元にこつんと額を預けてくる。
「それに、私も、またお兄ちゃんと……一緒に、潜りたいし」
小さな胸の内をすべて吐き出すと、明日香はそのまま茹で上がったタコのように動かなくなってしまった。
「……ははーん、分かった。嘘なんだろ?」
「……へ?」
ゆっくりと顔を上げた彼女は、きょとんとした表情で俺を見上げている。
「だって、あの最大手のKDCが、こんな無名配信者擬きをスカウト?あり得ないだろ。俺をからかうためだろ?手が込んでるなぁ、お前も」
「はい。そう言うと思った」
明日香はスマホを操作し始めた。画面を乱暴にタップし、耳元に端末を当てる。
数回のコールの後、相手が繋がったようだ。
「あ、お疲れ様です……連実です。社長ですか?今お兄ちゃんに話したんですけど、やっぱり社長が言ってた通りの反応でした ……あ、スピーカーにします」
明日香が画面をタップし、スマホを俺たちの間に突き出してくる。
すると、
『初めまして、煉夜さん。私は"クロサワ・ダンジョン・キャプチャー株式会社"の"黒沢凛華"と申します。いつも姉がお世話になっております』
スピーカーから響いたのは、メディアで何度も聞いた、芯の通った低い声。
姉、ねぇ……。どうせ俺をこき使う、あのブラック企業の鬼社長"黒沢凛名"のことだろう。
あの容赦ない鬼がKDC社長の双子の姉だなんて、嫌な事実を思い知らされる。
姉妹揃って人の上に立つ、黒沢財閥の血筋ってわけだ。
「どうやら、まじっぽいな……」
『ええ、大真面目ですよ。弊社所属ダイバーの白銀から聞きましてね。"――黒い虚飾"……でしたっけ?』
「……人違いっすね。誰ですかその痛い二つ名の人は」
『フフ、そういうことにしておきましょう。それで、貴方の配信切り抜きを拝見いたしました。白銀からの強い推薦もあり、貴方をぜひうちに引き入れたいと考えておりますが、如何でしょうか』
白銀……あの野郎、余計なことまで喋りやがって……。
古傷を抉開けられたような羞恥と警戒が混ざり合い、俺の心拍数が跳ね上がる。
「いや、俺はアイツみたいにキラキラしてないですし、それに、目立ちたいわけじゃないしな。静かに暮らしたいんだ」
『ああ、その点はご安心を。うちは手広くやっておりますので、決して全員がライブ配信をメインに行っているわけではありません。裏方の攻略専門職も多数在籍しています。……そうですね、待遇の話をしましょうか。煉夜さんの実力であれば、基本給だけで年収1000万は固いかと。実力至上主義ではありますが』
「い、1000万……だと!?」
目玉が飛び出るかと思った。今の俺の年収の何倍だ?
『それに、有給取得率は85%超、住宅手当に家賃補助、賞与は年二回。ダンジョンの都合上、土日に出勤もありますが、完全週休二日制を徹底しております』
「えぇ……と、ざ、残業代は……?」
『え?出るに決まってるじゃないですか。労働基準法を遵守するホワイト企業ですよ? ……まさか、今は出てないのですか?』
「残業代どころか!休みも休日手当もないです!有給は勝手に公休に割り振られて消滅するのに、休日出勤を強制されるんです!蘇生した数時間後に出勤させられるなんて当たり前なんですよ!」
『……まあ。それは酷い。うちに入れば、そんな前時代の苦悩からは完全に解放されますよ。ちなみに弊社には、ダンジョン内死亡時の"蘇生休暇"なんてものもありますよ。まぁ、有給扱いにはなってしまいますが』
俺は福利厚生の、圧倒的な情報の暴力に殴られた。
脳が、心が、ブラック環境に慣れきった家畜の精神が、あまりのホワイトさに拒絶反応を起こしている。
そうだ。タバコだ。タバコを吸って落ち着こう。俺は激しく震える指を口元に当てた。
「お、お兄ちゃん……。だからタバコ持ってないのに吸うふりやめてってば。エアなのに煙吐き出そうとしないで」
「ふぅ~……ああ、落ち着いてきた。あれ?俺のデスクはどこ行った?おーい、田中~?」
「ちょっ、怖いって!何してるのさ!」
「う、おえぇぇ……っ!」
胃の中のものが逆流し、俺は吐いてしまう。
「ちょっ!?なんで吐いてるの!?」
「悪い……。あまりにも聞きなれない高潔な単語と、福利厚生の暴力を一気に浴びて……脳がバグって頭痛くなってきた……」
そんな様子を見た明日香が、俺の両手を優しく包み込むように握った。
「私ね……っ。お兄ちゃんがそんな風にボロボロになって、苦労してるところ、もう見たくないの。だから……だから、一緒に働きたいな」
これ以上あの甘美な条件を聞いたら、本当に脳の血管が弾け飛ぶ。
俺は情けなくも明日香の手を振り払い、全力で逃げ出した。
静まり返ったダンジョンに残された明日香のスマホから、クスリと楽しげな笑い声が漏れた。
『いい演技でしたね』
兄の限界社畜ムーブに、社長は微笑ましさを隠さない。
しかし、残された明日香は顔を真っ赤にしたまま、スマホに向かって全力で抗議の声を上げた。
「……本心ですっ!」




