第3話「拒否権なき辞令」
重い足取りでフロアに戻ると、同僚の田中が、俺のプリンを最後の一口まで綺麗に掬い上げているところだった。
スプーンを口に咥えたまま、奴が目ざとく顔を上げる。
「お、連実さん!生きてます?」
「一応な」
「顔色、死人っスよ」
「今、蘇生直後だから……色んな意味で」
椅子に座る。背もたれが優しい。今だけは。
「で、何だったんスか?」
「……聞くな」
「そんな言い方されると、余計気になるんスけど」
「すぐ分かる」
そのとき。
ピコン、と一斉に鳴る通知音。
フロアの空気が、同時に止まった。
【全体連絡】新組織設立および人事内示(至急)
田中が、ゆっくり俺を見る。嫌な笑みで。
「……連実さん、これ、開いていいやつっスか?」
「開くな……と、言いたい」
「呼び出された直後の全体メール、開かない選択肢ないっスよね?」
「分かってんなら聞くな!」
そう言いつつ、俺は震える指を無理やり動かし、処刑宣告にも等しいそのメールを開いた。
――――――――――――――――――
各位
業務拡大に伴い、下記の通り新組織を設立します。
関係者は速やかに引継ぎを開始してください。
【新設】ダンジョン攻略課
スーパーアドバイザー:黒沢 凛名
課長:連実 煉夜
※人員については、追って個別に連絡します。
以上
――――――――――――――――――
「は!?スーパーアドバイザーってなんだよ!?聞いてねーぞ!!」
反射で立ち上がって叫んだ。
フロアの視線が一気に刺さる。
「ちょ、落ち着いて」
田中が俺をなだめようとする。
「でも課長昇進じゃないっスか!おめでとうございます!」
「ふん、こんな会社の小汚い中間管理職なんてやってられるか。一年だけって約束だ」
「てか連実さん、ダンジョン潜ったことあるんスか?いいなー!アタシも潜りてー!」
「ノーコメントだ」
「あ、その反応。絶対あるやつじゃないっスか!え、もしかして配信とかもしちゃうんですか!?」
「らしい……」
「ひゃー!ちょーウケる!」
「うるせぇよ。……ほら、手を動かせ」
パシッと書類の束で田中の額を軽く叩き、俺は大きくため息をついた。周囲のデスクからも、クスクスとこちらの様子を窺うような乾いた笑い声が漏れ聞こえてくる。
あまりにも、居心地が悪い。
「……へーい。……しっかしまぁ、本当に社会人って大変っスよね。今よりずっと昔は"ローキショー"だっけ? 企業が法律守ってるか見張るお役所があったなんて、お伽話みたいっスよ」
「とっくの昔に潰れた組織の話をしても始まらんだろ。今はそんなことより仕事だ、仕事!」
両頬を叩いて気合を入れ、引き継ぎ資料の作成に戻る。
なぜ深夜のオフィスでこんな不毛な作業をしているのか、甚だ疑問だ。
タイピング音がしばらく響いたあと、隣の田中がぽつりと言った。
「……断っちゃえばいいじゃないスか、異動」
「色々あるんだよ、大人の事情が」
「ま、会社辞めたところで再就職も厳しい世の中っスからね。でも、連実さんがいなくなると、アタシちょっと寂しいっスけど」
「お前に限ってそれはない」
「はは、そっスね」
田中は画面を見つめたまま、小さく苦笑した。
溜息を押し殺し、キーボードを叩く。
魔法やらスキルからが実在する時代になっても、人類は結局"労働"という現実から逃れられないらしい。
会話が途切れ、残ったのはプリンターの待機音と、空調の低い唸りだけだ。
窓の外は深い夜。街灯の光がガラスに滲み、オフィスの無機質な灯りに溶けていた。
――潜ったことがあるか、だって?
そんなの、答えるまでもない。
忌々しい、一生触れずに生きたかった過去だ。
俺は舌の奥に残る苦みを塗りつぶすように、胃薬を一錠、水なしで飲み下した。
◆
煉夜に辞令が出される数時間前。
午後8時。ネクロス・テック・ワークス本社、第三会議室。
スクリーンが映し出すグラフは、ほぼ全て赤一色だった。
「年間売上38億に対し、営業損失は8億7千万。手元資金は10億を切っています」
CFOの単調な声が葬送曲のように響く。正確な数字は残酷だった。
固定費は月1億2千万、毎月7千〜9千万円の現金が消え、一年後には運転資金が底を突く。
「IoTのみ黒字。他は全滅です」
スライドの赤い数字は流行を追いかけた事業の残骸だ。負債総額は62億、うち一年以内の要手当て分が十数億にのぼる。
「……事業の整理は、もはや不可避かと」
「人件費の見直しも。150名規模では、現在の収益構造を支えきれません」
役員たちの口から出るのは、リストラや縮小といった延命措置ばかり。
だが、縮小して生き延びられる数字ではない。ゆっくり死ぬだけだ。
喧騒の中、乾いた破裂音が鮮やかに響いた。
それは、ぱんっ、という手を叩く音。全員が弾かれたようにそちらを向いた。
「はいはい!みんな暗いわよ!」
上座の女性――社長の黒沢凛名が、組んだ足を解いて身を乗り出す。重苦しいスーツの集団の中で、彼女だけが異質な彩度を放っていた。
「ですが社長、この数字は――」
「見えてる。私が一番見えてる」
語気は軽いが、目が笑っていない。
「縮小して延命して、それで?じり貧のまま一年後に同じ会議をするだけでしょ。私はそれが嫌なの」
「では具体的に、どうなさるおつもりで」
「決まってるでしょ」
凛名は立ち上がり、スクリーンに新しいスライドを映した。赤いグラフの海に、一枚だけ違う色が差し込まれる。
「"ダンジョン攻略"よ」
沈黙が会議室を支配した。
「攻略奨励金だけで数千万から数億。配信が当たれば一本で数千万。素材売却、スポンサー、企業価値の上昇――全部込みで計算したら、成功一件で会社が変わる。そういう市場よ、あそこは」
「危険すぎます!そもそも――」
「危険なのは知ってる。でも普通に経営しても、一年後に給与が止まる。それと、どっちが危険?」
役員たちが顔を見合わせる。論理としては正しい。正しいからこそ、反論の言葉が出てこない。
「資格保持者の帯同は法律で定められているはずだ!迷宮経験者など、社内に――」
「いるのよ」
凛名は涼しい顔で続けた。
「資格持ち、実績あり、経歴が地味なだけの逸材がね。話もつけてある。あとは進むだけ」
スマートフォンを軽く振って、矢継ぎ早に飛んでくる懸念を封じる。許可は。協力金の手続きは。役所との調整は。
「全部済み。私が動いたんだから!」
誰も異論を差し挟めなかった。
窓の外でネオンが淡々と瞬く中、150人分の生活と、62億の負債と、そして一人の人間の運命が、本人不在のまま決定されようとしていた。
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