第2話「社長:黒沢凛名」
"社長室"と書かれた、やたら立派な扉の前。
艶のある木目。金色のプレート。
このフロアだけ、露骨に金がかかっている。
一呼吸置いて、三回ノック。
「どうぞー!」
元気すぎる返事。
この会社の終業チャイムが、彼女の脳内では鳴らないらしい。
「失礼……します」
足を踏み入れた瞬間、胃が締め付けられる。
空調が効きすぎているのか、妙に冷たい。
それなのに、甘い香りがする。芳香剤か、香水か。どっちでもいい。気持ち悪い。
"黒沢 凜名"と書かれた名札。
机に座る若い女が一人。
OLスーツに、艶やかな黒髪。
年は、26歳だったはずだ。
清楚系の美人で、透き通るような肌と、どこか幼さの残る顔立ちをしている。
正直、大学生……いや、高校生と言われても、素直に納得してしまいそうになる。
この見た目に騙されて入社した人間は多い。
例えるなら、天使の皮を被った悪魔。
このネクロス・テック・ワークスの創業者であり、社長だ。
「来たわね!煉夜くん!」
「すみません。急いでいるもので……早く要件をお願いします」
「よくぞ聞いてくれました!」
聞きたくて聞いたわけじゃねぇよ。
社長は机をバン、と叩いて立ち上がった。
軽い音。なのに、心臓が跳ねた。
「我が社は今、完全な火の車なの!もって一年ってところかしら。――そこで! 煉夜くんには新設される"ダンジョン攻略課"の課長になってもらいます!」
一拍も置かない。
「へ?」
「その返事は承諾ってことね!決まり、はい明日から!引き継ぎは今日中に済ませて――」
言葉が、耳に入ってこない。
なのに、胃だけが理解した。
胃酸がせり上がる感覚が、瞬時に来る。
……は?課長?新設?引き継ぎ?しかも今日中?明日から?
ひとつずつ噛み砕く前に、脳が拒否した。
視界がふわりと揺れ、霞む。寒気と汗が同時に押し寄せる。
次の瞬間、膝から力が抜けた。
「ちょっとー?聞いてる?」
「え……?」
気づけば、俺は高級そうなカーペットに仰向けで倒れていた。やけに高い社長室の天井が遠い。
視界の端には、しゃがみ込んで俺を見下ろす社長の姿。そして、黒いタイツの奥にチラつく、不自然な紫色の布地。
「なんで倒れてるのよ」
「そりゃ倒れますよ、また死ぬかと思った……。てか社長、パンツ見えてます」
「うわ、キモッ!……ま、減るもんじゃないし。福利厚生だと思って仕事頑張ってね?」
急いで目を逸らす。昔の俺なら少しは興奮したのだろうが、今の俺にはただの布切れにしか見えない。
「……見えたのはアンタの自業自得でしょうが」
社長はフンと鼻を鳴らし、ようやくスカートを押さえた。
「はぁ……。まだ詳細も話してないのに倒れるなんて、つくづく情けないわね」
「あ、先に言っておきますけど、さっきの話は拒否します」
「え? きょひ……? 弊社では――」
「『はい』しか認めない、でしたっけ」
「で、話の続きなんだけど」
「待て待て待て! スルーの速度が光速すぎる!俺まだ起き上がってないですから!」
「何度倒れても、立ち上がれば倒れてないのと一緒。ほら、早く」
社長が手を伸ばす。
俺はしぶしぶその手を掴み、立ち上がった。
「で……なんで俺なんですか。こんな閑職の平社員を捕まえて」
スーツについた埃を払いながら、俺は恨みがましく社長に問いかけた。
「資格保持者が、あなたしかいなかったのよ。この社内にね」
「……履歴書には書いてないはずですが?」
「まぁね。けど、私は知っているわ。あなたがかつて何をしていたか。――そうでしょ?仙台での話をしましょうか」
「言いましたよね、俺。探索者に戻る気はないって。二度と」
「不本意なのはお互い様よ。会社が生き残るためには、宝の持ち腐れを許しておく余裕はないの」
社長は、どこか面白くなさそうに眉をひそめた。
「……それで。その課長の仕事って、具体的に何やるんです?」
「簡単よ。未踏破ダンジョンの攻略と部下の育成。……あ、あと配信ね」
「は?俺も現場に出るんですか!?っていうか配信って何――」
「あー、四の五の言わない!とにかく人が足りてないの!それに、"あなたほどの元探索者"がそうそう転がってるわけないでしょ。はい、この話はおしまい!」
また思いつきで始めるからこうなるんだ。――そう言いたいのを飲み込み、俺は深くため息をついた。
社長は机の引き出しから紙束を取り出し、俺の胸に押しつけてくる。
ずしり。物理的に重い。
「これ、雛形。設立稟議と安全管理計画書」
ドサリ、とデスクに置かれた分厚いファイル。ぱらぱらと紙をめくると、その内容は素人が作ったとは思えないほど、妙なほど完璧だった。
「……誰が作ったんです、これ」
俺が呆然と呟くと、社長は俺の肩をぽん、と叩いた。
その手つきがやけに優しくて、かえって背筋に冷たいものが走る。
「はい、私!……ガ、ヒショニ、ツクラセタ」
「あの……本当に分かってます?」
少しだけ目を逸らして誤魔化す社長を前に、俺はこめかみを押さえながら、深く、深くため息を吐いた。
「ダンジョンって一応、命に関わる危険な場所なんですよ?最低難易度のF級ダンジョンでさえ、人が死ぬなんて日常茶飯事じゃないですか……」
「え?死んだら生き返ればいいじゃない」
きょとんと首を傾げる社長。その顔には何を当たり前のことをとでも言いたげな色が浮かんでいる。
「え、死ぬ前提ですか。……もしモンスターに喰い散らかされて、死体が残らなかったらどうするんです?」
「大丈夫よ。過去には肉片から蘇生した例もあるし。骨でも肉でも、身体の10%以上が残っていれば生き返れるっていうじゃない?へーきへーき!」
「まぁ、そうですけど……楽観的過ぎるだろ……」
「それに、煉夜君以外は素人を連れて行くんだから、死ぬのは最初から織り込み済みよ」
狂気すら感じる理屈を、彼女はあっけらかんと言い放つ。
「……ちなみに、そのメンバーって、もう決まってるんですか?」
嫌な予感を抱えながら恐る恐る尋ねると、社長は満面の笑みで胸を張った。
「まだよ!これから決めるの!」
「まじか……」
「大真面目よ!」
子供のような無邪気な笑顔。嘘はない。
そうだ。この人、こういう実務的な"外堀を埋める作業"だけはやたらと優秀なんだった。
「大丈夫よ」
声のトーンが、一段と柔らかくなる。
「煉夜くんが優秀なのは知ってるし、ちゃんと見てる。だから、あなたに任せたいの。あなたなら、これ以上に仕上げてくれるでしょう?」
「そんなことないです」
「……チッ……ダメか」
「その手はくらいませんよ。褒めときゃなんとかなるとか思わないでください。俺は忙しいので、失礼――」
「煉夜くん。なら、"あの時の借り"を返すときよ」
社長はニヤリと不敵に笑い、まっすぐな視線を俺に向けてきた。
その一言で、胸の奥で頑なに尖らせていた何かが、丸みを帯びていく。
「チッ……はぁ……分かりましたよ。ただし、条件があります」
「聞こうじゃない」
「期間は一年で」
「……その間に部署の黒字化と部下の育成を完了させるってことかしら?」
「はい。」
「分かったわ煉夜くん。私はね。心の底からあなたを評価してる。期待もしてる。……だから、少しくらい無理を言っても、あなたなら応えてくれるって信じてるの」
「ありがとう、ございます」
わかっている。これは見え透いた"飴"だ。
だが不思議と、嫌な気持ちはしなかった。認められたという高揚感が、俺の防衛本能を麻痺させていく。
「というわけで、朝までに今の部署の引き継ぎ資料をまとめておいてね♡」
「あ、はい」
反射で返事をしてしまった。
ああ、これが"飴と鞭"。あるいは"飼い殺しの高等テクニック"というやつか。
いや、飴の賞味期限が短すぎるだろ。
半ば叩き出されるように社長室を後にした俺の背中に、現実という名の重圧がのしかかった。
席に戻る廊下が、やけに遠い。
社長の残照に当てられたのか、膝がまだ笑っている。
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