第10話「黒澤財閥」
逆に冷静になってきた。
清掃代と迷惑料として、即座に店員へ2万円を握らせる。
タオルを借り、火山の頭と自分のスラックスを必死に拭う。幸い出禁は免れたが、即刻退店を言い渡された。
「も……う、いっけーん……」
寝惚ける火山。俺は火山と社長を左右から抱え、引きずるようにして店を後にした。
火山の頭からは、吐瀉物の酸っぱい臭いとコンディショナーの甘い香りが混ざり合って漂ってくる。鼻が曲がりそうだ。
終電には間に合う。だが、この泥酔者二人を駅まで運ぶのは物理的に不可能だ。何より、俺は二人の住所を知らない。
スマホを手に立ち尽くし、いよいよ詰んだかと天を仰いだその時――救世主が現れた。
高級セダンのドアを開けて現れたのは、社長秘書。社長が最後の力を振り絞って発信していたらしい。
曰く「寝息と居酒屋の騒音しか聞こえなかったので察しました」とのこと。流石プロである。
車に乗り込み、まずは火山のボロアパートへ。自室の前まで送り届けると、扉が閉まり、内側から鍵がかかる音がした。直後、ドサリと鈍いダウン音が響いたが……まぁ、死にはしないだろう。
再び車に戻ると、次は俺を送り届けてくれるという。
シートに深く身体を沈め、窓の外を流れる夜景を眺める。
街を照らすのは、魔導灯の無機質な青白い光だ。
かつての原発を過去の遺物へと追いやった、魔導式発電。そのクリーンで強大なエネルギーは、いま俺を運んでいるこの車にも供給されている。
異世界から流れ込んだ未知の技術が、泥酔者二人を抱えた社畜の日常を支えている。
世の中、まったく皮肉なものだ。
「……煉夜くん」
しばらく走った時、俺の肩にもたれかかっていた社長が、不意に名前を呼んだ。
「なんすか」
「なんかゲロ臭いんだけど。もしかして、吐いた?」
「アンタのせいだよ!ったく、大変だったんですから」
「え?そうなの?」
社長は、本当に覚えてなさそうに目をこすった。
これほど酔った彼女を見るのは、全社員強制参加の地獄行事、あの年末忘年会以来な気がする。
「ねえ、煉夜くん」
「今度はなんすか」
「今日、改めて思ったけどね。やっぱ、あなたを拾って正解だったわ」
暗がりのなか、社長が不敵に口角を上げた。
俺は、探索者に戻るためにこの会社に入社したわけじゃないと猛烈に反論したかったが、あえて空気を読んで口を閉ざす。
「あの節はどうも」
「……無理矢理実家を飛び出して、会社を立ち上げ、潰れかけて、ダンジョンに潜る!最高に楽しいわ。このギリギリな感じがたまらないのよ」
「"黒沢財閥"のお嬢様なら、もっとマシな生活ができたでしょうに」
「ええ。黒沢家が独占する"蘇生技術"は、今やこの世界を席巻したと言ってもいい。……けど、あそこの空気は肌に合わなかったし、色々と気に食わなかった」
社長は窓に寄りかかり、夜の摩天楼を、まるで自分の領土にするのを待っているかのように見下ろした。
「あんな"お城"に籠もっているより、よっぽど今の方がマシよ」
彼女の視線がわずかに上向く。
夜空の果て、そこには本物の"お城"が傲然と君臨していた。
「黒沢財閥の空中ビル群、ですか。空中ならダンジョンは発生しないって言われてますもんね。仮説ですけど」
魔導エネルギーの青白い光を湛え、暗雲を割って虚空に浮遊するビル群。
漆黒の闇に輝く"黒沢財閥本部"の文字は世界を牛耳る絶対的権力の象徴であり、地上の光を吸い尽くすほどきらびやかで、同時に、下界を拒絶する冷酷さを放っていた。
「神の領域にあるあの光の檻に比べれば、このゲロ臭い車内の方がいくらか人間味があるわよ」
「ま、そうですね。人間味、ありすぎますけど」
「あなたの活躍は噂には聞いていたけれど、まさかこれほどとはね。……ふふ、最高の拾い物をしたわ」
「はぁ……そうですか。光栄です」
「これからも頼むわよ。期待してるんだから、――課長!」
社長は、俺の肩をがしっと掴み、至近距離で言い放った。
「……社長」
「ん?なーに?感動しちゃった?」
「酒と吐瀉物の臭いがキツいんで、こっち向いて喋らないでください」
「は?」
「……ふふっ」
静まり返った車内で、運転席から堪えきれないといった風の音が漏れた。
「才川?」
「失礼いたしました」
バックミラー越しに見える秘書の顔は、すぐさま鉄面皮に戻る。
「才川、今の聞いた?失礼しちゃうわよね……?で、私は本当に酒とゲロ臭いかしら?」
才川、という名前だったのか。入社してから今の今まで知らなかった。
「いいえ、滅相もございません」
「そうよね。……いいわ、怒らないから、正直に言ってみなさい」
「……正直に申し上げますと、車内に乗り込まれた瞬間から、かなり」
「あーッ!!もう、みんなして私をいじめて!楽しいわけ!?パワハラ!逆パワハラよこれ!」
社長が子供のようにシートをバタバタと叩く。車がわずかに揺れた。
「社長、暴れないでください。酔いが回りますよ」
俺は必死に社長をななめようとするが、彼女の勢いは止まらない。
「無理!もうこうなったらヤケよ!煉夜くん、もう一軒行くわよ!才川、車回して!」
「承知いたしました」
「ちょ……才川さん!本気で言ってます!?止めてください!」
「社長の命令は絶対ですので」
バックミラー越しに目が合った秘書は、心なしか楽しそうに口角を上げている。この人もこの人で、大概ドSだ。社長が窓を開ける。
「ちょ……!何して――」
「やっほぉーい!夜はこれからよぉー!」
叫ぶ社長。夜風が車内に流れ込み、酒の匂いをかき乱す。
隣で狂喜乱舞する酔っ払いと、冷徹なハンドル捌きで夜の深淵へと車を走らせる秘書。
俺は深く、深くため息をつき、逃亡を諦めてシートに背を預けた。
「……はは、そうか」
ふっと、乾いた笑いが漏れた。
明日、俺を叩き起こすアラームは鳴らない。
ならば、この理不尽な二次会に付き合って、泥のように眠るのも悪くない気がしてきた。
「分かりましたよ、社長。飲みます。……もちろん、経費ですよね?」
「バカを言わないでちょうだい」
社長は、フッと鼻で笑った。
「自分の金で飲むからこそ美味いんでしょうが。各々自腹よ」
「ですよね……」
俺は窓の外を流れるネオンの光を眺めながら、自嘲気味に口角を上げた。
どこまでもケチな上司と、搾取されるだけの労働。
明日の昼過ぎに目覚めるはずの"平和な休日"に、せめて高価なアルコールの記憶だけは連れて行こう。
車は静かに、しかし確実に、さらなる混沌へと加速していく。
都心の夜はまだ、始まったばかりだった。




