第二十五話 学芸会当日6
「……木蓮。河川敷に出たあの異形どもは、やっぱり杏のことを狙った女王反対派からの刺客だったのか?」
俺がやっと泣き止み始めた頃。
俊樹が俺から体を離して、木蓮さんに話しかけた。何事もなかったかのように。
木蓮さんもまた、気にせずに淡々と応える。
「いや。少し違う」
「は? じゃあなんだったんだ」
「あれは女王擁立派からの刺客だ。杏のことを傀儡女王に仕立て、甘い汁を啜るつもりの者たちなんだろうと予想している」
「女王擁立派……」
俺はぽつりと呟いた。
女王反対派もいれば、女王にして操りたい腹黒い派閥もあるのか。恐ろしい世界だ、あやかし界、ひいては権力闘争って。
木蓮さんは真摯な顔で続けた。
「楓を暗殺した者たちはすでに捕縛し、処罰した。黒幕についても誰なのかある程度の推測はできている。これから動くつもりだ」
「女王擁立派の連中は?」
「まだ調査が進んでいない。だが、心配しないでくれ。杏のことは必ず守る。……今度こそ、この手で」
木蓮さんの握り拳は、真っ白だった。爪が食い込んでいて、血も滲んでいる。
俺ははっとした。やっぱり木蓮さんも……姉さんを守れなかったことを深く後悔しているんだ。
「木蓮さん。すみませんでした。その、さっきは声を荒げてしまって……」
俺はおずおずと謝罪する。
俊樹もそっぽ向いたままではあるけど、「俺も悪かったよ。殴って」とやや軽い謝罪をした。まったく、俊樹は。
でも、木蓮さんはふっと鷹揚に笑うだけだ。
「気にしなくていい。私とて、誰にも責められずにいたら、つらかった。楓の死は……墓場まで背負っていくよ」
「「!」」
俺たちは目を見開き、奥歯を噛みしめる。ひどくバツが悪かった。
木蓮さんは表情こそ分かりにくいだけで、きっと本当は優しく誠実な人なんだ。再婚することはない。そう言ったも同然の発言だ。
「あの、でも……」
「なんだい」
「王様になられるのなら、その、王妃様が必要なんじゃ……」
王制について詳しいわけじゃないけど、新しい伴侶を迎え入れても不思議じゃないんじゃないかな、王様って。
俺が困惑しながら、でもかすかにある期待を込めて言うと、木蓮さんは首を横に振る。俺の期待通りに。
「必ずしも必要ではない。私にとってお姫様は楓だけだ」
「は、はい!」
「じゃあ、子どもは杏だけにするつもりか?」
俊樹が容赦なく指摘すると、木蓮さんは表情を引き締め、思わぬことを応えた。
「いや。次は男児を産むつもりだ」
「「は?」」
俺たちは発言の意味を受け取りかねた。男児を産む? 男性である木蓮さんが??
「あやかしというのは、単体生殖するのですよ。晴将様、俊樹様」
呆気に取られている俺たちに説明するのは、ひょいと顔を出した玄水さんだ。背中にすやすやと寝息を立てている杏を背負っている。杏、疲れて眠ったのか。
って、単体生殖? ええっ!?
「じゃ、じゃあ、杏の血の繋がったお母さんって……」
「存在しない」
俺と俊樹はあんぐりと口を開けて、お互いの顔を見合わせる。俊樹もそこまではあやかしについて知らなかったらしい。
「杏の母親もまた、楓だけだ」
木蓮さんの温かい言葉が、その場にじんわりと染み入った。
その日は、木蓮さんも含めた五人で夕食を食べた。
最後の晩餐だ。俺のお手製ヤンニョムチキンと俊樹の特製スイーツ、バナナチョコケーキをデザートにして。
杏は「おいちーっ!」と幸せそうに笑いながら、ばくばくと食べてくれた。
食事の後は、杏たち三人はすぐに寝室で寝た。俺と俊樹だけ、夜の間接照明の下に二人でソファーに座っていた。
寝ようと思っても、どちらともなかなか眠れなくて。
「……明日からいなくなっちゃうな。杏」
俺は小さく呟き、うなだれる。
隣に腰掛けている俊樹もまた、「ああ」とだけ小さく相槌を打った。
明日の朝、杏は木蓮さんに連れられてあやかし界に帰る。もちろん、玄水さんも。
とうとうやってきた、杏との別れ。
分かっていたし、覚悟してもいた。……はずなのに、胸が苦しくて仕方ない。まして、あやかし界なんて俺たちが会えるような行き先じゃないから。
「やだよ。俊樹……」
「泣くなって」
「杏と離ればなれになりたくない。ずっと一緒にいたい」
「うん」
ああ、そうか。杏を連れ出したというカズ君は、きっとこんな気分だったんだな。周りから見たら微笑ましい珍事件だったけど、今なら切実な思いだったのだと分かる。
『ハルおにいたん、だーいしゅき!』
笑顔で俺に抱きついてくる、俺たちにとっての小さな小さなお姫様。
でも、分かってる。何が杏の幸せか。
木蓮さんのことを信じて、杏を託すほかあるまい。杏だって、当たり前のように木蓮さんについていこうとしている。
俺たちとの別れなんて平気だとしか思えない無垢な笑顔で。
「杏なら、いつか会いにくるよ。晴将、お前に」
ぽんっ。
俊樹のごつごつした大きな手が、俺の頭に置かれる。俺はますます泣きたくなった。
「ふぇええ…っ……行かせたくないよぉぉ」
「俺もだ。でも、杏の幸せのためには手放さないとな。子離れしよう、晴将」
「っ、うん……!」
俺は涙を手の甲で拭いながら頷いた。
なぁ、杏。
杏の幸せを、俺たちは誰よりも願っているよ。
遠い、遠い、異世界の空の下から--。
そうして、翌朝。
杏は「またねっ」と笑顔で俺たちの下を去っていった。木蓮さんと玄水さんは俺たちに深々と頭を下げて。
杏のいない、静寂に包まれたリビング。
でも、俺たちは俯かず、やれやれと微笑み合いながら、最後のお片付けをした。杏がさも当たり前のように散らかしていったから。
そして。
ソファーには、杏が愛用していたタブレットがぽつんと残されていた。




