第二十話 学芸会当日1
「じゃあ、杏。今日の学芸会、楽しみにしてるから。頑張れよ」
「まっ、楽しんでこい」
「うんっ」
十一月下旬。もぎもぎ保育園。
朝の寒空の下で、俺と俊樹は杏と向かい合っている。
とうとう今日は杏の学芸会。今はひとまず、登園の見送りにきたところ。
杏の頭をよしよしと撫でると、杏は嬉しそうに笑った。「またあとでねー」と杏は教室に駆けていく。その背中を俺たちは笑顔で見送った。
「ミキ先生。杏のこと、今日もよろしくお願いします」
杏の担任であるミキ先生に軽く頭を下げると、俊樹もならって一礼した。
ミキ先生は「はい」と優しく微笑む。
「玄水さんも。よろしくお願いしますね」
「承知いたしました」
玄水さんに杏の警備を託して、俺と俊樹は来た道を引き返した。
もうすっかり枯れ木となっている並木道を二人並んで歩く。会話がなくても別に苦にならない。やっぱり兄弟だから、だろう。
「学芸会、楽しみだな。俊樹」
「一時からだっけ?」
「うん。杏のクラスは二時前後頃だって」
「ふぅん」
寒いからなのか、俊樹はポケットに手を突っ込んで歩いている。転んだら危ないよって前に言ったんだけど、「過保護すぎ」と呆れて返されてしまったことがあった。
「手袋、つければ?」
「カッコ悪いから嫌だ」
「その状態で転んだら、もっとカッコ悪いと思うけど。……怪我もするし」
ぼそっと言うと、俊樹はそっと息をつく。
「そんな無様なことはしねぇよ。だいたい、どこに転ぶ要素があるんだ。この道」
「そんなの分からないだろ。俊樹に何かあったら、杏も悲しむんだから」
そう、杏も。玄水さんだって心配するはず。
「バイクだって危ないからやめてほしいくらいだ」
俺がつい本音を吐露すると、俊樹はちょっとイラッとした顔をした。
「ひとの趣味に口出しすんな」
「心配してるんだろ」
「あー、はいはい。安全運転してるから大丈夫だよ。お前だって免許取ったらどうだ。いざという時、助かるぞ」
「バイクは怖いからやだよ。俺が運動音痴なの知ってるだろ」
「……そういえば、そうだったな」
忘れてた、と俊樹は疲れたように呟いた。なんで疲れてるんだろう。
分からないものの……ともかく。俊樹は昔からスポーツ万能だったけど、俺はその真逆なんだ。小学校時代は鉄棒で逆上がりができなかったし、高校時代も五十メートル走で十秒かかった記憶があるほどだ。
自慢じゃないけど、とてもじゃないがバイクなんて乗れないって。
「俊樹。なんか疲れてる?」
「誰かさんがお喋りだからだろ」
「俺のこと?」
「他に誰がいるんだよ」
俊樹は、ちょっとうんざりしたように息をついた。
「話してないと、歩けないのか? 来る時もずーっと三人でお喋り。よく疲れないな」
「? 話すのってそんなに疲れるのか? 俊樹は」
「限度ってもんがあるだろ。意味のないことを延々と話して」
俺はむっとした。意味のないことって。
「じゃあ、俊樹にとって意味のある話ってなんなんだよ」
「有益な話とか?」
「なんだそれ」
雑談に意味を求める方がおかしいだろ。それに……意味のないはずだった雑談から、意味のある話が生まれることもある。
人と人との関係なんて、まずは対話してみないと何も始まらないはずだ。
「じゃ、しばらく黙ってるよ。ふん、だ」
子どもみたいかもしれないけど、拗ねると、俊樹もまたむすっとした顔をする。
「子どもみたいにいじけるんじゃねーよ。誰もそこまで言ってないだろ」
「俊樹が意地悪言うからだろ」
「意地悪って……」
俊樹はなぜか絶句する。心底呆れた顔で俺のことを見やった。
「杏姫よりもお子様かよ。晴将王子は」
「それは俊樹だろ」
「……あー、もう悪かったよ。言い過ぎた」
面倒臭くなったのか、あっさりと謝罪され、俺はますますカチンときた。
なんだよ。いつも俺よりも大人です、みたいな兄貴顔をして。
「俊樹はすぐそうやって謝る」
「悪いと思ってるから謝ったのに、なんで怒られなきゃならないんだよ」
「形だけの謝罪だ、どうせ」
「いい加減にしてくれ。はぁ。……ますます疲れる」
「!」
文句ばかりだった俺だけど、目頭が少しだけ熱くなった。視界が涙で潤んで歪む。
俺は太ももの横で両拳をぐっと握った。なんだよ。そんな言い方しなくても。
慌ててぷいっとそっぽ向いたけど、俊樹は俺のうっすらとした涙を視界の端で捉えたらしかった。ぎょっとした顔で、「な、なんで泣いてるんだよ」とたじろいでいる。
俺は顔を背けたまま、冷たく返した。
「知らない。自分で考えろ」
さすがに緊急事態だと察した俊樹が、顔色を変えた。「わ、悪かったよ。本当に」とおずおずと謝罪の言葉を口にする。
「その、お前に話しかけられるのは……ええと、嬉しいから。いつも」
思いもよらぬ言葉だった。
でも、俺はつい疑惑の目を向けてしまう。
「本当に?」
「嘘ついてどうするんだよ」
「だって、俺といると疲れるって」
「話しっぱなしの状態が続くと、ちょっと疲れるってだけだ。お前の存在自体を否定したわけじゃねぇよ。そんなわけないだろ。……大切な兄弟なのに」
「!」
俺ははっとした。やっと表情に笑顔を浮かべることができた。まさか、俊樹にそんな風に思ってもらえていたなんて。
「俺も俊樹は大切な家族だよ!」
「……恥ずかしくねぇのかよ。そんなおおっぴらげに宣言して」
ちょっと呆れ気味ではあるけど、俊樹はまんざらでもない顔をしている。
ほんのり険悪だった雰囲気は一撃で吹き飛び、俺たちはまた他愛のない雑談をしながら一旦自宅へと帰る。
午前中は久しぶりに兄弟水入らずでゲームをして遊び、早めの昼食は俊樹が作ってくれた特製ラーメンを食べて、十二時頃、二人でまた家を出た。
なんと、俊樹のバイク運転で。
「こ、怖いんだけどっ」
「慣れておけよ。乗れた方がいいって」
無茶ぶりをする俊樹の腰にしっかり掴まって、俺は目をつぶる。興味本位でうっかり承諾したのが間違いだった!
ひぇえええええ!
俺の心の中だけで悲鳴を上げ、風を切って進むバイクにもぎもぎ保育園まで運ばれた。




