第二話 姉さんの死
「杏!」
警察署に急いで駆けつけると、杏が警察の人と一緒にいた。五十路くらいかな、ふくよかな女性の刑事さんだ。
「ハルおにいたん……!」
杏が泣きたそうな顔をしながら、俺の下へたたたっと駆け寄ってくる。
俺は途中から片膝をついて、勢いよく飛び込んでくるその小さな体を抱きとめた。
「ハルおにいたん! ママが、ママが……っ!」
「聞いたよ。つらかったな、杏……」
「ふぇえええん!」
大粒の涙をこぼす杏を、俺は力強く抱きしめた。
俺だって泣きたい気分だけど、大泣きする杏をいざ前にしたら、思った。俺は大人なんだからしっかりしていないとって。
「山村晴将さんでよろしいですか?」
「はい」
女性の刑事さんが遠慮がちに話しかけてきたので、俺は顔だけをそちらに向ける。女性の刑事さんは、痛ましそうな表情だ。
気を遣わせてしまって……少し申し訳ない。
「山村楓さんのご遺体までご案内します。ついてきてもらえますか」
「分かりました。行くぞ、杏」
わんわんと泣いている杏を宥めつつ、腕に抱き上げて移動する。女性の刑事さんのあとをついていって、安置室まで。
遺体は損傷が激しいということで、顔だけの確認だった。血の気がない姉さんの肌色は、驚くほど真っ白で……綺麗だけど、どこか少し怖かった。
同時に思う。姉さんは本当に死んだのだと。
民間の葬儀社にはもう搬送を手配している。今から民間の霊安室に運んでもらう。
これらの作業をスムーズにできたのは、女性の刑事さんから教えてもらったからだ。そうでなければ、一人途方に暮れていただろう。
「ありがとうございました。佐藤さん」
「ううん。……本当にご愁傷様です。気を強く持ってね」
気遣わしげな顔で勇気づけてくれる女性刑事さんに、俺は努めて笑顔で頷いた。
「はい。本当にありがとうございます。……それでは、失礼します」
俺は一礼してから、杏のことを抱っこしたまま、警察署を出る。
杏は泣き疲れて眠ってしまった。なかなかずっしりと重いけど、どうにか頑張るしかない。
「ったく、なんで既読がつかないんだよ、あいつ……!」
俺は腹立たしくも不安な気持ちで、連絡のつかない兄に毒づく。
姉の遺体を搬送中、俊樹にラインしたのだけど、既読がつかなかったのだ。もしかしたら今、やっとついているかもしれないが、杏を抱っこしていて確認できない。
もちろん、義兄である木蓮さんにも連絡した。だけど、通話は繋がらず、ラインも既読がつかない。一体何をしているんだよ、あの人も。
「……」
俯いて、とぼとぼと夜道を歩く。思い出すのは、今日別れ際の姉の顔だ。
『じゃあ、帰るから。戸締まりはしっかりな』
『ふふ。いつから私の親になったの?』
ついさっきまで、いつもと変わらないやりとりをしたばかりなのに。
なんで、なんで、こんなことになった。
俺の目からぽろりと涙がこぼれる。どうにか堪えようとしたけど、涙が溢れて止まらない。
『あんたたちのことは、大人になるまでしっかり私が面倒見るからね! 心配しないで』
ヒマワリみたいにいつも前向きで元気だった、姉さん。
誰よりも幸せになってほしかったのに--。
「っ、姉さん……っ!」
静かに泣きじゃくる俺の声を聞いて、杏が起きてしまった。
「ハルおにいたん……?」
杏は心配そうに俺のことを見上げてきた。小さな手を懸命に俺に向かって伸ばす。
俺はますます泣きたくなった。杏の手を強く握りしめたかったけど、手が塞がっている。だから代わりに抱きしめることしかできず。
「強く生きていこうな、杏……」
俺は杏に向かって小さく呟き、ようやく涙を落ち着かせた。
杏がいるのにいつまでも泣いている場合じゃない。それにこれから、葬式の手配や知人親戚への連絡などやることはいっぱいある。
その時だった。
「晴将!」
道路の向こう側から、見知った声が響いた。俊樹の声だと遅れて気付いた。
俺ははっとして顔を正面に向ける。
「俊樹」
「はぁ、はぁっ、姉貴が事故って死んだって本当か……?」
俊樹は息を切らしながら駆け寄ってきて、すぐ手前で立ち止まった。
仕事着だ。青い長袖シャツに、だぼっとしたシルエットの青いズボン。靴も先端に鉄芯が入っているらしい安全靴。
俊樹は高校卒業後、鳶職の仕事に就いたんだ。そうか。ずっと仕事だったんだな。
俺はきゅっと下唇を噛みしめた。感情を押し殺して、努めて平静に応える。
「本当だよ」
「その子は?」
「杏。姉さんの……その、娘だ」
義理の娘だと言ったらダメだと思って、ただ事実でもあることを告げる。
だけど、俊樹の表情が険しくなった。木蓮さんの連れ子だと察したからかもしれない。顔に出すなと言いたいけど、苛立つ気持ちは理解できる。
「あいつはどこだ」
「まだ、連絡がついてない」
「はぁ!?」
俊樹が大声を出すと、杏がびくっと体を震わせた。
この暗闇の中だ。俊樹には見えていなかったらしく、気にせず怒号し続けた。
「さっさと連絡つけろよ! あいつが旦那だろうが!」
「やめろよっ。杏の前で怒るのは!」
俺もつい声を大きくしてしまった。
杏はもう小刻みに震えている。そのことに気付き、俺は杏に「ごめん、ごめん」と謝りながら優しく抱きしめた。
俊樹もはっとしたように顔を背け、黙り込む。
「……で? 姉貴の遺体はどこだ」
「民間の安置室に搬送してもらった。これから実家に帰って、葬式の手配とか進める」
「……」
「俊樹も葬式に出るよな? きちんと礼服を着てこいよ。じゃあ」
俺は杏を腕に抱えたまま、俊樹の横を通り過ぎようとした。
本当はもっと言ってやりたいこと、伝えたいことはある。でも今は平静じゃいられず、時間を置いてから話し合おうと思った。
「待てよ。……俺に言いたいこと、何かあるんじゃねぇのか?」
俊樹がなぜか分かったように引き止めてきた。
俺は足を止めた。俊樹に背中を向けたまま少し考えてから、でもやっぱり静かに返した。
「ないよ。別に」
「嘘つけ」
「ないって言ってるだろ」
冷たく言うと、俊樹が背後からガッと俺の肩を掴んだ。強引に振り向かされて、俺は涙に濡れた顔を見られてしまった。
「!」
俊樹ははっとした顔をする。肩から手を離し、戸惑った顔になる。
「な、なんだよ。泣いてるなんて」
「うるさい」
俺は一瞬だけ杏から手を目元まで移動し、慌てて涙を拭う。
俊樹の顔を見たら、ほっとしたんだ。ちゃんと駆けつけてくれたこと、縁はまだ切れていなかったこと、そして--俊樹は無事だったこと。
本当によかった。
「……悪かったよ。よく分からねぇけど」
俊樹はおずおずとした様子で謝罪した。よく分からないのに、なんで謝るんだ。
「何に謝ってるんだよ」
ツッコミをいれると、俊樹はぶっきらぼうに言う。
「俺が泣かせたのかと思ったんだよ」
「……」
「違うのか? ちっ。謝り損だな」
舌打ちされたけど、俺は黙ったままでいた。違わないけども、素直に言えなくて。
俺たちは昔からこうだ。俺が怒ったり泣いたりすると、俊樹が謝罪してくる。俊樹は粗暴で口も悪いけど、すぐに謝りがちで。心根は優しい奴だからなんだろうと思う。
俊樹はそっと息をついた。
「いつまでも姉貴のことでめそめそしてるんじゃねーよ。はぁ。……もう、いなくなったもんは仕方ねぇだろ。っ!?」
俺が涙目で睨みつけると、俊樹ははっとした顔をする。すぐにバツが悪そうに目を伏せ、後頭部をがりがりと掻いた。
「……悪い」
「~~っ、なんでそんなにすぐ、気持ちを切り替えられるんだよ! 姉さんが死んだんだぞ!? 悲しくないのかよ!」
今度は俺が声を荒げると、でも俺の腕の中にいる杏は不思議と怖がらなかった。
俊樹は、苛立った表情をした。きつく下唇を噛みしめ、俺のことを睨み返す。
「悲しくないわけねぇだろ!」
「じゃあ、さっきの言葉はなんだよ!」
「それは……!」
俊樹は何かを言いかけ、でもぷいっと顔を俺から逸らした。
「……まぁ、あれだ。言葉の綾ってやつだよ。本当に悪かったって」
「……」
何を言いかけたのか。気にはなる。
だけどそれよりも、もっと他に言いたいことがあった。どうしてもっと早くきてくれなかったのかって。
でも、いつまでも兄離れしていない弟みたいだし、本当に申し訳なさそうな顔をしている俊樹のことをこれ以上は責めたくない。
姉さんを亡くして悲しんでいるのは、俺だけじゃないんだ。
「晴将。これから実家に戻るのか?」
「ああ」
「俺も行ってもいいか?」
俺は驚いて、ついまじまじと俊樹の顔を見つめてしまった。
俊樹は変な顔をする。
「なんだよ。ダメなのか?」
「違う。全然いいよ」
俊樹も実家に帰ってくる。半年ぶりに。
ちょっぴり嬉しかった。そのことだけは。
それに……色々と助かる。一人で葬儀の手配やら何やらをできるか心配だし、杏のこともある。一人で心細かったんだ。
「何を嬉しそうなんだ? 晴将」
「う、嬉しくなんかない! 気のせいだろ」
怪訝な顔をする俊樹に、俺はつい意地を張って言い返すしかない。
久しぶりに再会した兄との時間。
この場に姉さんがいないことだけが、とても寂しかった。




