第十話 似顔絵
「ハルおにいたん、にがおえだよっ」
その日の夕方。
保育園に杏のことを迎えに行くと、杏は勢いよく抱きついてきて、俺に一枚の画用紙を見せてきた。
赤、青、緑、黄色。色んな色のクレヨンでぐちゃぐちゃに描かれた、丸い似顔絵。
これが俺なのかというツッコミよりも、嬉しさのあまり、俺は涙ぐんでしまった。じわっと視界が熱くなる。
「ありがとう、杏。よく描けてるな」
じっくりと画用紙を見つめながら、杏の頭もよしよしと撫でる。杏は嬉しそうに「えへへ」と笑った。
子どもに似顔絵を描いてもらうことが、こんなにも嬉しいことだなんて。
そういえば、俺の両親も昔は俺たちが描いた似顔絵をリビングに飾っていた気がする。両親も当時はこんな気持ちだったのかな?
俺も、家に帰ったら杏が描いてくれた絵をどこかに飾ろう。死ぬまで大切に保管しないとな!
ひとまず、画用紙をくるくると丸めて持ち、杏の手を引いた。先生方には「ありがとうございました」と一礼して、保育園を出る。
銀杏がひらりと舞っている道には、まばらに車が行き交っている。俺は車道側を歩き、杏のことは歩行者側を歩かせる。何かあったら大変だ。
「今日も楽しかったか? 保育園」
「たのちかったよ。ハルおにいたんはどこに行ってたの?」
「俺は大学に行ってた。朝、話しただろ?」
「ダイガクってどんなところ?」
「んー。大人が通う、大きな保育園みたいなとこだよ」
全然違うかもしれないけど。杏が想像しやすいようにそう伝えた。
杏はにぱっと笑う。秋のコスモスみたいな笑みだ。はは。屈託がない。
「じゃあ、ハルおにいたんもちゃんとお友達がいるんだね」
「うん。自慢の友達がたくさんいるよ」
「ふーん。コイビトは?」
「え?」
俺はぽかんとしてしまった。なぜ、ここで恋人!?
ま、まさか、杏には恋人がいるっていうのか……!?
「い、いないけど。杏にはいるのか?」
「けっこんをやくそくした子ならいる。ぷろぽーずされたの。前に」
「ええ!?」
嘘だろう。まさか、この年で将来を誓い合うなんて。
誰なんだ、そいつは!
「も、もしかして、カズ君か!?」
「そうだよ。どうちてわかったの?」
「ハ、ハルおにいちゃんの勘だよ。でもそうか、やっぱりカズ君なのか……」
誰なのか分からないものの。
ううっ、ショックだ。杏がいつかお嫁に行ってしまうなんて……!
しゅんとする俺のことを、杏は「?」と不思議そうに見上げていた。
それから家に帰宅した俺は早速、杏が描いてくれた似顔絵を額縁に入れてリビングに飾った。棚の上にある、杏と姉さんのツーショット写真の隣に。
ちょっと無理矢理、押し込めてしまったけど。でも、いい感じだ。
「もしかしたら将来、美術系の学校に進むかもなぁ……杏は」
俺はつい独り言をこぼす。トンデモ親バカかもしれないことを考えて。
杏はソファーにちょこんと座って、早速タブレットだ。姉さんが買い与えてから、動画にハマってるんだよな。
「杏。今日の夕ご飯は何が食べたい?」
俺がいそいそとエプロンを着けながら声をかけると、杏は即答した。
「やんにょむちきん!」
「好きなのか? ヤンニョムチキン」
「うん。ぴりっとしておいちいのー」
「はは。そうか。分かった」
杏、ヤンニョムチキンが好きだったんだな。姉さんが作ってくれたみたいな、おいしいヤンニョムチキンを頑張って作ってみせるぞ。
杏をリビングで遊ばせながら、俺は気合いを入れて料理に挑む。
確か、お肉に下味を付けて、あとは片栗粉をまぶしてから焼けばいいんだったよな? ずぼらな俺からしたら手間だけど、杏と俊樹のために頑張る。よし。
ドタバタしながら下味を付けた鶏胸肉を片栗粉にまぶす。片栗粉を入れてあった袋を閉じると、ばふんっと粉が舞って、俺はむせこんだ。
片栗粉……だから、苦手なんだ。
まぶし終えた鶏胸肉を、ジューッっとフライパンで焼いていた時だ。
「ただいま」
あ、俊樹の声だ。帰ってきたんだ。
杏はリビングでタブレットを見たまま、俊樹に「おかえりー」と声をかけていた。動画に夢中みたいだ。やれやれ。
「おう。ただいま」
「俊樹! おかえり!」
俺も対面式キッチンから、笑顔で声を張り上げる。
俊樹は素っ気なく「はいはい。ただいま」と返してきた。
俺は少しむっとする。ちぇっ、なんだよ。人をあしらうみたいな軽い挨拶だな。
ちょっと膨れっ面になる俺から、俊樹は強い視線を感じたのか。「な、なんだよ」とびっくりしたような顔をしていた。
俺は素直に白状するのがさすがに恥ずかしくて、「なんでもない」と言葉を飲み込む。
俊樹はそれ以上何も言わなかった。さっさと二階に上がっていってしまう。仕事着から着替えるためにせよ、……むっ。気にならないのか? 俺のこと。
やがてジャージに着替えて戻ってきた俊樹は、まず杏に話しかけていた。
「保育園、どうだったんだ?」
「たのちかったよ。たくさん絵をかいたの。……あっ、そうだ!」
杏ははっとした顔をして、部屋の隅に走って行く。置きっぱなしにしていた赤い鞄から、ガサゴソと何やら画用紙を引っこ抜いた。
「トシおにいたん。はい、これ」
「なんだ、これ?」
俊樹は画用紙を受け取って、くるくると開く。内容を把握した瞬間、俊樹は目を軽く見開いた。
「もしかして、俺の似顔絵か?」
「うん。きょう、ほいくえんでかいてきたの」
「……へぇ。上手いじゃん。サンキュ」
俊樹は杏の頭をぽんぽんと軽く撫でて、優しく笑う。
俺でもびっくりするほど優しい笑みだ。杏もびっくりして固まっていた。
俊樹は怪訝な顔だ。
「ん? なんだよ」
「トシおにいたんがやさちーなんて……おかぜでも引いたの?」
「はぁ?」
俊樹は心外そうな顔だ。
「人がせっかく褒めたっていうのに。はぁ。褒めて損した」
「そん?」
「杏に受け止めてもらえなかったって意味だよ。本当に上手だと思ったのになー」
「! ご、ごめんなたいっ」
杏は慌てて謝って、俊樹の足下にぴったりと抱きつく。
「ありがとー、トシおにいたん! うれちい!」
素直に喜ぶ杏を見た俊樹は、ふっと笑みをこぼす。画用紙に視線を戻し、次に俺をちらりと見た。
「晴将よりは上手いな」
からかうように呟く俊樹。
俺はかちんときてしまった。言葉の内容に腹が立ったんじゃない。意地悪されて、これまでの理不尽な苛立ちが爆発してしまった。
「なんだよ、俊樹! さっきから!」
「は? さっきからって?」
「自分で考えろ!」
俺はふんっと拗ねてそっぽ向く。
ちょっぴり焦がしてしまったいくつかのヤンニョムチキンを、わざと俊樹のお皿にたくさん乗せる。杏の分だけは綺麗な色のヤンニョムチキンを取り分けたけど。
そのことに気付いた俊樹は、呆れていた。「子どもかよ」と呟く。
「何を怒ってるんだよ。お前は」
「俊樹が悪いんだろ」
「ちょっとからかっただけだろ。別に本気で晴将の絵が下手だとは思ってないって」
「杏の絵が下手だっていうのか!?」
遠回しな俊樹の本音を聞いて、俺はますます怒りが噴火する。ああもう、頭がこんがらってきた!
「もういいっ。とっとと夕飯、食べよう!」
杏はソファーからひょいと下りて、こっちに駆け寄ってくる。「ハルおにいたん、何をおこってるの-?」と純粋そうに首を傾げながら。
俊樹がぼそりと言う。
「……ヒステリック」
「はぁ!?」
誰がヒステリックだ! っていうか、誰のせいなんだ!
まったくもう!
テーブルに座って、俺たちは夕食をいただく。俺が憤然ともぐもぐ食べていても、俊樹は気にせずスルーして、ヤンニョムチキンを口に放り込む。
「おっ、うまい」
ちょっと香ばしいけど、と余計な一言もつける。
杏も「おいちー!」とはしゃいでいる、その時だった。




