大団円・その10
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案の定というべきか青年を襲った怪異の群れは藤原の周りに寄り付こうともしなかった。襲われたとしても大した傷にはならないだろう。もし仮に致命傷となるのであれば、長年寄り添った希死念慮と添い遂げる事ができる……――――己の生に絶望する藤原にとって歓迎すべき懸念であった。
手につけていたゴム手袋を道路脇に投げ捨てると岡山から連れてきた自身のバイクに跨り、車が走っていった小江の私道へと駆け抜ける。どうせ誰ともすれ違う事もない私道だ、ヘルメットすら被らず夜闇の中、星の光に照らされた亜麻色の髪が靡く。限界まで速度を上げると前方で停まる灰色のセダンが見えてきた。
藤原がバイクを脇に停め駆け寄ろうとした刹那、セダンの後部の扉が開いた。そして間を置かず隣に座っているだろう日吉に蹴り飛ばされた朔也がアスファルトに転がる。
「都会の餓鬼が、犬の餌になっとけ!電子マネー預かっておいてやるからよぉッ!」
「待っ……!!」
日吉の品のない笑い声と共に扉は勢い良く閉められ、そのまま朔也を置き去りにしセダンは神社へと続く道を猛スピードで駆け抜けていった。
取り残された朔也は遠のいていく車に手を伸ばしかけてその動きを止め、息を呑む。
「………――――ッ」
――――《《女》》がいた。
明るいブラウンの長髪を地面にまで垂らした白いブラウスのワンピースを着た《《女》》は長いまつ毛を伏せて物憂げな表情を浮かべ、背後から朔也に覆いかぶさるように覗き込んでいた。
どこにでもいる《《ただの女》》だ。
だが……――――
「――――同じ、だ。」
藤原は直感する。
あれは《《ひとでなし》》だ。
人の皮を被り、人に倣い、人に成り済まし、人の世に蔓延る、人ではない《《なにか》》。
つい先月まで藤原の妹という設定で顕現していた女……――――西千鶴と同じ、《《人ならざるもの》》だ。
確証はない。強いて挙げるなら女を見る朔也の様子がおかしかったからだ。
朔也は目を限界まで見開いて顔中に滝のような汗をかき細かく荒い息を繰り返す。アスファルトについた膝はガクガクと震え今にも崩れ落ちそうであった。
決してただの散歩中の女を見る目ではない。
怪異の姿は人によって見え方に差異が生じるのだという。藤原の目にはただの女にしか見えないそれは、恐怖で固まる少年には別のものに視えているだろう。
藤原はバイクの座席からもう一枚ゴム手袋を取り出すと両の手に装着する。残されていた最後の真空パックのチャックに手をかけたその時、朔也の体が大きく揺らいだ。
「うわああっッ!!!」
ポケットから取り出した、恐らく自傷用のカッターナイフを女めがけて振りかざす。女が寸前で刃をかわすと、ふわりとワンピースを翻して一歩後ろへ下がる。朔也は恐怖を抑え込むように激しく女を睨みつけながら、両足で地面を踏みしめて車が去った方角に背を向けその刃を突きつけた。
「あいつらを……助ける義理はないけど……――――」
少年の泥のように淀んでいた黒い瞳に閃光が走る。
――――ああ、《《あの目》》を知っている。
藤原の背筋に歓喜にも似た憎悪が這い上がる。
「俺は……、俺はもう《《見て見ぬふりをしない》》!!」
ひとでなしに立ち向かう少年の瞳は、あの男と《《同じ目》》をしていた。
散々虐げられ、奪われたにも関わらず身を挺して他者を守ろうとする姿に藤原は見覚えがあった。
この世のものならざるひとでなしに対峙する少年が、あの日、殴り合いの末にマウントを勝ち取り拳銃を突きつけた時の村上八朔の姿に重なる。
藤原の事を殺したいほど憎んだ癖に、あの男は最後のギリギリで全ての他者を救う為に思い留まろうとした。「私」の結界を張ろうと、快楽にも似た憎悪を押し殺したあの男。
――――正直、諦めていた。
村上の意識を取り戻す方法があるならと村を訪れたが、同時にそれが永遠に叶わない事もわかっていた。共に歩み幸福にしたいと心から愛した”誰か”と、全てを奪い絶望の底に叩き落としたいと心から憎んだ村上。藤原は双方に二度と会う事はない。
田所や柘榴の依頼を受けたのも、《《生に妥協する理由》》を欲していたからだ。
少年を見る。
きっとあの視界には悍ましい化物の本性が映っているのだろう。
それでも、自身を時間稼ぎに蹴落とした日吉らを守る為に少年は立ちふさがった。
――――《《聖人きどりの愚者》》。
藤原がこの世で最も嫌悪し、渇望する存在。
――――もしかしたら。
藤原の心臓に一縷の期待が芽生える。
根を下ろし殻を食い破るように成長するそれを抑えることが出来ず、真空パックを足元に落とすとゴム手袋越しに胸を掻きむしる。額から湧き出る汗が鼻筋と顎を伝い、アスファルトに滴り落ちた。
希望が稲妻のように体中を駆け巡る。
《《彼なら》》……――――否、彼だけが……―――
「俺に罰を……――――」
希望が光となって藤原の視界を焼き付ける。
この現し世に藤原を裁ける者は存在しない。
死後の世界があったとしても、藤原に罰を与える存在は何処にも居ない。
全ての罪を赦される藤原に寄り添い、その罪を咎めることが出来るのは《《人ならざるひとでなし》》と、《《村上八朔ただ一人だった》》……――――双方を満たしていると、この時の藤原はまだ知らない。
――――この世界で彼にだけ、復讐の権利《動機》がある。
翡翠色の瞳に浮かんだ涙の向こうに、覚悟を決めた少年の顔が映る。
真っ直ぐ女を見据える瞳には確かな覚悟と、兄にはなかった僅かな後悔の色が滲んでいる。
それでも恐怖を押し殺し立ち向かう姿に後光すら差して見えた。
藤原はハッと我に返ると足元に転がった真空パックに手を伸ばす。
脅威は去っていない。白いブラウスのワンピースに身を包んだ女は瞼を伏せたまま少年を優しく見つめながらゆっくりとその手を伸ばす。
先程、青年の喉笛を噛みちぎった個体よりも遥かに格が高いのだろう、果たして暴力《穢物》でトドメを刺せるかどうか……――――
「愚かしい勇気ですよ。少年!」
やっと見つけた唯一の希望を、ここで死なせるわけにはいかない。
女の手が少年の頬に触れる寸前に藤原は中身を取り出すと投手のように大きく振りかぶった。
「そこにいるのですね!?」
投げつけた猫の糞が女の後頭部にぶち当たる。
「……――――でも、嫌いではありません。」
刑務所で便器に投げ捨てた蛇のように、溶けた肉が蒸気となって空中に舞い上がった。女の絶叫が辺り一帯に響き渡り、羽を休めていた鳥たちが一斉に飛び立つさまに少年は息を呑んで顔を上げる。
「く……ッ!なにこれ……」
糞と無惨に溶ける肉体に、さながら地獄のような臭いが立ち込めて朔也は鼻を塞ぎながらその場から後ずさる。
ドロドロの肉塊に溶けていく女を見届けながら、藤原はゴム手袋を外すとその辺に放り投げた。
「間一髪!間に合ってよかった。」
「アンタは……」
状況を飲み込めない朔也が異臭に顔を顰めながら振り返る。困惑の色を滲ませた黒曜石の瞳に、湧き上がる希望を抑え込んで微笑む藤原の姿が映し出される。
「さっきの不審者!?」
「それを訂正しようと思いましてね、急いで追いかけてきたのですよ。」
藤原は朔也の側まで歩み寄ると一回り以上小さい体を静かに見下ろした。怪訝そうに見上げるその表情にはもう恐怖は残っていないようだった。
「私は八人塚岬と申します。「心霊探偵」を生業としている者です。」
「心霊……探偵?」
漫画や小説の中でしか見たことがない胡乱な職業に朔也の警戒が強まる。毛を逆立てる子猫のような仕草に抱きしめたくなる程の愛おしさすら込み上げてくる。藤原は安心させるように身をかがめて顔を覗き込むとにっこりと微笑んで続ける。
「普段は下級霊や下級妖怪などを相手にしているのですが……――――これほどの大物は久しぶりでした……いやー、同業者にマウントが取れますね。暫くは自慢できそうです。」
茶目っ気を含ませると朔也はやっと自身の命が助かった事を実感し小さく安堵の息を吐く。
刹那、道路を隔てた山の向こうで犬の遠吠えが響き渡る。
ようやく緩んだ緊張の糸が再び張り詰める。
「気にしなさんな。残党の遠吠えでしょう……――――」
「でも……まだ犬が……――――」
「ああ、そうだ。うんこの他にもう一つ君に頼みたいことがありましてね……」
この村の連中は畜生と共に生活をしている。つごもりの法は何処よりも強固であったし、住民はみな正直な善人だ。藤原のような魔性に《《唆されやしない限り》》獲物になる事はない。遠吠えに怯える少年の意識を引き戻すように藤原は懐から一枚の写真を取り出す。
「実をいうと、最初から君に用があったのですよ。」
「俺に?」
「ええ、《《この子》》を一緒に探しては貰えませんか?」
朔也は眼前に突き出された写真を、おずおずとした手つきで受け取る。
「この子は西千鶴……私の妹なのですが、この村で行方不明になりまして……――――彼女の捜索に外部の人間の手を借りたかったのです。」
黒く大きな瞳に藤原と同じ色をした女の姿が映り込むと、少年の頬が桜色に染まった。先程、少年の勇気を見た藤原が味わったものと似て非なる天啓が、雷のように頭からつま先に駆け巡る。朔也は食い入るように写真を見つめながら瞳を輝かせる。耳まで赤く染まった様子を見て、思わぬ誤算に藤原は視線を軽く泳がせる。
千鶴は外見だけなら藤原に良く似た美少女であった。
内面のドス黒さで忘れがちであったが、思春期の真っ只中の少年がうっかり恋に落ちてもおかしくはない。不都合はない、むしろこれから先、この少年を思い通りに導くには好機とも言える。藤原は高笑いしたい衝動を抑え込みながら、真剣な面持ちで続ける。
「私はこの村では、怪異退治という別件で訪れたことになっています。村の連中にバレると少々面倒な事がありましてね……」
「え……、あ、うん……」
「圧倒的に人手が足りず、絶望しかけておりました……ですが、その時!君たちが東京から引っ越してきたのです!まさに天啓!!」
瞬きもせず写真を見つめる朔也に、藤原は宮比を真似て大げさに抑揚を付けながら握り拳を掲げる。傍から見れば滑稽な道化に見えるように演技にも熱が籠もる。
「どうか、私の手伝いをしておくれ少年!一緒に妹を探し出してくれ!!」
朔也は写真をジーンズのポケットに仕舞うと「調べによると暇そうだし……」と続ける藤原を遮るように拳を両手で握りしめる。頬を紅潮させ潤んだ瞳で藤原を見上げるとやや興奮気味に息を吐き出した。
「わかった、俺で良ければ全力で協力するよ!」
思わぬ一目惚れに、朔也の顔に生気が灯る。
藤原は苦笑いを返しながらもう片方の手で少年の肩を叩く。
「おやおや……随分と距離感がバグりましたね……」
――――成る程、これが《《生きる目的》》か。
目先の希望に瞳を輝かせるその姿に藤原は内心で納得をする。
――――この少年と自分はよく似ているのだろう。
家族を、帰る場所も、戻るべき日常も、愛する人も失い……全てを惰性でやり過ごしていた《《生きる目的》》を持たない愚かな人間。
欲と色に弱い、本当に何処にでもいる……――――ただの子供。
それでも、あの男の面影を遺した、唯一の存在。
藤原の手の温かさに朔也ははっと我に返る。
慌てて振り払うと野犬の遠吠えが聞こえる方角へ視線を移す。そして蛙と虫の喧騒に消えそうなほど小さな声色でつぶやいた。
「あの人……」
「うん?」
「あのコンビニの……大丈夫かなあ……」
流れた血の色を思い出したのか、本来の血色を取り戻しつつあった朔也の顔色から再び血の気が引いていく。
「店長が止血をして救急車と警察を呼んでいましたよ……あと我々に出来ることは取り調べに素直に応じて、無事をただ祈るだけです。」
「……うん。」
日吉の友人の生死など心底どうでも良い藤原と違い、朔也は心配から瞼を強く閉じる。自身を抱き込むように身をかがめると、その場にしゃがみ込んだ。
「スマホ、持ってかれちゃった……あのお兄さんたちも無事だと良いんだけど……」
自身を恐喝した相手の心配をする姿に、藤原は同じようにしゃがみ込み、昼に小江柘榴がやったようにその両頬に優しく手を添えると、安心させる為になけなしの慈悲を込めて顔を覗き込む。
「きっと……――――大丈夫ですとも。」
「でも……」
「どうしてそんなに自身を責めるような顔をしているのです?」
「……――――」
藤原の問いに答えられず朔也は視線を泳がせる。
小江灯を眼の前で死なせてしまった自責の念が、今も尚付き纏っているのだろう。
「貴方は何も悪くない……そうでしょう?」
「…………――――」
「……――――仮に……そうですねえ、取り調べ中やご両親に責められる事があっても、《《私が貴方を赦しましょう》》。」
聞き慣れた無責任な言葉に朔也はハッと驚いて視線をもとに戻す。
精一杯に見開かれた瞳に、態とあの男の薄ら笑みを真似た藤原の顔が映りこむ。
「赦しましょう、きっと大丈夫ですよ。」
「……にいちゃ……」
「さっ。コンビニに戻りましょうか。警察のお説教はきっと長くなりますよ。」
藤原は立ち上がりさっと朔也に手を差し伸べる。
朔也は一呼吸だけ瞳を強く閉じると手を握り返す。
「これからよろしくお願いします、少年。」
「うん。よろしくね……――――八人塚先生。」
少々強引に浮かべた笑顔に、藤原は歪に口角を上げる。
―――どうか。
藤原は祈る。
この少年にとって、自分との日々が掛け替えのないものになりますように。
藤原の生を終わらせるのはきっとこの少年の小さな手だけだ。
藤原を罰してくれるのは、この世で彼しかいない。あの女狐には渡さない。渡してなるものか。
全てを悟った日、朔也は強く恨んでくれるだろうか。
絶望でふさぎ込むだろうか。
――――どうか、憎んでくれ。
藤原は願う。
もし、藤原との日々を選び兄を見捨てる事があれば、それはそれで溜飲は下がるだろう。だが兄譲りの高潔な勇気を携えたこの少年は、決して藤原を赦しはしないだろう。絶望の果てに、糾弾してくれる筈だ。
――――どうか、殺してくれ。
藤原は切望する。
希望に満ちたその瞳が憎悪で染まる、その日まで全てを賭けてその身を守ろう。
あらゆる悪意と策略から盾になろう。
側で寄り添い、孤独を癒し、正しい方角へ導こう。
溺れる程の幸福を与えよう。
このともすれば暴れ狂う憎悪を、ありったけの愛情で包み込もう。
藤原は縋る。
だから、どうか、俺を赦さないでくれ。
どうか。




