大団円・その7
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藤原が西の離れに引っ越して、3日後の8月1日。
草木も枯れる程の茹だるような暑さの中、村上家が養子となった朔也を伴って小江本邸へ挨拶に訪れた。
新しいつみしろを一目拝もうと小江一族が、藤原が訪れた際に通された大広間に集っている。全員が礼服に身を包み硬い表情のまま黙って正座している光景はさながら葬式のようであった。上座に座り普段着に身を包んだ「私」と柘榴の膝でくつろぐ猫だけが物々しい空気の流れに逆らい続けている。
息子に直に会うのは初めてであった。
軽い挨拶と聞いてラフな格好をしている子供は全身に突き刺さる視線にすっかり萎縮してしまっていた。
小さく、弱く、何も知らない、ただの子供《食い物》……――――生かしておいて正解であった。今まで食い殺された子供たちの中でも特に別れた女の面影を強く残すあどけない顔に、久しく忘れかけていた父性が泉のように湧き溢れる。
話したいことは沢山あった。
お前の兄がいかに善に満ちた外道であったか、全てを守ると決めた美しい覚悟と、行き過ぎた正義の果てに辿り着いた蛮行とも呼べる最期を、「私」自らの口から聞かせてやりたかった。
しかし、それはこれから先に機会があるだろう。
込み上げてくる感傷を抑え込み、緊張で縮こまるその姿を見つめる。
震える両手をついて頭を下げる姿は、まるで許しを請う奴隷のようだ。
「私」は思考を巡らせるのも億劫で、ぼんやりとあぐらをかきながら藤原の視点を覗き込む。
藤原は儀式にも近しい光景を西の離れに設置された防犯カメラから覗いていた。使用人が使う台所から勝手に拝借したカメラは、酒の席の折にスムーズに配膳が追いつくよう設置されたものだった。古いモノクロの画面に緊張で青い顔色をした村上一家の姿が映り込んでいる。
村上八朔の姿が見えず、藤原はつまらなさそうにインスタントコーヒーを啜る。
村上八朔は歩行どころか排泄すら困難な状態らしい。おおかたヘルパーに預けて来たのだろう。あの思い出すだけで反吐が出る薄ら笑みを拝めなかった事は残念だが、対峙してしまったが最後、この必死の思いで繋ぎ止めた正気すら憎しみの濁流で決壊してしまいそうで、藤原は心の何処かで安堵を覚える。
『遠路はるばるよういらっしゃいました、村上様。はじめまして、私が朔日村の村長、小江柘榴と申します。』
柘榴は数日前に藤原に向けられた警戒と軽蔑を含んだ視線とは異なり、慈愛と憐れみに満ちた深い赤色で村上朔也を見つめながら微笑む。少々飽いた「私」が大口を開けてあくびをすると、少年はくしゃみを繰り返しながら益々その顔色を悪くした。
「両親を見殺しにしといて、よくやるよ……」
この5年で藤原はタバコを吸わなくなったどころか酒すら絶っているらしく、口元が常に落ち着かなかった。欠けた部分を補うように、泥水のような濃さのカフェインを流し込む。
『大丈夫、《《この村で貴方を脅かすものは何もありません》》。《《他所から恐ろしいもの》》がやってきても、我々が全力でお守り致しますわ。』
カメラは音声まで拾えないが、口元の動きから何を話しているかは大体推測できた。
柘榴は緊張で強張る少年に微笑みかけながら、その頬を黒いレースに覆われた両手で包み込む。そのあまりにも白々しい演技に藤原は鼻で笑う。
「さて……――――どう、動きましょうかね。」
舞台の役者は揃ってしまった。
藤原は視線をカメラから上に向けると天井に取り付けられたクーラーに視線を移す。吹き出し口に付着した埃が冷気に煽られて上下に揺れるのを何の感情も抱かずに眺める。
岡山の自宅から届けられたのは着替えを含めた日用品とつごもり信仰に関する幾ばくかの資料だった。”覚えの中”で常に人の上に立ち続けていた頃の名残か、藤原には掃除や私物を整理整頓するという概念が乏しい。備え付けられていた空のタンスの傍らでガムテープが引っ付いたままの段ボールが積み上げられている。
あとはあの少年に接触するだけだが、柘榴は少年の調子の悪さを顧みて村に慣れる方が先だと踏んだのだろう、この挨拶の後に藤原が呼ばれそうな気配はなかった。
暇をつぶそうにもこういうときに限って田所は、広島県警獣害対策課の本部に戻っている。「私」も村上一家が帰った後、次期家長として親戚の相手をせねばならないので、時間を持て余した藤原の相手をしてやる事は叶わない。
これまでに至る藤原の行動は全て小江柘榴の手のひらの上である。
ここで動こうが待とうが、どちらに転んでも咎められることはないだろう。
柘榴自ら紹介されるまで大人しくしておいてやっても良かったのだが、都合の良い駒として振り回されるのも癪に障っていた。
「村を見て回るのも仕事の内、と。」
藤原は段ボールから仕事用の衣服を漁る。白い長袖のシャツに袖無しのベストを身につけ、スラックスの上から袴を履き壁にかけられていたマントを羽織ると、備え付けられていた姿見に随分と滑稽な姿が目に入ってきた。
――――8月の炎天下に我ながらどうかしている。
若干湿気や汗で濡れたシャツが肌に張り付く不快感を覚えるものの、着心地自体然程は悪くない。
それよりも……――――、と視線を黒いリュックサックへ向ける。
「……――――何考えてんだろうな……」
中身は空にも関わらず、染み付いてそこはかとなく漂う異臭に盛大に眉をひそめる。
つい先日まで収められていた《《モノ》》、そしてこれから収めなくてはならない《《モノ》》の存在に、藤原は長く伸びた亜麻色の前髪を耳にかけ大きくため息を付いた。
――――藤原には霊感がない。
”弥勒藤太”であった時から藤原は超常現象を感知する第六感を持ち合わせていなかった。
心霊現場に漂う悍ましさや神前に張り詰めた霊験灼かさを覚えるどころか、乱視の混じった近眼の瞳にはツイタチのアカウントすら目視する能力はない。
侠客として身をおいていた裏社会は表より死や疫病が極めて身近なものとして存在する。故に人の手に余る超常現象に巻き込まれる確率は真っ当に税金を払って生きるよりも高かったが、霊感がなかったからと不便な思いをした事は一度もない。むしろ感知が人より鈍い分、恐れを知ることもなく深く踏み込む事が出来たので状況次第では有利だったと言っても良い。
――――だからとは言え……と、藤原は自身の後頭部を掻きむしる。
霊感のなさをカバー出来るほど心霊や宗教に対する知識があるわけでもない。だがこうして表社会で……少なくとも田所の信頼を得る程度には「心霊探偵」として積み上げた実績を得る確かな除霊方法を会得していた。
「《《あれ》》を投げつけるってのは…………」
何度目かになるかわからないため息が藤原の唇からこぼれ落ちる。
人から産まれた亡霊や生霊の類は汚れのある場所を好むとされているが、穢れそのものに耐性があるわけではない。霊体としての格が上がるにつれ、逆に穢れを忌み嫌う。神霊クラスともなれば人から見れば神と同義である。奴らにとって生きた人間の穢物……とりわけ糞尿と生き血は致死性の毒にも等しかった。
謝罪と赦免によって築かれる「私」の結界《施し》は罪の度合いや本人の反省の深さ、畜生共の解釈によってその場に張り巡らされるまでタイムラグがある。
つみしろを捧げる儀式も糞尿を撒き散らす行為も所詮時間稼ぎでしかないが、贄と言う一人の人生を踏み躙る犠牲に比べれば圧倒的に手頃だ。死霊や神霊だけではなく生き物全てに通じる点も合理的だった。衛生と臭いと後始末と、失われる尊厳さえ目をつぶれば極めて強力な除霊法と呼べる。
藤原はこの《《八人塚岬》》という人生において、この除霊法を誰から伺ったのかわからなかった。山上であったのか、田所を介した本庁の人間か、もしくは胡乱な冠を付けるに当たり一時師事を仰いだ青年によるものであったか……――――曖昧な記憶を探る事が恐ろしかった。辻褄合わせのように記憶が結びつく度に、愛した”誰か”の輪郭が闇へ溶けていくからだ。
他に方法がなかったのか……――――しかしその方法以外に確実に身を守る術を藤原は持ち合わせていない。渋々クーラーボックスの中から真空パックに冷凍保存されたこの家の飼い猫の糞を取り出し鞄に詰め込むと、藤原は部屋を後にする。襖から足を踏み出した折、監視カメラのモノクロの画面に一族が一斉に村上家へ頭を垂れる姿が目に入った。
『村上様!末永く、よろしくお願い致します!』
『私を含め村の者には、なんでもご相談下さいね。』
スマホを取り出してゲームの公式アカウントの投稿を拡散している「私」の隣で小江柘榴が妖艶に微笑む。
「……――――茶番だな。」
藤原は吐き捨てると勝手口へ向かって薄暗い廊下を歩み始めた。




