大団円・その6
***
蝉の声がする。
あれだけ煩わしかった喧騒が今では生活音の一部だ。
少年は自身の体が《《ここ》》に慣れ親しむ度に、いいようもない空虚さを覚える。耳鳴りにも近いそれに嫌気が差し、少年は目の前で佇む男の背中に頬を寄せ心臓の音に耳を傾ける。
人形のようになってしまった、かつての兄。
決して聡明とはいい難く、いつも思いつきで行動しては振り回された。洗濯物を脱ぎっぱなしにして片方だけ靴下を履き下着姿で部屋でくつろぐような随分とズボラだった男。
表情が豊かだった。
良く笑い、怒り、泣き、悲しんだ顔には今では能面のような薄ら笑みが浮かぶばかりだ。
兄は聖人であったと言う。
人から兄の賛美を聞く度に少年は馬鹿馬鹿しさに鼻で笑った。
何処にでもいる、普通で、等身大の青年だった。
両親や他人がするように、両手を合わせて拝むほどの後光を少年は一度も見たことがない。
やりすぎなほど愛されていたと思う。
少年の写真を象ったアクリルスタンドを勝手に作って鞄や財布からぶら下げていたし、スマホのロック画面はいつ撮られたのか覚えのない少年の寝顔の写真だった。 少々気持ち悪いと思いつつも決して悪い気はしなかったのは、少年自身も兄を誰よりも愛していたからだ。
兄は色んなところに連れて行ってくれた。
北海道も行ったし、ウランバートルまでゲルを観にいった事は掛け替えのない思い出だ。何処までも続く地平線の向こうに沈む夕日を眺めた瞬間は、人生で最も幸福であったと思う。西日を背に笑う兄の笑顔は今まで見た誰よりも美しかった。
だが、自分を守り慈しんでくれた兄はもうこの世の何処にも居ない。
兄の姿をした誰かは紫色に染まる窓の外を眺めながら言葉に成らない喃語を話している。
少年は、この人格が兄のものではないと確信していた。
精神が壊れて逆行してしまったのではない……――――《《明らかな別人》》であった。
いっそ抜け殻なら良かった。
もしくは死んでしまった方が、まだ諦めが付いた。
もしかしたら戻ってくるかも知れないと言う期待が、残火となって少年の心臓を炙る。
兄が帰ってくる、その日が決して来ないことも理解しているのに、頬に伝わる鼓動にどうしようもない希望をただ抱き続ける。
真新しい子供部屋。
手つかずの問題集が机の上に散乱し、買い与えられた流行りの漫画が未開封のまま本棚に並んでいる。
絶望と呼ぶには虚ろが過ぎた。
自分のこれからも。
新しい両親を名乗る男女も。
兄を被る誰かも。
兄に喰い殺された、少女への弔いも。
逃げ出すことも、内側から変える事すらも全てが億劫だった。
頼るべき相手はいない。
兄を失った今、この世界で少年は一人きりだった。
家にいるのがたまらなく嫌なのに、表を跋扈する百鬼夜行を見て見ぬふりをし続けるのも恐ろしかった。
ここから逃げ出せるならなんだって良いと願う反面、これ以上何処かに放浪するのも嫌だった。自分一人では現実から逃げる事もままならない。
ポケットからカッターナイフを取り出すと少年は躊躇いもなく自身の手首に滑らせて赤い痕を付ける。この行為自体に何の意味もない、ただ一瞬だけ痛みが走る、その間だけ全てから切り離された離人感を得た。
深く動脈まで切り裂けばこの意味のない生を終わらせることが出来るのに、臆病な少年はその一歩を踏み出すことも出来ない。
――――どうせ死んだ所で、兄とは会えない。
そんな気がしてならなかった。
9月には新しい学校へ通うことになるだろう。
この家が終の住処となるのだろう。
あの年若い男女を親と呼ぶ日も恐らくくるのだろう。
きっと兄と同じ名の果実を実らせる、背の低い木々が牢獄のように見える。
八朔畑に囲まれたこの村で、自分は生涯を終えるのだろう。
もう何もかもが、どうでも良かった。




