大団円・その4
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藤原は田所が去った入口をぼんやりと眺めながら、ポケットから取り出したガムを口に含む。
――――千鶴を探しに行く予定など一切存在しなかった。
ある日突然藤原の前に現れた女は、丁度良い愛玩となって藤原の人生を慰めた。
女優になりたいと嘯きながら大した才能もなく、やる気も熱意すらも半端で、その癖優越感だけは高く、全ての他者を見下し、人生を舐めきり、全てを惰性で生きた愚かな女……――――誰かを守っていなければ生の価値を見いだせない藤原にとってあまりにも都合の良い存在だった。
彼女が今、何処で何をしているのか、その生死すら藤原にとってはどうでも良いことだった。
彼女を見つけた所で、ねじ曲がって枝分かれしてしまったこの”現実”を元に戻すことはきっと叶わない。
それよりも藤原は気にかかる事が二つあった。
1つは村上の意識だ。
駐車場での殴り合いの後、《《水》》に吸い上げられるように雨雲が晴れた瀬戸内の青空へ消えていった村上が、何故屋上で廃人となって見つかったのか。
上空で一体何があったのだろう。
元より藤原には怪異を目視する力がない。
あの日、上空を覆い尽くしていた蜈蚣の女王も、自身を運ぶために顕現した虎の化身も藤原は目視どころか存在を認識する事すらできなかった。
藤原はPCのキーボードと箱菓子の食べかすを机の隅に追いやると空いたスペースに腰を掛ける。
――――まるで、赤子だった。
屋上で手足を無作為に振るいながら赤子のように泣き喚く村上を思い出す。
黒い瞳には確かに”意思”があった。だがその意思は先刻まで藤原を激しい憎悪をもって睨みつけた村上のものではなかった。
勘という曖昧なものではあるが、藤原はあの黒い瞳に宿っていた人物は村上とは全くの別人なのだろうと確信していた。
「ツイタチか?」
村上の事件の上で暗躍していた呪いのSNSアカウント。
そのアカウントを目視した人はみな、過剰に膨れ上がった罪悪感から逃れようと自死を選ぶ。
警察署内と、妹が通っていた大学構内、とある製薬会社の東京支部と、カルト教団の集団住宅……――――他にも色んな所で罪悪感からなる連続自死事件と生存本能から生じたつごもり信仰が発生している。
しかしあの日を境に全国で多発した連続自死はぷつりと途絶えた。
ツイタチを名乗り「私」になりすましたアカウントは存在ごとネットの海から消えてしまった。
――――偶然にしては出来すぎている。
藤原は知らない。
ツイタチの正体が本来の小江柘榴の息子だと言う事も。
多摩誠司が村上を陥れようと神を召喚したことも、召喚された神の”知恵”を使い、あのアカウントが作られ、ツイタチがその輪郭を得た事も。
村上が全ての責任を背負う代わりに、ツイタチをその身に封じた事も……――――藤原は何一つ知らない。
今彼の中にある疑念は10年という探偵として積み上げた経験からくる勘だけである。
流石に馬鹿げていると、折角正解まで近づいた答えを、藤原は卓上に置かれたティッシュ箱から一枚取り出すと口の中のガムと共に吐き出し、丸めてゴミ箱に向かって投げ捨てた。勢いが足りずゴミ箱の手前でふにゃりと床に転がったそれを見て軽く舌を打つ。
”覚えの中”で、藤原は村上にその全てを奪いつくされた。
その借りは必ず倍にして返さねば気が済まない。
組織も、家族も、部下も、肩書も……―――――
――――そしてもう一つの、《《気がかりなこと》》。
「《《誰》》なんだ……?」
藤原は天井を仰いだ。
シーリングライトの周りを僅かな埃が漂ってチカチカと瞬いている。
――――《《誰か》》を深く愛していた。
藤原は両手で己の胸を掻きむしりながら、込み上げる激情を歯を食いしばり抑え込む。
藤原は、村上が事件を起こした去年の8月から今の八人塚岬に至るまでの間に《《愛した誰かを喪っている》》。
その《《誰か》》を思い出そうとする度に、まるで悪魔に心臓を強く握りしめられた上で太く鋭い杭を打込まれたような激痛が走った。脳みそが沸騰する程に情緒をかき乱される。
確かに、藤原の側に”誰か”が存在した。
一体何処の誰で、女か男か、年上か年下か、どんな肌の色をして同じ国の言語を話したかさえわからなかった。
思い出そうと振り返る度に、”記憶”と”覚え”が混じり合い辻褄が合うように糸が絡み合っていく。その都度、藤原から”誰か”がいた形跡が崩れ落ちていった。
……――――その誰かが誰なのか、誰にも確認しようがなかった。
「……ッ!……―――……」
藤原は”誰か”の名前を呼ぼうと口を開き、その欠片すら喉から込み上げる事も出来ない。肌に触れ唇を塞ぎ繋がりあった事さえも、《《全てがなかった事にされている》》。崖っぷちに立たされたような絶望が孤独となって藤原の肉体と精神を、皮膚に施された蜈蚣の入れ墨のように這いずり回った。
――――確かに、愛していた。
今まで藤原は特定の恋人を作らなかった。
初恋は実ることはなかったし、両思いになった相手は尽く藤原の前から無情にも命を散らしていったのだ。
――――《《また》》だ。
藤原は長く伸びた前髪を掻きむしる。
彼はこれまでの人生、常に希死念慮と共に過ごしていた。
藤原の美貌を妬んだ母が目の前で焼身自殺をした時。
父が自身に手を出した罪悪感で首を吊って死んだ時。
頼っていた若頭と無理心中を図ろうとして失敗し一人生き残った時。
弟のように可愛がった部下が顎を残して変死した時。
組織の面々が、次々に自殺していった時。
祖父を喪った時。
大切な人が眼の前から居なくなる度に、息を吸い吐き出す行為に躊躇いが芽生えた。
どれだけ法に歯向かってもいつも赦されて取り残される。
どれだけ酒とタバコ、麻薬と爛れた食と性に溺れようと藤原の身体は誰もが羨むほどの健康体であった。
耐えきれぬ孤独に衝動で拳銃自殺を試みた時も、弾はいつも不発に終わった。
練炭を炊いてありったけの睡眠薬を服薬した次の日も、残酷なまでに晴れ渡った明るく爽快な朝がやってきた。
線路に飛び込めば電車は藤原の肌に触れる直前で止まり、車に体当たりすればいつも軽い擦り傷で生還した。
ナイフで自らの臓物を掻き出そうとした時ですら、運悪く目撃されてすぐに救急車を呼ばれ、たった2ヶ月の入院で助かってしまったのだ。どうあがいても死は藤原に寄り添ってはくれない。
――――そんな藤原が「《《共に生きたい》》」と願った相手が”《《誰か》》”であった。
その輪郭を掴もうと手を伸ばせば伸ばすほど、微睡んだ《《覚え》》の渦に溶けて消えていく。
これ以上失うことが恐ろしくて考えないように頭の片隅に追いやっても、胸にこびり着いた激情は内側を這いずり回って皮膚を食い破るように藤原の体を蝕んだ。
《《八人塚岬》》も本来は”誰か”と共に歩む為の偽名だ。
生き続ける限り自身の他者を傷つけ続ける藤原が、その”誰か”と生きる為ならば《《改心しても良い》》と思える程、深く焦がれた相手。
その”誰か”を村上に……――――殺された。
それだけははっきりと《《覚えている》》。
あの日の駐車場で村上に殺され、腕の中で息を引き取った事《《だけ》》は、歪に縺れて一つになっていく現実の中で失わないように繋ぎ止めている《《意地》》であった。全身を蝕むような恋煩いと、村上に対する復讐心だけが、藤原をかろうじてまだ正気に留めている。
……――――もう一度、村上を叩き起こす方法が、あの村へ赴けば見つかるかもしれない。
もし仮に田所が危惧するように全てが点と点で繋がれているのなら、行方不明の千鶴が村上の現状の手がかりを持っているだろう。そうでなくとも、何かしらの接点はあったはずだ。あの日、学生たちと共に村上も同行していたのだから。
藤原は額から浮き出た汗を手の甲で拭うと田所に手渡された写真を眺める。
気恥ずかしそうに身を捩る少年に何故か今の自分自身の姿が重なる。
この少年もまた、村上の事件をきっかけに全てを失っている。
”覚えの中”の藤原は少年の両親を拉致しあらゆる暴行と凌辱の果てに獣に食わせ、辛うじて息をしていた所に拳銃でとどめを刺した。
楽にしてやろうという情ではない、”《《誰か》》”《《の手を汚させたくなかったからだ》》。
それ程までに愛した”誰か”が遺していった穴。
妹を見つけ村上の意識を取り戻し復讐を完遂した暁に、果たしてこの穴は埋まるのだろうか。
先程放り投げたジャケットから黒い手帳を取り出すとスケジュールを確認する。丁度8月1日から15日までの間に予定が1つも入っていなかった。
やる気は微塵もなかったが、断る理由も1つもなく藤原は深くため息を付く。
そのまま事務所を出ると隣接する自宅へ向かった。
かつて広間だった20畳の和室を改築したリビングに薄水色のポロシャツに身を包んだ祖父が、内縁の女に剥いてもらったりんごを頬張りながらドラマの見返し配信を眺めていた。
組織の瓦解を10年も早くに見届けて以来、8年の服役を経た祖父はすっかり牙を抜かれ年齢にしては少々早すぎるほど耄碌としていた。
「爺さん、暫く家を空けるよ。」
「あら、ご依頼ですか?」
テレビ画面から目を離さない祖父に代わり、内縁の女が藤原の呼びかけに応える。まだ40代半ばだが見た目より若々しい女は”記憶の中”では確か元々は足繁く通っていたクラブに所属していたホステスの一人だった。日に日に覇気を失っていく祖父を憂い、こうして甲斐甲斐しく世話を焼くうちに今の関係に落ち着いたらしい……――――彼女の娘は今、留置所で一人己がしでかした犯行に日々謝り続けている。
「ええ、氷見さん。長丁場になるから向こうで部屋を借りようと思う。朔日村……隣県なんで週末は顔を見せに帰るよ。」
「まあ……お気をつけて。ね、枸櫞さん?」
「ン?……ああ、わかった。柘榴の所にか?……8月も近えからなあ……」
「気をつけろよ」と告げる祖父は結局一度も視線を藤原に向けることはなかった。




