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八朔日の贄  作者: 絶山蝶子
最終話 「私」 大団円
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大団円・その1


 時計が15時を告げる。

 ミの音だけ半音低いエーデルワイスが小学校のチャイムと重なり合い、藤原は揺蕩っていた意識を微睡みから引き戻す。


 手垢一つ残さないほど磨き上げられていた絢爛豪華な家具は全てが片付けられ、代わりにホームセンターで値引きの札の跡がついたままの粗末な本棚が並び影を床に長く引き延ばしていく。不揃いな背丈はまるで夕暮れの大都会にそびえるビル群のシルエットのようであった。

 部屋は決して片付けられているとは言いがたかったが、誰かが荒らした形跡はなかった。机の上に置かれた飲みかけの珈琲と封を開けたばかりの箱菓子。つけっぱなしのデスクトップパソコンの照明に照らされたアルミの包装紙が小さくまたたいている。

 ゴミは分別も碌にされないままゴミ箱いっぱいにギチギチに詰められ、そこかしこに段ボールや衣類が乱雑に置かれていたが、歩ける程度にはフローリングは露出しており、そこにホコリが溜まっている様子もなかった。

 藤原は深く息を吐き出してソファから起き上がると、散らばった書類に手を伸ばす。それは心霊スポットとなったトンネル内で起きた婦女暴行事件の調査の結果を伝える報告書の雛形であったが、藤原には依頼を受けた"覚え"は一切なかった。


 藤原はもう一度大きくため息を付きながら長く伸びた前髪をかき上げた。

 7月も終わりに近づき、ガンガンに冷房を効かせているにも関わらず纏わりついた熱気が部屋を漂っている。寝汗で湿り気を帯びた髪が数本指に絡まり、不快感から些か乱暴に振り払う。

 フローリングに足を下ろし立ち上がって一度大きく背伸びをした後、ゆっくりと部屋を見渡した。

 窓の外から見える田畑は、湿気を含んだうだるような真夏の風に煽られて若草色の漣を立てている。

 東京から流れ着いて以来、毎日見続けた光景に安堵を覚えスラックスのポケットを漁る。指先に触れたのは愛用していた銘柄ではなく、ミント味のガムであった。

 藤原は軽く舌を打つとソファにかけていたジャケットに手を伸ばす。内側のポケットを漁っても目当てのものは見つからず、「クソが」と吐き捨て些か乱暴に投げ捨てた。

 机まで歩み寄りデスクトップPCの周りを眺めても吸い殻どころか灰皿すら見当たらず、少々途方に暮れながら天井を仰ぐ。海外の業者に特注したシャンデリアは何処にもなく、年季の入ったシーリングライトがあるのみであった。


「そうか……禁煙……《《したんだったな》》……」



 シーリングライトの内側に転がった羽虫の死体を眺めながら、藤原はぽつりと呟く。5年ほど前の検診で医者から口やかましく説教を受けたのをきっかけに、すっぱりとタバコを辞めていた《《記憶》》が蘇り、その苦々しさに奥歯を強く噛みしめる。



 ――――《《記憶》》はあったが、《《覚え》》がなかった。



 尾道で起きた大災害から一夜明けた後、弥勒藤太みろくとうたこと藤原蜜柑ふじわらみかんは岡山の津山市にある八幡会本部に隣接された自宅で目が覚めた。

 大きな武家屋敷の中はガランとしており、家具やその配置は全て別のものに置き換えられていた。大広間も客室も座布団の一枚もなく、埃が漂い襖はところどころカビて黒く変色していたが、居住スペースだけは小綺麗に掃除されていた。

 わずかながら残っていた組員の姿は何処にもなく、誘拐の取引の前日に互いに殺し合った形跡も、飛び散った臓物も全て消え失せていた。

 藤原が慌てて家中を探し回ると、全てを見届けて首を吊ったはずの祖父が茶の間でスマホをいじりながら内縁の女が淹れた珈琲を啜っていた。



 藤原は侠客《《だった》》。

 高校を卒業した時からずっと裏社会で生きてきた。

 会長の孫という特権を活かし関東八幡会の本部長まで上り詰めた。

 人を傷つけ、脅し、時に蜜を与えては堕落させ、残された血肉すら吸い上げるならず者であった。


 だが今の藤原の肩書は覚えの中の自身の姿とは異なるものだった。


八人塚岬はちにんづかみさき殿』


 事務所の会長だけが座ることを許された椅子の真上。

 かつて祖父の滑稽な詩が飾られていた額縁の中に収められているのは、貰った記憶のない感謝状であった。


『あなたは 令和■年三月二七日 市内の商店において、高齢の顧客に不審な指示を出している男を発見し特殊詐欺グループの「受け子」であると見抜くや強い正義感をもって、毅然とした態度で声を掛けました。

 さらに 犯人が逃走を図ろうとした際にも機転を利かせてその場に足止めし、駆けつけた警察官へ身柄を引き渡すことで、詐欺グループの逮捕に多大なる貢献をされました。

 あなたの危険を顧みない勇敢な行動と的確な状況判断に、ここに深く感謝の意を表します。

 令和■年五月一日 岡山市警察署署長 警視正 嘉村佳彦』


 比較的新しい賞状の隣に、警察の制服に身を包んだ小太りの中年と笑顔で握手を交わす奇妙な格好をした男が映った写真が並んでいた。

 鳥の子色のベストの上に絹色のマントを羽織り、黒く薄手のスラックスの上に仙台平の袴を履いて、団地を練り歩くセールスマンのような笑みを貼り付けた見るからに不審な出で立ちの男は、毎朝顔を洗った際に否が応でも視界に入る自分自身のものと酷似していた。


 ふと脳裏を横切ったのはカメラのフラッシュの光と、ナメクジのように湿り気を帯びた中年の手の平の感触だった。三月、外は瀬戸内にしては珍しく雪がちらついており、書状を受け取った部屋の天井の暖房機が過剰に稼働して熱風が降り注いでいたのを《《記憶している》》。



 ――――心霊探偵・八人塚岬はちにんづかみさき



 それが今の弥勒の通り名であり、付属する肩書であった。

 藤原が正月から居を構えた八幡会本部は《《あの日》》以来、探偵事務所へと変貌していた。

 心霊探偵という捕まえた詐欺グループよりも怪しいものであったが、きちんと警察と市に届け出を出し許可を得た真っ当なものらしく、証明書の他に警察や市からの感謝状が来客者を歓迎するように誇らしげに飾られていた。


 名乗った覚えもなければ足を洗い転職した覚えもない。


 にも関わらず藤原が記憶を漁ろうと振り返る度に、存在しないはずの過去が脳裏に溢れかえる。まるで全く興味のない、深夜に放送されるB級映画を眺めているような鮮明かつ他人事のような映像は、奇妙な納得を伴って海馬に刻まれていく……――――ごく当たり前のように存在する記憶に、藤原は混乱することすら許されなかった。

 書き換えられたこの世界では《《弥勒藤太》》と言う侠客を知るものは、「私」以外いないのだ。


 藤原の《《覚えの中》》の人生と《《記憶の中》》の人生が、双頭の蛇のように二つに分かれたきっかけとなった出来事があった。


 10年前、東京でしでかした飲み屋での暴行事件である。


 当時組織に加入したばかりの後輩を連れ、馴染みの飲み屋で浴びるように日本酒を呑んでいた隣の席で、やたらと女主人に絡む無粋な男がいた。

 品性に欠けた下ネタと過去にやらかしたつまらない犯罪をこれみよがしに語る姿に無性に苛立ちを覚えた。自身の子供を虐待し病院送りにした事を誇らしげに語り始めた時、藤原の中の嫌悪感が頂点に達し手に持った日本酒で男の頭をかち割った。突然の出来事に痛みより混乱からのたうち回る男を外へ引きずり出し、血反吐が路上に飛び散るまで殴りつけた所を運が悪く……――――よりにもよって藤原の顔を知らない新人で生真面目な警官に見つかり御用となってしまった。


 執行猶予なしの懲役1年。

 刑務所に収監中に蛇の禍津物に遭遇し、危うく贄にされかけた……――――所までは藤原の中の《《覚えと記憶は一致している》》。


 問題はその後だ。


 《《覚えの中の藤原》》は一年の刑期を終えた後、すぐ若頭補佐として関東八幡会に戻ったはずだった。

 しかし《《記憶の中の藤原》》の服役中に……――――蛇の贄にされかけた直後に関東および本部八幡会に大規模な摘発があったらしい。所属していた組織自体が瓦解してしまいそのまま裏社会から完全に足を洗った事になっていた。

 東京を離れ、無人となった八幡会本部を改修し、残された組員数人を従業員として雇い、探偵事務所を構えていた。最初は無許可のまま浮気調査や行方がわからなくなったペットの捜索など平凡かつ軽い業務をこなしていたが、噂を聞きつけた山上に捜査協力を依頼され、超常現象によって引き起こされた事件を解決したのを皮切りに、市と警察に届け出を出し「心霊専門」という胡乱な冠をつける事となった。


 事業は順調に軌道に乗ったが、従業員として雇っていたかつての組員たちはそれぞれ別の真っ当な仕事を見つけて藤原の元を巣立っていき、”覚えの中”で可愛がっていた舎弟……――――あの村上の所為で殺されてしまったハヤトだけが助手として側に残り、奇っ怪な事件を解決まで導く手助けをしてくれていたらしい。


 村上の真っ黒な瞳を思い出し藤原は反吐を床に吐き捨てたい衝動に駆られる。


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