八朔日の贄 その9
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「ちーちゃん……」
『まったくもう。』
橘木巖之御魂龍首比売命《たちばなきいつみたまのたつかべひめのみこと》。
山上や斎東のように複数の獣が入り混じったような歪な姿ではない。
絵巻物に描かれた東方に伝わる龍の形をした女神。
一つだけ違うとするなら、村上が掴んだ角が長く枝分かれし、その先に橘の葉が疾風に煽られながらガサガサと茂っている所だった。
猛スピードで上昇しているにも関わらず村上にかかる負荷が少ない。
村上は角を強く握りしめながら自身の背丈ほどある頭部に腰を下ろすと、呆れたような千鶴の声色が再び頭の中に響き渡った。
『喧嘩してる場合じゃないだろ、なにやってんの。』
「ゴメン。でも、どうしてもアイツを一発殴らないと気がすまなくてね……」
『――――馬鹿だなあ、本当に。』
頭部に跨っているためか、その表情までは測れなかったが存外に悪くは思っていないのだろう、辟易した物言いでありながらも慈愛が込められていた。
「これが本来の君の姿かい?」
『そうだよ。』
「とても綺麗だ。」
『よく言うよ、勃たないんじゃなかったの?』
「前まではね。今はイケるかも……」
『――――変態め。』
軽口を叩いているが、彼女もまた、斎東のようにあまり長くはないのだろう。
宙を泳ぐ胴体は所々鱗が剥げて生身がむき出しになっている。
痛々しさに眉を顰ませながら村上は千鶴の鬣に手を這わせた。
「他のみんなは……――――」
『……――――ごめん、私……何も出来なかった……』
「そうか……いや、それは俺も同じだ。頼って、甘えて、巻き込んで死なせてしまった……」
『…………――――ごめんなさい。』
「こちらこそ……――――」
村上はいいよと続けようとして口を噤む……――――慰みの赦しなど意味を持たないだろう、彼女の抱える罪と同じものを村上も背負っている。
山上に向けた冒涜《赦し》を与えてはならない。
千鶴も決して望まないはずだ。
湿気を含んだ空気を突き抜けるように上昇し薄く張った雲を通り過ぎると、真正面に蜈蚣の顔と対峙する。
斎東が負わせた無数の傷は回復が追いつかず青い血を流していた。ゼエゼエと息を荒げながら硝子のような瞳で村上達を捉えると般若のように眉間に皺を寄せる。
『なんか似たような光景をアニメで見た事あるよ。』
「エヴァかい?新劇?旧劇?」
『さあ、覚えてないや……――――ここで終わりにしたい……動きを止めれる?』
「任せてくれ。」
村上の赦し《憐れみ》は”現し世”で生きる全てに通用する……――――畜生の頂点に立つ大怪異であっても、ただ相手の事情を汲み取って《《可哀想だと思い込めば良い》》。村上は自身の黒い瞳で見つめ返すと、蜈蚣の思考が濁流のように脳に流れ込んできた。
苦しい。
痛い。
なんで。
どうして。
――――飢えていた。
人は……――――食しても良いとお赦しを頂いた、晦彦の信者は、人同士で争わぬように規律を正し、悪意を持って他者を傷つける個体はその数を減らしていった。
餌を求めて里に降りれば、待ち構えていた晦彦の御使いが疑似餌のごとく人の皮を被り同族を甚振って殺していく。
――――所詮、この生命は其の為だけに生まれたものだ。
人が人同士で争う必要が減ったように、神もまた神同士で争わぬようになった。血に飢えた御使いはいたずらに泳がせては膨れ上がったその腹を嬉々として裂いた。
どうあがこうと、覆すことは叶わない。
人が嫌いではない。
憎いという感情すら、蜈蚣にはない。
あるのは、ただ一方的に植え付けられた不必要な食欲だけだった。
ただ、こんな法がなければもっと別の在り方で生きていけたのではないか。
無駄に発達した思考は、卑しさとなって渦を巻いて女を支配してゆく。
馬が羨ましかった。
野を駆け回るその脚が。
犬が羨ましかった。
顔色を窺い寄り添える健気さが。
鼠が羨ましかった。
目の前に現れなければ見逃される矮小さが。
猫が羨ましかった。
ただ気ままにあるだけの自由が。
熊が羨ましかった。
人に恐れられ、避けられてきた畏怖が。
作物が羨ましかった。
繁殖に身を委ねるだけで良い、その怠惰が。
人が羨ましかった。
神に愛され、その全てを赦された存在が。
どれほど妬んでも、蔑んでも、求めても、自分たちは《《畜生》》でしかない。
そうして屠った人の肉は……――――それは大層不味かった。
野生には戻れない、現し世に交じる事はない。
――――蜈蚣は、疲れていた。
村上は目を閉じる。
やはり、”現し世”に生きる者同士はわかり合える。
支配でも、搾取でも、愛玩でも、拒絶でも、生態系という確かな絆で繋がれる。
その全てを台無しにしたのは、村上が縋る「私《神》」なのは随分と皮肉な話だ。
「貴女を赦そう。」
地上では未だに増長した悪意に満たされている。
それでも、と村上はゆっくりと瞼を開ける。
「もう良い……――――もう良いんだ。これで終わりにしよう。」
腹を空かし、逃げ惑い、卵を産み落としては疲弊した。
最初から神に見放された業を。
「俺が赦す。蜈蚣の女王よ。」
――――反省、その概念が蜈蚣には存在しないとしても。
「悔い改めろ。」
ピタリと蜈蚣の動きが止まる。
苦痛と憎悪で歪んでいた女の顔が徐々に緊張を解いてゆく。
所々千切れた歩肢が、だらりと弛緩して黒々とした胴体にぶら下がる。
赤い塗料が塗りたくられた唇から、ほっと安堵の息を吐き出した。
その刹那、蜈蚣の胴体が視えない手で握りつぶされるようにぐちゃりと収縮する。口から青い血がごぽり溢れ出し、村上と千鶴を映した硝子のような眼球がこぼれ落ちた。
「ちーちゃん、どうかひと思いに。」
『……――――しょうがないなあ。』
ボコボコと音を立ててその身が潰れてゆき、青い血が雲に混じって雨のように周囲に飛び散った。
やがて村上ほどの大きさまでつるりと光沢を帯びた黒い球体へ圧縮し、瀬戸内の海に落下する。
海面に激突した瞬間、水柱を天高く噴き上げる。
海面がうねりを上げ、球体は一切の抵抗を許さぬまま海底にその重い体を沈めていった。
――――すまない。
結局、こうしてやることしか出来ない。
村上はまたも救えなかった生命に深く頭を下げる。
蜈蚣だったものが沈みゆく様を見届けた後、村上を乗せた青い龍はゆっくりとその身を降下させていく。朔也が泊まっているホテルの屋上に着陸し村上を降ろすとロボロになった胴体は屋上の床板に触れた途端、水のように弾けた。村上が手を伸ばすも鱗は全て溶け落ちて、やがて龍の頭だけを残し胴体が泡のように蒸発した。
「ちーちゃんッ!!」
村上は屋上に足を下ろすと周囲に立ち込める水蒸気をかき分けながら自分の背丈ほどある頭に縋り付く。
火傷しそうなほど熱した湯気の先に、翡翠色をした龍の瞳から徐々にその光が喪われていく。
村上は頬の皮膚が爛れるのも厭わずに濡れた鬣に顔を寄せ、大粒の涙を零しながら必死に千鶴の名を呼んだ。
「すまない、ちーちゃん……ッ!!すまない……ッ」
慟哭にも近い村上の呼びかけに、千鶴の瞼がピクリと跳ねる。
これほど”知恵”を使えば、後を待ち受ける運命は先程、斎東がそうなったように溶けるだけだ。鱗も、肉も、骨も、痕跡すら、ただの一滴すら残さずこの世から消え去るのみ。顔の周りの鱗がポタポタこぼれ落ちて太陽に照らされた屋上の床板を濡らす。
ビニール傘の下、ビアガーデンとして敷き詰められた木製のフローリングに千鶴の雫と村上の涙がこぼれ落ち、暗褐色の歪な染みが浮かび上がった。
『違うでしょ?』
子どものように声を荒げて泣きじゃくる村上の頭の中に、千鶴の声が響く。
いつもの……――――棘を含んだ意地の悪そうな声色に顔を上げると、翡翠色の瞳が泣きはらした村上の顔を優しく映し出していた。
『こういう時にもっと、相応しい言葉があるでしょ?』
「……ッ」
村上は一瞬だけ悲痛に唇を噛み締めて下を向き少しの間すすり泣いた。
――――こうなることはわかっていた。
村上ではどうしてやることも出来ない事も。
欲と嫉妬で穢れたその血肉は贄《餌》にもならない、むしろ毒でしかない。
どれだけ村上が尋常ならざる力を持っていたとしても、”知恵”を行使し過ぎた千鶴をこの世に繋ぎ止めておくことは出来ない。
――――こうなることがわかっていて、その力を望んだのだ。
村上は鬣に顔を埋め少しの間すすり泣いていたが、やがて意を決したように大きく息を吐きだして再び顔を上げた。
そして瞳を細めて口角を上げて、静かに告げる。
「……――――ありがとう。」
『良くできました。』
その微笑みはいつもの薄ら笑みではなく、心からの感謝が籠もられた柔らかいものだった。
――――なんだ、そんな風に笑えるんだ。
屈託のない笑顔を見て千鶴は静かに瞳を閉じる。
その笑顔が見たくてどれだけの人間が狂っていったのだろう。
……――――ああ、本当にくだらない、と千鶴は鼻で笑う。
その小馬鹿にした態度さえ、悪くなかった。
愛しい我が子を喰らった、あの蜈蚣。
この手で握り潰し仇を討つ事が出来た。
それだけで、この生には十分な意義があった。
――――それは確かに、名残惜しい事は沢山あったけれど……
女優として舞台に立つことも出来なかったし、尾道ロケを配信することも、50万再生を祝うことも叶わなかった。
友人は死なせてしまったし、村上朔也を救えなかったし、兄は野放しになったままだ。
「私《晦》」と再会することも叶わなかったが、然程気にならないのはどうせ”向こう”ではいつでも会えるからだ……――――それに、完全に消滅していないツイタチの存在が気がかりだった。
――――子が母を慕うように、その愛を求め、今も尚見つめることしか出来ない憐れな子供。
せめてあの命だけでも、僅かでも良い、光を与えてやりたかった。
『村上くん……あの子を……――――ツイタチを……』
千鶴は、最期の力を振り絞り再び瞼をこじ開けると村上を見つめる。
返り血と体液でドロドロになった村上が先程と同じ柔らかい笑みを浮かべたまま千鶴を眺めていた。
『どうか、あの子に……』
―――――責任を……
それを与える事が出来るのは、きっと今を生きる人だけだ。
村上なら……――――否、村上だけがそれこそ死に物狂いで方法を探し、成し遂げるに違いない。
「……――――ああ。」
村上が一瞬だけ目を見開いたが、その異質でつまらない力で察したのだろう、「大丈夫だよ」と優しく千鶴の鬣を撫でる。
「責任は果たすよ、任せてくれ。」
言わんとした事が通じて、彼女はホッと息をなでおろす。
――――ああ、良かった。
静かに千鶴は村上の側で息を引き取る。
水滴となった鱗が村上を包み込むように、雫となって上空へ舞い上がっていく。
その一つ一つが初夏の太陽の光を浴びて細かな宝石のようにきらきらと乱反射していた。
音もなく宙を舞いまたたき続ける光の群舞、村上は嗚咽を堪えてただ見送った。
やがて、頭部も鱗一つ残さず蒸発すると、村上の手の中に千鶴の右目だけが残される。
手のひらと同じ大きさをした、千鶴の……――――龍首姫としての”知恵”の塊。
それも徐々に生ある輝きを失ってゆく。
両手で包み込み額を寄せると、ここに至るまでの彼女の記憶が村上の脳内に流れ込んできた。
――――ああ、やはりそうか。
人を惑わし、人を狂わせ、人を破滅させるしか脳がない、人にすらなれなかった、憐れな存在。
苦々しいほどそっくりで村上は反吐を吐きそうになった。
その刹那、聞き覚えのない声色が村上の頭上に降り注ぐ。
「寄越せ。」
いつの間にか、村上の側に男が立っていた。
潮風に揺蕩う白髪、インナーカラーは紅のような赤い色、すっと整った鼻筋に大きく見開かれた赤い瞳。
細く程よく筋肉がついた胸元から腕にかけて、橘を模した和彫りの入れ墨が刻まれている。
白いタンクトップに大きめの特注だろうパーカーを羽織ったその背丈は、180cmにさしかかる村上よりも高く、下から見上げたその体躯はまるで神殿を支える柱のようだった。
「……――――《《お前》》は……」
――――違う。
村上は直感した。
伊達に14年も信仰し続けたわけではないのだろう。
あの日、本物を直接見た記憶が、縋りたいと願う本能がそう告げていた。
「お前が……ツイタチか……――――」
「そうだよ。」
ツイタチ。
神の紛い物。
人の為の神になろうと、純粋な悪意を持って人を破滅させた憐れな存在。
思えば、吉川があのアカウントを村上に提示したその時から、彼の人生の歯車は大きく狂っていった。決してツイタチの存在だけが全ての原因ではないが、村上にとっては多摩よりも因縁深い相手とも言えた。
刹那、ぐにゃりとその姿が空気に解けるように歪む。
御神体《本体》である祠と多摩誠司のスマホを破壊され、もはや模した姿を保つことも難しいのだろう。
混乱の中、集まった畏怖により辛うじて現し世に留まっていた。
「それを寄越せ。」
「…………」
「それがあれば、今度こそ、俺は神として顕現することが出来る。」
村上は左手で千鶴の瞳を庇うように胸元に押し付けると、右手で奇跡的にまだベルトに差しこまれたままの拳銃を手に取る……――――弾はまだ残っていた。
「寄越せ!!」
「駄目だ。」
幼子の駄々のように激昂するツイタチに村上は静かに拒絶し、銃口を突きつける。
「お前は……――――大勢の人を誑かしては狂わせた。その罪を、精算する時が来たんだ。」
「俺はただ、人を助けたかっただけだ!!」
「ああ、《《誰よりもわかるさ》》。でもね、それでは人は《《救えないんだよ》》。憐れみはなんの役にも立たない。《《人は同じ目線に立って初めて》》、《《相手を思いやることが出来る》》。救うことが出来るんだ。《《見下し続ける俺達》》は、《《誰も救えないんだよ》》。」
「村上八朔ィッ!!」
「安心してくれ……――――大丈夫。一人にはさせない。お前の罪も、俺が一緒に背負うから……――――」
――――どうか、やすらかに。
村上は照準をツイタチの眉間に合わせると、一呼吸置いてその引き金を引いた。
弾き出された銃弾は一直線に宙を裂き、その額を貫く。
乾いた音と共に開いた孔から一筋の赤い雫がこぼれ落ちる。
鼻筋を伝い落ちやがて、顔の真ん中でぱっくりと割れて赤い球体が現れた。
ツイタチは大きく後ろに倒れ込むと木製の床に叩きつけられる。
頭部から転げ落ちた赤い球体にヒビが入り、その中から親指ほどの大きさをした胎児がこぼれ落ちた。
「わぁ、こいつの中身ってそうなってたんだ!」
倒れ込んだツイタチに覆いかぶさるように覗き込んだ「《《私》》」を、驚いた表情の村上が喉の奥でひゅっと息を呑み込み、信じられないものを見るような視線で見上げた。




