八朔日の贄 その8
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大きな衝撃と共に村上の体躯はコンクリートの上に投げ出された。経年劣化してデコボコと突起し所々草が生えた地面に背中を強く強打し、思わぬ痛みに低い呻き声をあげる。
起き上がろうと両手を地面に付けた途端、どっと鉛のような疲労が村上の体全身に広がった。
山上がひとでなしとして”知恵”を行使すれば「しんどい」と言っていた理由が、何故か良く解った。本能的に忌避していた、他者を赦すというこの力は脳に、目に、体に大きく負担がかかるようだ。
慣れない戦闘も相まって、村上の体に普段は味わうことのない疲労が痛みを伴って蓄積していた。
――――弥勒藤太を赦そうとして、結局できなかった。
村上はあの筋金入りのならず者にとどめを刺そうと、確かに引き金を引いた。
右手に握られた拳銃からは火薬により蒸発した銃口内の潤滑油が、白い煙となって漂っている。
脳を沸騰させるような熱に、村上はめまいを覚える。
死にかけた小江灯を前にしても抱かなかった確かな感情。
村上は相手の生命をただ自分の溜飲が下る、其の為だけに屠ろうとした。
引き金にひっかかったままの指が震えている。
――――確かに、《《撃ち殺したはずだった》》。
銃口を奴の眉間に押し付けて、避けようがない至近距離で引き金を引いたのだ。
埋め込まれていく弾丸が鼻の骨を砕き、溢れ出た鮮血が頬に触れた感触も、飛び散った左目がコンクリートに叩きつけられる瞬間も、しかと目撃したはずだった。
どうあがいても、一瞬で事切れる致命傷を負わせた……――――そのはずなのに。
胃からこみ上げてくる嫌悪感を胃液とともに吐き出すと、村上はゆっくりとその顔を上げ、飛び込んできた光景に絶句した。
――――弥勒は、《《無傷で膝をついて腕の中の男を呆然と見つめていた》》。
村上ががむしゃらになってその体躯に刻みつけた打撲痕も、ここに来る前に負傷したであろう傷も、千切れた右手の指も、潰れた右目も、飛び散った左目も、《《何もかもが元通りに戻っている》》。
白く透き通った肌は血色が良く、顔色からは微塵も疲労を感じさせなかった。
完全に《《あるべき健康体に戻って》》いる。
「ああ……」
弥勒の唇がわななく。
腕の中で横たわる男は、分厚く横に長い瞼を重たげに持ち上げると口元に笑みを浮かべた。
「多聞……――――ッ」
「……――――なんて顔してはるんや。」
――――斎東多聞。
先程まで村上達が殴り合っていた駐車場の真上で、瀬戸内を覆い尽くす程巨大な蜈蚣相手に大立ち回りを繰り広げていたはずの、ひとでなし。
村上の人生に突如として現れ、まるで親友だと言わんばかりに気安く話しかけてきたのは、今より丁度一年前の出来事だ。随分と昔のようにも、つい先程のようにも覚え村上は荒い息を繰り返しながらその姿を見つめる。
浅黒い肌は粘土のように溶解し、両足は膝から下が無くなっていた。
右腕はあらぬ方へ折れ曲がり白い骨が突き出している。
肩まで伸ばした髪がまるで老人のように真っ白に染まっていた。
村上の記憶の中では、細く釣り上がった瞳は青みがかった黒い色をしていたが、ありったけの慈愛を込めて弥勒を見つめる瞳は夕焼けを溶かしたような赤い色をしていた。
斎東は村上に一瞥も寄越さず、まだかろうじて形を保っている左手を伸ばし弥勒の頬に触れる。
「あきまへんよ、兄さん。外見はアンタの一番の取り柄なのに……」
「多聞ッ……お前……――――ッ!!」
弥勒が息を切らしながら斎東を掻き抱く。
蜈蚣の入れ墨が施された腕から、斎東の血が入り混じった皮膚が溢れていった。弥勒は右腕で多聞を支えたままもう一方の腕で地面に溢れた肉片をかき集めようと手を伸ばしたが、斎東は静かに首を振ってそれを制する。
「ええんですよ。もう助からへん。」
「……ッ!!多聞……なんで……」
「なんでやろねえ、僕にもようわからんのや。」
多聞は視線を弥勒の頭の後ろに向ける。
雲が晴れ残酷なまでに青い空に浮かび上がる、憎悪に歪んだ女の顔を確認した後、再び視線を弥勒の翡翠色をした瞳に戻した。
「あと少しやった……でも……見てしもうたわ……」
「もういい、喋るな!早く回復を……ッ」
「兄さん、《《あんたが死ぬ所》》……村上くんに、殺される所……」
ちらりと斎東はようやく視線を村上に移す。
赤い瞳には境内で見せた嫉妬も憎悪も憐憫もなかった。
返り血と吐瀉物、そして雨上がりの砂利だらけでボロボロの姿の村上を見て斎東は鼻で笑うと直ぐに興味を無くしたのか、再び柔らかい笑みを浮かべて弥勒の顔を見上げる。
「駄目でしたわ……兄さん、あんたは……死なせへん。あんただけが、《《僕の生きた証》》やのに……――――」
「多聞、もう良い!多聞……ッ!!俺は……」
「《《斎東多聞の証》》なんや……――――やっと多摩くんの縛りから解放されたのに、どうしても捨てることが出来へんかった。」
「ああ、ああッ!!」
弥勒はその整えられた顔が汚れるのも厭わずに泣きじゃくり、斎東の顔に頬を押し付ける。頬骨の突っ張った浅黒い肌がブチブチと音を立てて千切れて、赤い歯茎がむき出しになった。
「嫌だ……ッ!多聞、行くな!」
「ああ……悔しいなあ……――――晦彦様、申し訳ありません……折角の慈悲をまた踏みにじってしまった……」
「《《お前も》》俺を遺して行くのか!多聞!!」
「ほんまに……あと少し……だったのに……」
本当に悔しいのだろう、斎東は自身の眉間にシワを寄せる。
「洗濯物、干しっぱなし……――――で、ああ、そうや、免許。更新せなあかんし……」
「多聞……ッ!嫌だ、多聞!!」
「……でも、悪くないな……――――うん、ほんまに……悪くない。」
斎東は残された力を振り絞り、唇を弥勒の額に寄せる。
幼子にするような口づけを落とした後、文字通りに零れんばかりの笑みを浮かべて弥勒の名を呼んだ。
「弥勒さん……」
一緒に堕ちると約束したのに、一人地獄に遺してしまった。
――――ごめんなさい。
最期の言葉は形にならないまま、体が溶解して地面に雪崩れる。
―――――ひとでなしの男は、斎東多聞としてこの世の生を終えた。
「ああああああッ!!!」
腕の中で溶けた斎東の肉を掻き抱く弥勒の慟哭が駐車場に響き渡る。
肉が腐り解ける臭いが辺り一面に漂い、村上は両手で口元を覆った。
先程吐き出したばかりだと言うのに、胃液が食道を滝を登る龍のように遡り、口の中に酸味を帯びた苦々しい味が広がる。
――――まだだ。
村上はゆっくりと立ち上がり、頭上を見上げる。
苦痛と憎悪に歪んだ女の顔を見つめ、体中に走る痛みを歯を噛み締めて耐え抜き、両足に力を込める。
これで弟を脅かす脅威の内、一つは削がれたが状況は何一つ好転していない。むしろ悪化したと言ってもいい……――――つくづく目の前のことで手一杯になり、後先を考えない性分が嫌になり、村上は自己嫌悪を唾と共に吐き出した。
蜈蚣にとどめを刺すはずだった斎東は死に、山上は未だに炎上する車の中で恐らく気絶したままだ。
他の御使いが今何処で何をしているのか。流石にあれほど巨大な蜈蚣を見逃したりはしないだろうが、果たして中国地方が滅んでしまう前に間に合うのだろうか。
「村上ぃッ!!!」
愛する者を喪った弥勒が咆哮を上げながら村上に体当たりをして馬乗りになる。
そして首に手を置いて体重をかけながら強く締め上げる。
「よくも……多聞を……」
「ぐっ……」
傷も治り体力も回復した全力の弥勒に敵うはずもなく村上の体は浅い水たまりに沈む。
弥勒には視えていないのだ。
瀬戸内を覆い尽くす大蜈蚣の姿も、阿鼻叫喚に包まれた市内も。
ただ翡翠の瞳には何もかもを奪った村上だけが映っている。
弥勒にはもう、それしか残されていなかった。
それでも……――――この期に及んでも村上は弥勒を憐れむことが出来なかった。
――――こんな事をしている場合ではない。
急激に失っていく酸素に、村上の視界が白く濁る。
もし朔也を見逃してくれるなら殺されてやってもいいが、それは今《《ではなかった》》。
――――助けなければ。
救わなければならない。
無辜の人々を。
村を、市内を、この辺り一帯の、何処にでもいる、平凡な人々を。
村上には他者を憐れみ赦す事しか出来ないが、他の御使いと宇摩志多智花津隠里比古神が到着するまで……――――せめて山上が起きるまでの間、どうにかしてあの蜈蚣の気を引かねば……
『八朔くん!』
意識が遠のいて消える寸前で、村上の視界が青く染まる。
「何だ!?」
押し倒された水たまりからぶわりと青い花びらのような鱗が舞い上がり、村上の体を包み込んだ。鱗に煽られた弥勒は思わずのけぞって後ろに尻餅をつく。
「これは……」
村上は握ったままの拳銃をベルトに挟むと視界を覆い尽くす空と同じ色をした青い鱗に向かって手を伸ばす。丁度掌に収まるサイズの透き通ったそれは触れた瞬間にパシャリと水のように弾けた。その途端、指先まで蓄積した疲労が水滴と共に抜け落ちるように全身に活力が戻ってくるのを覚えた。
ふと前を見ると同じようにぶつかって溶けた鱗が氷となって弥勒の体の動きを封じている。暴れれば暴れるほど鱗は弾けて水に変わり、徐々に弥勒の体を覆っていった。
「ちーちゃん……」
「千鶴か!」
水たまりから透き通った鱗が螺旋を帯びて舞い上がる……――――それは村上が人生で見た中で最も美しい光景だった。
『掴んで。』
西千鶴の声がふわりと頭の中に広がる。
促されるまま前方に手を突き出すと、ゴツゴツとした木の枝のようなものに触れる。
『しっかり、掴んで。振り落とされないように。』
「――――ああ、これは角か。」
村上は掴んだ指先に力を込めると足元が地面から離れ、疾風のごとき速さで天に向かって吸い込まれていく。
村上の胴体にぶつかって水滴となった鱗の中から現れたのは……――――《《一匹の龍》》だった。




