八朔日の贄 その7
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爪で肉を抉る。
白い粉をはたいた柔肌に音を立てて穴を開け、横に滑らすように引っ掻くと青い鮮血が飛沫となって視界を覆った。
宙を蹴り上からもう一筋、顎が下に傾いた所に今度は左の爪で横に三筋。
無様に泣き喚く女の顔を眺めて、喉奥が雲の中で響く雷のように低く唸った。
僕は両手を伸ばし、その穢らわしい脚に手をかける。
関節を捻じるように引きちぎると足元に広がる尾道水道に投げ捨てた。
大蜈蚣。あらゆる畜生の頂点に君臨する、時には龍をも食らうとされた害虫。
長いまつげで覆われた瞳に映る僕は、見たこともないほど楽しそうな笑みを浮かべていた。
多摩誠司をはじめとしたオカ研サークルのメンバーで夢の国へ行った時ですら、こんな笑みを浮かべることはなかっただろう。
熱を帯び紅潮した頬に害虫の血液が付着する。今、目の前で喘いでいる生き物から流されたものとは思えない程冷たい青い液体を服の袖で拭うと、黒々と光沢を帯びる胴体に拳を突き刺して孔を開けた。
――――ああ、楽しい。
獲物を一方的に甚振るのは、どうしてこうも楽しいのだろう。
拘鞁羅八尾虎天王という武神として生を受けたが、”現し世”においても、僕が生きる”世界”でも、その”質”を存分に発揮できる環境は何処にもなかった。
居場所などなかったし、理解もされなかった。
くすぶり続けた加虐心と支配欲を発散させようと、気の向くままに人を弄んだが、決して満たされることはなかった。
――――腹の何処かに穴が開いている。
思い通りに振る舞えないストレスから暴飲暴食を繰り返す日々。
ひとでなしとして”現し世”に降り立ったのはいつの頃だろうか。
詳しい年代をもう覚えていない。
人として槍を携えて戦場を駆け抜けたのはいつの時代だったか。
一歩脚を踏み違えば死ぬような現場ですら、腹が満たされることはなかった。
殺し合いたい。
一瞬でとどめを刺したい。
できるだけ苦痛が続くようになぶり殺したい。
真正面から正々堂々打ち負かしたい。
後ろから隙をついて切りつけたい。
人を甚振って殺しても、何一つ面白くなかった。
軽く力を込めただけで押しつぶされて死ぬような、か弱い命。
その小さな力の中で懸命に知識を働かせ、前へ前へと歩み続ける尊い命。
芽吹くはずだった種を口の中で噛み潰す事に興奮を覚えても、あのような命を潰す行為は良心が痛んだ。
だが、目の前の害虫は違う。
口元に付着した血液を舌で舐め取りながら見下ろす。
気色の悪い媚を含んだ瞳はあの方の元妻を彷彿とさせ、全身の毛が総毛立つような怖気と苛立ちを覚えた。
こいつらを殺した所で何一つ良心は傷まない。
信仰もなく、知識も乏しく、ただ食欲を満たすために世に蔓延って、繁殖するだけの汚らしい生き物。
生理的な嫌悪はどうしようもない。
ただただ、気持ちが悪かった。
同じ世界の生き物なのに、どうしてこうも人と違うのだろうか。
何度か考えたこともあったが、それも随分昔に忘れてしまった。
――――晦彦様。
愛しい主の名を唇で紡ぐ。
僕の欲を理解した、ただ一人の神。
誰も理解してくれなかった僕に手を差し伸べてくれた、あの御方。
決して満たされることのない欲に苛まされた僕に駆除の手伝いという生きる意味を与えてくださった御方。
あの方の恩義に報いたかった。
人の皮を被り、人の世で、人として生き、人の為という大義名分を得て、害獣を駆除する。
弱ければ弱い程倒し甲斐あり、強ければ強い程甚振り甲斐があった。
――――所詮、娯楽だ。
晦彦様と他の御使いを相手に競い合うのも、獲物を奪い合うのも楽しかった。協力して一つの害獣を打ち負かすのも、こうして一人で手柄を独占するのも、心が弾んだ。
なにより、報酬として晦彦様が用意された特別な馳走を振る舞われる。
神と人の間の子。
半神半人の贄。
人として長く生きれば生きるほど、その皮に深い愛着が生まれる。
ただで死ぬのが惜しくなり、長持ちさせるためには専用のアイテムがいる……――――それこそ晦彦の贄《子》だった。
斎東多聞という生はたった一年弱の他者から見れば凡庸でつまらない生なのかもしれないが、僕にとっては大事に育てたキャラクターなのだ……――――無様に殺すするには、費やした時間が濃すぎた。
かつて、DMでひとでなしはアバターではないと嘯いていた紛い物の存在も、今はもうなにもかもがどうでも良かった。
嫉妬と軽蔑を持って見下していた村上八朔という人間の事も、眼中に無くなった。
あれだけ恨んで執着していた事が馬鹿みたいに愚かで、掛け替えのない思い出として輝いている。
”知恵”を抜き取られた時の事をあまり覚えていない。
人も随分賢くなったなあと感慨深さを抱いた所で記憶が曖昧に濁っている。
もう、どうでも良かった。
……――――兎に角僕は今、目の前の虫けらを甚振って殺したくてたまらない。
武神としての本能が常に戦闘を欲している。
苦労して打ち勝ったその先の快楽を貪りたくて、口から唾液があふれかえる。
何百年もの間、僕らひとでなしから逃れ続けた女はゼイゼイと荒い息を上げ、媚びるような表情で僕を見上げている。
伽藍洞の黒い瞳が、全身を黒く染めていたあの男に酷似していて、あいつに対する嫌悪感は多摩誠司からではなく、もしかしたらここから生まれたのかも知れないと頭の何処かで考える。
――――それも、どうでもいいことだった。
ふと溶解して溶け切った右の脛越しに広がる歪な光景が目に入る。
尾道の古き良き町並みで、人々が虫けらの影響を受け悪戯に悪意と罪悪感を増長させられ殺し合っては謝り合う……―――――見るも耐えぬ惨劇が起きていた。
祭りに訪れた10にも満たない幼子が大口を開けた猿に食われようとしているのを右手を払って止めようとした時、肘の付け根がポキリと音を立て逆方向に折れ曲がる。
筋肉の繊維が解れ、粘土のようにドロドロになった皮膚と混じり合った血液がポタポタと重力に従って滴り落ちる。
僕はこの戦闘を出来る限り長く楽しみたかったが、どうも時間がないらしい。
この手塩にかけて育てた体も長く保たない。
真下に広がる惨劇も長引かせてはいけない。
誰よりも人を愛するあの御方が心を痛めてしまう。
「終いや、早かったなあ……」
僕は名残惜しそうに独り言を呟いた後、自身の血肉から槍を12本錬成し女の眼前に突きつける。
本来は神相手に戦う為の槍だった……――――だが、この太平の世では戦う相手がいなかった。
存分に振るえるこの瞬間を何よりも楽しみに生きてきた。
――――無辜の人々よ、晦彦様が愛した霊長よ、しかと目に焼き付けろ。
未曾有の災害を鎮圧したひとでなしの姿を。
千年先まで残るだろう伝承を。
金色のブリーチが抜け落ちて長く揺蕩う髪が、根元から白く染まってゆく。
青みがかった細長い瞳が獲物に照準を定めて赤く輝いた。
「トドメや!」
まだ形を保った左手を大きく振りかざした、その時だった。
視界の端に、あの御方の御子息、村上朔也が軟禁されているホテルが映る。
黒煙を上げた駐車場に、僕が良く見知ったあの男がいた。
《《村上が》》。
《《あの黒ずくめの凡夫が》》。
《《弥勒に跨って銃口を突きつけて》》、《《その引き金を引いている》》。
「あかん。」
拳銃から放たれた弾丸が弥勒の鼻筋を貫いて花火のように血液が吹き出した。
僕を見つめた緑色の瞳が、溢れてアスファルトに叩きつけられる。
僕の髪に触れた指先が無惨に欠けていた。
何度も歯を立てたあの筋肉に覆われた逞しい肉体に、紫色に染まった打撲痕が無数に刻まれている。
僕の名を紡いだ唇から見える白い歯は前歯が数本欠けて、僕を呼んだ声が、喉が、ひゅうとか細く哭いた。
「あかん。」
手が止まる。
あと一歩なのに。
あと一振りなのに。
あと少しで、あの方の恩義に報いることが出来るのに。
拘鞁羅八尾虎天王として、生を全うすることが出来るのに。
あと少しで害虫にトドメを刺せるのに。
あと、ほんの少しで。
「あかん、あかんあかんあかん!」
……――――――――弥勒さん。
僕を……――――《《斎東多聞》》を愛した人。
共に地獄に落ちようと、微笑んでくれた人。
僕が「斎東多聞」としてしがみついた理由の大半は彼との逢瀬の為だった。
堕落の園で貪りあった肌を、少しでも長く味わう、その為に。
「弥勒さんッ!」
嗚呼、惜しい。
あまりにも、惜しい。
あと少しだったのに……
僕は槍を全て手放すと、彼に向かって手を伸ばした。




