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無能令嬢として隣国に売られましたが、私の料理を食べたら“限界突破”します。婚約者の執着が重すぎて困っています  作者: はりねずみの肉球


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第7章:選ばれる未来

シーン1:決戦の朝

夜明け前に目が覚めた。


眠れていた時間は、三時間くらいだと思う。体は重いが、頭は妙に冴えている。決戦前の体というのは、こういう状態になるのかもしれない。


窓の外を見た。


空の端が、薄く白くなっていた。


「ぐる……」


パフが枕の横で目を開けた。


「——おはよう」


「ぐ」


「今日が、本番です」


「ぐるっ」


「——怖い?」


パフが鼻を鳴らした。


「ぐるるっ!」


断固として否定する声だった。


「そっか。じゃあ私も怖くないことにします」


嘘だ。


怖い。


昨夜、百二十名分の夕食を作りながら、ずっと考えていた。禁忌を使わないと約束した。アルヴェルトを信じると決めた。でも——信じるということは、自分が何もできない場面で、ただ待つことを意味する時がある。


それが、一番怖い。


自分ではどうにもできない状況になること。


料理という武器を、封じた状態で戦うこと。


でも——昨夜の夕食を食べた騎士たちの顔を思い出した。


百二十名が、一人残らず皿を空にした。


食べ終えた後、一人の年配の騎士が厨房に来た。


「——令嬢」


「はい」


「明日、俺たちは戦います。令嬢のために」


「——すみません」


「謝るな。俺たちが選んで戦う。それだけのものを、令嬢は俺たちに作ってくれた」


「それは——」


「食べた時に、思いました。この人のために、できることをしようと。それだけです」


老いた騎士が、頭を下げた。


私は何も言えなかった。


料理が、人を動かす。


力で動かすんじゃない。


美味しいと感じた心が、自分で動くんだ。


「——それが、私の力の本当の意味かもしれない」


誰にも聞こえない声で、呟いた。


パフが袖に潜り込んだ。


起き上がって、厨房に向かった。


今朝も作る。決戦の朝に、全員が食べるものを。


これが最後の料理になるかもしれない。


でも——最後だとしても、最高のものを。


厨房には、ミオがすでにいた。


目が赤い。また昨夜、泣いていたんだろう。でも今日は泣いていない。エプロンをきっちり締めて、かまどに火を入れていた。


「——おはようございます」


「おはよう。早いですね」


「眠れなかったので」


「私も」


「何作りますか」


「——今朝は、シンプルなものにします。卵料理と、暖かいスープと、パン」


「能力強化は?」


「——します。でも、控えめに。今日戦うのは騎士たちで、私じゃないから」


「リリア様も、戦っています」


「——そうですか」


「厨房で戦っています。ずっと」


私はミオを見た。


十六歳の子が、まっすぐ私を見ていた。


「ありがとうございます」


「お礼はいいです。一緒に作りましょう」


「——はい」


二人で動き始めた。


セドリックは昨夜遅くまで研究をしていたので、今朝は来ていない。二人だけだった。


でも二人で十分だった。


三ヶ月前、ここに来た時は一人だった。


今は二人いる。


「——ミオ、一つだけ言っていいですか」


「はい」


「今日、何があっても——」


「——帰ります」


私が言い終わる前に、ミオが言った。


「生きて帰ります。リリア様も、帰ります。二人で、またここで作ります」


「……決めつけですよ」


「決めつけます!」


パフが棚の上で鳴いた。


「ぐるるっ!」


「——あんたも帰ります」


「っぐ!」


「全員で帰ります」


それだけ決めてしまえば——不思議と、手が動いた。


包丁を握った。


指先に、電流。


今朝は四割で抑えた。


確実に、丁寧に、全員のために。


シーン2:正午の対峙

正午の鐘が鳴る、三十分前。


城の正門前に、騎士団が整列していた。


百二十名。全員が甲冑を着けて、剣を腰に帯びて、静かに立っていた。


その向こうに、黒い外套の一団。


魔法省の三十名が、城の外で待機している。


私は城壁の上から見ていた。


隣にアルヴェルトがいた。


「——時間になったら、交渉の場に出る」


「私も出ますか」


「——出ない。ここで見ていろ」


「でも——」


「お前が出れば、向こうの交渉材料になる。俺一人で話す」


「分かりました」


「絶対に、城壁から降りるな」


「——はい」


アルヴェルトが城壁の端に向かった。


その背中を見ながら、私は手のひらを見た。


今朝の料理の後、少しだけ疲弊感がある。四割で抑えたつもりだったが、百二十名分を一気に作ったので——蓄積はある。


でも今日は、これ以上作らない。


約束した。


城壁の下で、正門が開いた。


アルヴェルトが出ていった。


一人で。


向こうの先頭に立つ男と、距離を置いて向き合った。


声は聞こえない。


でも体の動きで、何を言っているかは、なんとなく分かった。


向こうが令状を示した。


アルヴェルトが首を振った。


向こうが一歩前に出た。


アルヴェルトが動かなかった。


「——ぐるるっ」


「分かってる。見てる」


ミオが私の隣に来た。


「——どうなってますか」


「交渉中です」


「うまくいきますか」


「——分かりません」


向こうの魔法士たちが、手に魔法陣を展開し始めた。


氷の結晶。炎の渦。雷の糸。


二十名の魔法が、同時に起動した。


「——っ」


ミオが息を呑んだ。


騎士団が剣を抜いた。


百二十の剣が、同時に光った。


張り詰めた空気が、城壁の上まで届いた。


「——アルヴェルト様」


私は小声で言った。


声は届かない。でも言わずにいられなかった。


向こうの先頭の男が、何か言った。


アルヴェルトが——


動かなかった。


一歩も動かず、両腕を組んで、まっすぐ前を向いていた。


その背中が、百二十名の前に立っていた。


「——無駄だと、言っているんだと思います」


ミオが言った。


「え?」


「アルヴェルト様の体の言葉が、そう言ってる気がします。あなたたちの力に屈する気はない、って」


私はアルヴェルトの背中を見た。


伸びた背筋。肩の角度。足の踏み方。


ミオの言う通りだった。


あの体が言っていた。


——俺は動かない。


向こうの先頭が、また何か言った。


アルヴェルトが、手を上げた。


騎士団に向けて。


何かの合図だった。


騎士団が一斉に前進した。


「——始まった」


シーン3:百二十対三十

戦闘は、最初の五分で形勢が決まった。


数の差が、明確に出た。


魔法省の魔法士二十名が魔法を展開しても、騎士団が三方向から詰めると、照準が分散する。一方向に集中すれば、残りの二方向から騎士が来る。


昨夜の夕食の効果が、まだ残っていた。


騎士たちの動きが速い。判断が速い。疲れを感じさせない動きで、連携が取れている。


「——すごい」


ミオが城壁から身を乗り出して見ていた。


「——クレイグさんです。あそこで戦ってるの」


「どこですか」


「左の端。一人で三人を相手にしてます!」


見た。


確かにクレイグだった。体格は小さい。でも動きが鋭い。相手の重心を読んで、最短距離で間合いを詰めている。


最初に出会った時は三連敗していた人間が——今は三人を同時に相手にしている。


料理の効果が、今も続いている。


でも——


「——魔法省側が、隊形を変えた」


城壁の向こうから、別の声がした。


レイガルだった。


「東側から、別働隊が来ます。五名」


「別働隊?」


「——最初から二手に分けていた。こちらが正面に集中している間に、城の東側を回り込んでいます」


「どこを狙ってますか」


「——厨房です」


私は止まった。


「厨房」


「料理の材料を破壊することが目的と思われます。リリア様の能力の源を断つために」


「——防衛は」


「東側の衛兵を回しましたが、五名の魔法士に対して衛兵三名では——」


「行きます」


「リリア様!」


「厨房を守ります」


「でも——」


「アルヴェルト様から、城壁から降りるなと言われましたが——厨房なら城の中です」


「そういう意味じゃないと思いますが!」


「ミオ、来てください」


「はい!」


「パフは——」


「ぐるるっ!」


「来ます。分かりました」


城壁から降りた。


城の廊下を走った。


厨房に着いた時、すでに東側の扉が叩かれていた。


魔法の音がした。


扉の周囲が、焦げていた。


炎魔法だ。


「——一番大切な包丁だけ、持ちます」


棚の奥から取り出した。


布を解いた。


包丁が光った。


「——ミオ、裏口から」


「でも——」


「厨房を守ります。でも、ミオは中にいないでください」


「一緒に——」


「お願いします。裏口から、レイガルさんを呼んできてください。私が時間を稼ぎます」


ミオが、私を見た。


「——絶対に、無茶しないでください」


「します」


「リリア様!」


「でも——禁忌は使いません」


「……約束ですよ」


「約束します」


ミオが裏口から出た。


厨房に、私一人が残った。


「——ぐるるっ」


「あんたは肩に乗ってて」


「っぐ」


パフが肩に乗った。


東側の扉が、焦げた。


次の魔法で、開く。


私は調理台の前に立った。


包丁を持った。


指先に、電流。


今は四割で。


でも何をする気だ、と自分に問いかけた。


料理をする気か。今から。


——そうだ。


扉が開いた。


炎が走った。


五名が入ってきた。


一番前の魔法士が、私を見た。


「——エルフェン令嬢。大人しくしていただければ——」


「美味しいものを食べていってください」


「——は?」


私は包丁を動かした。


調理台の上の材料を、瞬時に切った。


昨夜の残りがある。野菜、ハーブ、チーズ。


手が動いた。


考えるより先に。


「——何をしている」


「料理です」


「こんな時に——」


「こんな時だから、です」


魔法士たちが、顔を見合わせた。


私は手を止めなかった。


薄切りにした野菜に、ハーブとチーズを挟んで、かまどで軽く炙る。


三十秒。


完成した。


「——どうぞ」


五名が固まった。


「——食べていけ、という意味か」


「はい」


「俺たちは、お前を——」


「知っています。でも、腹は減っているでしょう。ここまで来て」


「……」


一番前の魔法士が、私を見た。


目が、揺れていた。


「——なぜ、こんな状況で料理を」


「誰かが腹を減らしているなら、作るのが私の仕事だからです」


「俺たちは——」


「敵かどうかは、まだ分かりません。でも、腹が減っている人間に食べ物を出すのは、間違っていないはずです」


沈黙。


長い沈黙だった。


「——毒は入っていないか」


「入っていません。見ていたでしょう。今、私が作りました」


魔法士が、仲間と顔を見合わせた。


それから——


一人が手を伸ばした。


食べた。


「——っ」


目が、変わった。


体が温かくなる感覚が、その顔に出た。


「……なんだ、これは」


「美味しいですか」


「——美味い」


「ありがとうございます」


残りの四名が、次々に手を伸ばした。


全員が食べた。


全員の顔が、同じ変化をした。


体の内側から、何かが灯る顔。


「——なぜ」


一人が言った。


「なぜ、俺たちに食べさせる。俺たちはお前を——」


「あなたたちの中に、誰かを傷つけたくて来た人間はいますか」


「——それは」


「命令で来た。仕事で来た。そういう人間に、私は戦いたくない」


「だから料理を出したのか」


「——食べた人を、傷つけたくないんです。私の料理を食べた人を」


魔法士が、私を見た。


目に、何かが灯っていた。


さっきと違う何かが。


「——お前は、変わった人間だな」


「よく言われます」


「魔法省に来いと言っても、拒否するか」


「拒否します」


「なぜだ」


「自分の意思で、自分の料理を作りたいから」


「自由になりたいということか」


「——料理は、自由じゃないと作れないんです。誰かに決められたものを作っても、美味しくならない」


魔法士が、少しだけ——口の端を動かした。


「——俺の妻も、料理人だ」


「そうですか」


「同じことを言っていた。気持ちが入らないと、味が出ないと」


「——奥様は、正しいです」


扉が開いた。


レイガルが来た。


三名の衛兵と一緒に。


「——状況は」


「——交渉中です」


レイガルが、料理を食べている五名を見た。


目が、盛大に点滅した。


「……」


「レイガルさん、少し待っていただけますか」


「……はい」


「——私たちは、引き上げる」


魔法士の一人が言った。


「は?」


「今日は、引き上げる。上に報告する」


「何を報告するんですか」


「——この令嬢を連れ帰ることは、俺たちにはできない、と」


「理由は」


「——食べてしまったから」


「——それは、どういう意味ですか」


「食べた人を、傷つけたくないんだろう。俺たちも——食べた人を、傷つけたくなくなった」


私は言葉が出なかった。


「——また来るかもしれない。俺じゃない人間が。でも今日は、俺たちは帰る」


「……ありがとうございます」


「礼はいい。ただ——」


魔法士が、振り返った。


「——お前の料理、本当に美味かった」


「——美味しいって言わせてみせる、が口癖です」


「達成してるじゃないか」


彼らが出ていった。


厨房に、レイガルと私が残った。


「……リリア様」


「はい」


「——あなたは、正気ですか」


「たぶん、そうです」


「敵兵に料理を出すのは——」


「二百年前のリリアも、やったそうです」


「……」


「レイガルさんも食べますか。残っています」


レイガルが、少しだけ——目を細めた。


「——いただきます」


シーン4:正門での決着

厨房から出ると、城の外が静かになっていた。


正門に向かった。


戦闘は、終わっていた。


魔法省の三十名が、剣を収めていた。


騎士団が包囲している。


でも——戦闘で倒れた者は、両側合わせて数名だけだった。


死者は、いなかった。


「——終わったんですか」


レイガルが前の衛兵に聞いた。


「——はい。魔法省側が、撤退を宣言しました」


「なぜだ」


「——アルヴェルト様が、交渉で何かを」


「何を」


「——私には、聞こえませんでした。でも、魔法省の隊長が、令状を引いた」


アルヴェルトが、正門の前に立っていた。


一人で。


剣は抜いていなかった。


向かいに立つ魔法省の隊長が、何か言った。


アルヴェルトが、短く答えた。


隊長が、頭を下げた。


三十名が、踵を返した。


去っていった。


城の外が、静かになった。


アルヴェルトが振り返った。


正門を通って、城の中に入った。


騎士たちが道を開けた。


その中を歩いてきて——


私の前で、止まった。


「——怪我は」


「ないです」


「厨房に行ったか」


「——行きました」


「城壁から降りるなと言っただろう」


「厨房は城の中です」


「——そういう意味じゃない」


「分かっていました」


「……」


「禁忌は使っていません」


アルヴェルトが、少しだけ息を吐いた。


「——東側の五名は」


「料理を出しました。帰っていきました」


「……」


「美味しいと言ってもらえました」


アルヴェルトが、私を見た。


長い。


本当に長く、見た。


「——正気か」


「レイガルさんにも聞かれました」


「俺も聞く」


「——正気です」


「敵に料理を出して、帰らせた」


「帰っていただきました」


「……」


「どうしましたか、アルヴェルト様」


「——何と言えばいいか、分からない」


「どういう意味ですか」


「お前が何かをするたびに——俺の想定を超える」


「料理人は、想定外が得意なんです。冷蔵庫の残り物で作るのが、一番腕が出るので」


「——俺は冷蔵庫の残り物か」


「たとえ話です」


「たとえ方が悪い」


「すみません」


アルヴェルトが、また私を見た。


今度は笑いを堪えている顔だった。


確かに、笑いを堪えていた。


「ぐるるっ」


パフが肩の上で鳴いた。


「お前まで」


「っぐ!」


周囲の騎士たちが、少しだけ顔を緩めた。


「——撤退の条件は何でしたか」


私は聞いた。


「条件は出していない」


「え?」


「——一つだけ、言った」


「何を」


「リリア・エルフェンは、俺が責任を持って管理する。国に害をなすような使い方はしない。それだけを言った」


「管理、という言葉が——」


「気に入らないか」


「少し」


「——では訂正する」


「何に?」


「リリア・エルフェンは、俺が責任を持って——守る。それを伝えた」


「……」


「向こうの隊長が、今のグランディアに手を出せば、政治的に消耗する判断をした。数でも形勢でも、こちらが上だったので」


「でも、それだけじゃないですよね」


「——何故そう思う」


「隊長が、頭を下げていました。令状を引いた後に」


アルヴェルトが、少しだけ目を細めた。


「——一つ、俺の名誉に賭けた言葉を言った」


「何ですか」


「——この令嬢の料理を食べたことがあるか、と聞いた」


「……」


「隊長は、食べていなかった。でも——昨日、城の外で待機していた間に、部下の何名かがミオから差し入れを受け取って食べていたことを知っていた」


「ミオが——差し入れを?」


「お前が夕食を作っていた時に、ミオが余ったものを城の外に持っていったらしい。黙って」


私は、その光景を想像した。


ミオが、夜の城壁の外に出て——魔法省の人間に料理を渡した。


「——あの子は」


「部下の一人に何が起きたかを隊長は聞いていた。体が温かくなって、仕事をしようという気持ちが戻ったと」


「それで」


「——令状に従うことが、本当に正しいのかを、隊長自身が迷い始めていた」


私は少しの間、黙った。


ミオが動いていた。


私が知らないところで。自分で考えて、自分で動いていた。


「——ミオは」


「ここにいます!」


後ろから声がした。


振り返った。


ミオが走ってきた。


顔が赤い。息を切らしている。目が輝いている。


「——私、やりました! リリア様! ちゃんと渡しました! 余った料理!」


「——聞きました」


「よかったですか!」


「——本当に、よかったです」


「えへへ!」


ミオが笑った。


全力の笑顔だった。


「ぐるるるっ!!」


パフが肩の上で最大音量で鳴いた。


周囲の騎士たちが、また顔を緩めた。


数名が、笑っていた。


戦闘の後の笑い声は——いつもより少しだけ、大きく響いた。


シーン5:言葉の決着

夕刻、城が落ち着いた後。


アルヴェルトが私を呼んだ。


執務室じゃなかった。


城の塔の上だった。


夕日が見える場所だった。


「——珍しい場所ですね」


「たまには違う場所で話したかった」


「そうですか」


二人で並んで、城の外を見た。


夕日が西の山に沈もうとしていた。


空が、橙と紫に染まっていた。


「——今日のことを、整理したい」


「はい」


「お前は——三つの約束を守った」


「三つ?」


「禁忌を使わなかった。俺を信じた。帰ってきた」


「——あなたも、帰ってきました」


「約束したからな」


「はい」


「——俺は約束を守る」


「知っています」


「これからも守る」


「——どんな約束ですか」


アルヴェルトが、少しだけ間を置いた。


夕日の光が、彼の横顔を照らした。


「——一つだけ、確認したいことがある」


「はい」


「俺の胸が温かくなる感覚は——料理の効果だと思うか」


私は少しだけ、考えた。


「——今日、騎士たちは自分の意思で戦いました」


「そうだな」


「料理が引き出したのは、彼らの中にすでにあった力です。私が作り出したんじゃない」


「——つまり」


「料理は——引き金です。あなたの中にあったものを、引き出しただけです」


「俺の中にあったものとは」


「——それは、あなたが判断することです。私には分かりません」


アルヴェルトが、夕日を見た。


長い沈黙だった。


「——俺は、感情を消すように育った」


「はい」


「でも——消えなかったものがある」


「何ですか」


「——今になっても、何かを感じると、胸のここが温かくなる」


さっきと同じ場所に、手を当てた。


心臓の、少し右。


「料理の前から——そこに、何かがあったんだと思います」


「料理が引き出した」


「はい。あなたの中にあったものを」


「——それは、何なんだ」


私は少しだけ、迷った。


この人は、答えを求めている。でも私が答えを言うことじゃない気がした。


「——名前をつけなくていいと思います」


「名前をつけないと、扱い方が分からない」


「扱わなくていいんです。ただ、あるということを——知っているだけで、十分じゃないですか」


アルヴェルトが、私を見た。


「——お前は、こういうことを言う」


「何がですか」


「俺の想定を超えることを、簡単に言う」


「想定を超えていますか」


「——超えている」


「すみません」


「謝るな」


「でも——」


「謝るな、と言っている」


私は黙った。


夕日が、山の向こうに消えた。


空が、急速に暗くなっていく。


「——リリア」


「はい」


「一つ、言わせてくれ」


「はい」


「——俺はお前を、利用しようとした」


「それは——」


「聞いてくれ」


「——はい」


「利用しようとして、連れてきた。でも——お前は、俺が想定した以上のことを、何度もした。料理で人を動かして、言葉で人を変えて、今日は敵に料理を出した」


「はい」


「——その度に、俺の中の何かが、変わっていった」


「何が変わりましたか」


「——お前への見方が」


「どう変わりましたか」


アルヴェルトが、夕日の消えた空を見た。


一番星が、出ていた。


「——最初は、有用な人材だと思っていた」


「はい」


「次に、興味深い人間だと思った」


「はい」


「それから——俺の隣に、いてほしいと思った」


「……」


「今は——」


「今は?」


「——今は、俺のそばにいてくれることが、当たり前になっている。当たり前になっているのに、当たり前じゃなくなる可能性が来るたびに——俺は合理的な判断ができなくなる」


「それが——今日の、令状の拒否ですか」


「そうだ」


「国との関係を犠牲にしてでも」


「——そうだ」


「合理的じゃないですね」


「——分かっている」


「でも——」


「でも、正しいと思った」


私は、空を見た。


一番星の隣に、もう一つ星が出ていた。


「——アルヴェルト様」


「何だ」


「私も、一つ言っていいですか」


「聞く」


「——私は、誰かのために作り続けたいです。ずっと。力が続く限り、丁寧に、正しく、誰かの役に立つ料理を作りたい」


「——それが、お前の答えか」


「その答えの中に——あなたへの料理が入っています。自分の意思で、毎日、作り続けたいと思っています」


「——それは」


「告白じゃないです。事実の報告です」


アルヴェルトが、少しだけ止まった。


「——告白でなくても、受け取る」


「受け取っていただけますか」


「——ああ」


「ありがとうございます」


「お礼を言う場面ではない気がするが」


「でも、嬉しいので」


アルヴェルトが、空を見た。


星が、また増えていた。


「——一つだけ、俺からも事実の報告をする」


「はい」


「——俺はお前の料理を、毎日食べたいと思っている」


「それは——依存ではないですか」


「依存かもしれない。でも——料理の効果より、お前が作った、という事実が重要だ」


「どういう意味ですか」


「——セドリックが昨日、実験をした。別の料理人が同じ材料で作ったものを食べた時、発光石の反応が違った。効果も弱かった」


「それは——」


「お前が作ったものだから、意味がある。そういうことだ」


「……」


「料理の力だけじゃない。お前が作った、という——」


アルヴェルトが、言葉を探した。


「——気持ちが、入っているから。そう思っている」


私は、手のひらを見た。


小さな傷のある手。


料理を作り続けてきた手。


「——続けます」


「何を」


「作り続けます。あなたのために。みんなのために。自分の意思で」


「——約束か」


「約束です」


「——俺も約束する」


「何を?」


「——お前が作り続けられる場所を、守る。お前の意思を、尊重する。利用しない」


「……」


「三つ全部、約束する」


「重いです」


「重くていい」


「本当に?」


「——重い方が、本気だ」


私は少しだけ、息を吐いた。


笑いが来た。


こらえたけれど、出てしまった。


アルヴェルトが、私を見た。


「——何がおかしい」


「重い方が本気、って——少し前なら、絶対に言わなかったですよね」


「——そうかもしれない」


「変わりましたね」


「……お前のせいだ」


「ありがとうございます」


「褒めていない」


「褒め言葉として受け取りました」


「ぐるるっ!」


パフが袖から出てきた。


二人の間に割り込んで、星空を見上げた。


「——何がしたいんだ、お前は」


「ぐっ!」


「一緒に見たいんだと思います」


「ハリネズミが、星を見たいのか」


「ぐるるっ」


「——否定しなかった」


「どうやら、そうらしいです」


三人で——正確には二人と一匹で——星空を見た。


城の下から、騎士たちの声が聞こえた。


夕食の時間だ。


「——作りに行きます」


「今夜はいい。休め」


「でも——」


「一日で十分だ。今夜は俺が何とかする」


「何とかというのは」


「——ミオに頼む」


「ミオに?」


「あいつも、料理ができるだろう」


「できます。でも——」


「今夜だけ、任せろ。お前は休め」


「……」


「命令だ」


「今日三回目の命令ですが」


「それでも命令だ」


「——分かりました」


「ぐるるっ」


「あなたは関係ないです、パフ」


「っぐ!」


アルヴェルトが、塔の階段に向かった。


私はもう一度だけ、星空を見た。


今日、誰も死ななかった。


ミオが帰ってきた。


アルヴェルトが帰ってきた。


セレナと——完全じゃないけれど、話ができた。


魔法省の人間に、美味しいと言ってもらえた。


全部が、完璧じゃない。


魔法省は、また来るかもしれない。


セレナとの問題も、まだ終わっていない。


でも——今夜は、それでいい。


「美味しいって言わせてみせる」


呟いた。


今日も、言わせた。


「——行きましょうか、パフ」


「ぐる」


星空を背に、塔を降りた。

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