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無能令嬢として隣国に売られましたが、私の料理を食べたら“限界突破”します。婚約者の執着が重すぎて困っています  作者: はりねずみの肉球


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第6章:禁忌の解放

シーン1:潜入、そして捕虜発見

夜の街道は、静かすぎた。


馬の蹄の音も立てないように、私たちは歩いていた。アルヴェルトが前、私が後ろ。護衛の騎士が三名、左右と後方を固めている。全員が黒い外套を羽織って、魔法灯も持たず、月明かりだけを頼りに進んでいた。


「——次の分岐を右だ」


アルヴェルトが小声で言った。


「距離は」


「あと十分」


私は足元を確認した。


街道から外れた獣道は、草が湿っている。昨夜の雨の名残だ。靴の底が濡れる。でも音が消える。濡れた草は足音を吸収してくれる。


「——リリア、息が聞こえる」


「すみません、緊張しています」


「深く吸え。ゆっくり吐け」


「今できますか」


「動きながらでもできる」


私は息を整えた。


深く吸う。草の匂い、土の匂い、秋の夜の冷たさ。


ゆっくり吐く。


「……少し落ち着きました」


「いい」


前を歩くアルヴェルトの背中が、月明かりの中で揺れている。


この人は、今どれほど力が入っているんだろう。顔が見えないから分からない。でも背中は——いつもより少しだけ、前傾みになっている。急いでいる証拠だ。


合理主義者が、急いでいる。


感情を排した人間が——急いでいる理由が何なのか、私には分かる気がした。


「——見えた」


騎士の一人が囁いた。


木立の向こうに、石造りの建物があった。


二階建て。窓が少ない。外壁が高い。魔法灯が等間隔に並んでいて、敷地を照らしている。表向きは工房。でも、灯りが多すぎる。深夜零時を過ぎているのに、人が動いている。


「——見張りが四名。正門に二名、東側の壁に一名、屋根に一名」


アルヴェルトが小声で言った。


「どこから入りますか」


「西側の壁に、換気口がある。レイガルの調査によれば、そこが唯一の盲点だ」


「換気口から入れますか」


「人一人分の幅はある」


「……」


「怖ければ、ここで待っていろ」


「行きます」


「迷ったか」


「換気口が狭いと思っただけです」


アルヴェルトが、かすかに息を吐いた。


笑いを堪えた音だった、と思う。違うかもしれない。


「——俺が先に入る。後に続け」


「分かりました」


「音を立てるな」


「立てません」


「ここから先は、俺の指示に従え」


「料理以外は従います」


「——料理以外、とは」


「調理の判断は私がします。それ以外は従います」


「……分かった」


換気口は、地上から一メートルの高さにあった。


格子がついていたが、アルヴェルトが手で触れると、格子が音もなく外れた。事前に細工してあったらしい。


「——先に入る」


アルヴェルトが体を滑り込ませた。


音がしなかった。


次に私が入った。


狭い。肩が両側の壁に触れる。空気が淀んでいる。カビと機械油の匂い。


「——足をかけろ、ここだ」


手が伸びてきた。


アルヴェルトの手だ。


私はその手を取って、内側に降りた。


着地した。床が石畳だった。


「——廊下だ。左が倉庫、右が作業場。捕虜はどちらかにいる可能性が高い」


「どっちから」


「倉庫から確認する」


移動した。


廊下は暗かった。窓のない内部は、小さな魔法灯が天井に一個あるだけだ。


足音を消して歩く。


石畳の感触を確かめながら、重心を前に置いて、かかとから着地しない。


「——倉庫の扉だ」


アルヴェルトが鍵を確認した。


「施錠されている。外からは開けられない」


「中に人がいますか」


「——聞いてみる」


アルヴェルトが扉に手を当てて、小さく叩いた。


二回、間を置いて一回。


何かの合図なのか——


しばらく、何もなかった。


私は息を止めた。


それから。


扉の向こうから、音がした。


何かが床を這う音。引きずる音。


「——っ、リリア様!?」


小さな声だった。


くぐもっていて、震えていて——でも確かに聞いたことのある声だった。


「ミオ!」


「しっ——」


アルヴェルトが私を制した。


声が大きかった。


廊下に、足音が響いた。


遠くから、近づいてくる。


「——急ぐ」


アルヴェルトが鍵を素早く操作した。


硬い音がして、扉が開いた。


中は狭い倉庫だった。棚が並んで、道具が積まれている。


その奥の隅に。


ミオがいた。


手首を縛られて、柱に繋がれて。口に布が当てられていたのか、床に落ちていた。顔に傷はないが、目の下が赤い。泣いていたんだ、と分かった。


「ミオ!」


「リリア様……っ!」


私は膝をついた。


縄を確認した。


「アルヴェルト様、縄を——」


「——分かっている」


剣を抜いた。刃の背を当てて、縄を断ち切った。


ミオの手が解放された。


「動けますか」


「——足が、しびれていて」


「もみほぐします。少し待って」


「リリア様……っ、ごめんなさい」


「何を謝るんですか」


「私が——捕まったせいで——」


「後で話します。今は出ます」


足音が、さらに近づいていた。


複数だ。


「——遅い」


アルヴェルトが扉を閉めた。


倉庫の中に三人で閉じこもる形になった。


「——迂回路を使う。換気口は塞がれる前に」


「間に合いますか」


「——分からない」


廊下を走る音。扉の前で、止まった。


「——いるな」


扉の向こうから、声がした。


「——三名だ。アルヴェルト・グランディアと、エルフェン令嬢と、捕虜」


「どうして分かったんですか」


私は小声で聞いた。


「——予想していた可能性がある」


「罠ですか」


「……可能性がある」


「ぐる——っ」


袖の中から声がした。


私は止まった。


「——パフ?」


「ぐるるっ!」


パフがいた。


いつの間にか——エプロンの大きなポケットの中に入っていた。セドリックに預けたはずなのに。


「——あんた、いつから」


「ぐっ!」


「こっそり入ってたの?」


「ぐるるっ!!」


「——後で怒ります」


でも正直に言えば、その小さな温かさが、今だけは、少しだけ心強かった。


扉が、外から叩かれた。


「——アルヴェルト様。大人しく出ていただければ、傷はつけません」


「——何名いると思う」


アルヴェルトが私に囁いた。


私は扉の音を聞いた。


足音の数を数えた。


「——五、いや六名です。扉の前に二名、廊下の両側に二名ずつ」


「正確だな」


「音の反響で、だいたい分かります」


「——それは料理人の感覚か」


「五感を使う訓練が、同じだから」


アルヴェルトが頷いた。


「——倉庫の中に別の出口があるか確認しろ。棚の裏を見てみろ」


「はい」


私は棚を調べた。


壁を確認した。


奥の壁に、小さな扉があった。


「——あります。小さいですが」


「どこに繋がる」


「——分かりません。でも、外に出る可能性があります」


「行けるか」


「行きます」


「ミオは」


「一緒に来ます!」ミオが言った。足がまだ痺れているのに、立ち上がろうとしていた。


「——支えます」


私はミオの腕を取った。


「——行くぞ」


アルヴェルトが棚を一つ動かした。


音がした。外の声が緊張した。


「——今だ」


小さな扉を押した。


開いた。


冷たい空気が流れ込んできた。


外だ。


「——行け」


「アルヴェルト様は」


「俺は後から行く。お前たちが先だ」


「一緒に——」


「行け、リリア」


「——っ」


「約束しただろう。俺は帰ると。信じろ」


私はミオを支えながら、小さな扉をくぐった。


夜の空気が体を包んだ。


星が、出ていた。


「——走れるか、ミオ」


「走ります」


「足が——」


「走れます!」


ミオが、痺れた足で立った。


倒れそうになった。


私が支えた。


「——一緒に走ります」


二人で走り始めた。


後ろで、音がした。


剣戟の音だった。


アルヴェルトが、中に残っている。


六人を相手に。


「——リリア様、戻りますか」


「——走ります」


「でも——」


「信じます」


「——え?」


「あの人を、信じます」


走った。


草が濡れている。足が滑る。でも止まらない。


「——止まれ」


前から声がした。


二人が立っていた。


外にも、いた。


逃げ道が、塞がれた。


ミオが息を呑んだ。


私は立ち止まった。


二人の顔を見た。


魔法士だ。手に魔法陣が浮かんでいる。氷の結晶が、指先に集まっている。


「——やはり来ましたね、エルフェン令嬢」


女性の声だった。


聞いたことのある声だった。


「——セレナ様?」


月明かりの中に、白い金髪が光った。


セレナが立っていた。


「——ずっと待っていたわ」


シーン2:包囲、そして絶望

「——罠だったんですか」


「罠、という言い方は好きじゃないわ」


セレナが言った。


手に魔法陣が浮かんでいない。武装していない。それが、逆に怖かった。戦う気がない、という意味じゃなくて——戦う必要がないと思っている、という意味だ。


「ミオを攫ったのも、あなたですか」


「指示を出したのは、私ではないわ。でも——止めなかったのは、事実ね」


「——なぜ」


「あなたに来てほしかったから。アルヴェルト様と一緒に」


「アルヴェルト様を閉じ込めて」


「閉じ込めてはいないわ。少し、足止めしているだけ」


「六人で」


「——あの人は強いから。六人でも、余るかもしれないわね」


セレナが一歩前に来た。


「——落ち着いて聞いてくれる? 私はあなたと戦いたいわけじゃない」


「では何がしたいんですか」


「話がしたいの。本当の話を」


「今夜のために、人を動かして、子供を攫って——それが話のための手順ですか」


「あなたが来てくれる方法が、これしか思いつかなかったのよ」


「——もっと、簡単な方法があります」


「どんな方法?」


「直接話す。昨日、あなたは城に来た。その時に全部話せたはずです」


セレナが少し、止まった。


「——あの時は、まだ決められなかった」


「何を決められなかったんですか」


「——あなたを、どう見るか」


私は黙って、セレナを見た。


「最初は、危険な存在だと思っていた。今も、危険だとは思っている。でも——あの時、あなたが言った言葉を、ずっと考えていたわ」


「何の言葉ですか」


「——誰かが美味しいと言ってくれる顔を見るのが好きだから、料理が好きだと言ったでしょう」


「はい」


「——兄も、そう言っていた」


静寂。


「私の兄は、料理が好きだった。自分では作れなかったけれど、食べることが好きで、誰かの料理を食べると、その人に全力でありがとうを言う人だった」


セレナの声が、初めて揺れた。


音程が、わずかにずれた。


「だから——あなたの言葉が、頭から離れなかった。同じ動機を持った人間が、兄を壊したのと同じ力を持っている」


「——悲しかったですね」


「悲しいとは、思いたくなかった」


「怒りにした方が、楽だから」


「——そうね」


セレナが、少しだけ目を細めた。


「——あなたは、鋭いわね」


「そうじゃないです。同じだから分かるだけです」


「同じ?」


「私も、怒りにしていた時期があります。家族から無能と言われて、売り飛ばされて——悲しいと認めると崩れそうだから、怒りでいる方が楽だった」


ミオが私の腕をつかんだ。


「——リリア様……」


「大丈夫です」


セレナが、私をまっすぐ見た。


「——あなたに、頼みたいことがある」


「聞きます」


「研究院の分析結果を見たわ。あなたの能力の消耗について。使えば使うほど、あなた自身が削られていく」


「知っています」


「だったら——使うのをやめれば、長く生きられる。兵器として使われることもない。普通の生活が——」


「セレナ様」


「——何?」


「私の選択を、決めないでください」


セレナが止まった。


「あなたが言っていることは正しいです。使えば削られる。使いすぎれば、死ぬかもしれない。全部、知っています」


「それを知っていて——」


「知っていて、それでも私が選びます。使う場面と、使わない場面を、自分で判断します」


「自分で判断できると思っているの? 二百年前の一族も、そう思っていたはずよ」


「違います」


「何が違うの」


「二百年前のリリアは——一人で全部やろうとした。戦況が悪化するたびに、自分だけが頑張ろうとした。私は違います」


「——何が違う」


「信じている人間がいます。今夜、中に残ってくれた人間がいます。ミオが、一緒にいてくれます。セドリック先生が研究してくれています。私は一人じゃない」


セレナが、黙った。


長い沈黙だった。


「——綺麗事ね」


「そうかもしれません。でも、私には本当のことです」


「信じている人間が裏切ったら?」


「その時は、その時に考えます」


「楽観的すぎる」


「悲観的でいるより、楽観的でいる方が、美味しいものが作れます」


セレナが、少しだけ——目を逸らした。


「——兄に会わせてあげたいわ、あなたを」


「お兄様に?」


「あなたの料理を食べさせてあげたい。動けないけれど——食べることはできるから」


「——いつか、させてください」


「条件があるわ」


「聞きます」


「——絶対に、使いすぎないこと」


「約束します」


「本当に?」


「——本当に」


セレナが、長い息を吐いた。


「——分かった」


周囲の人間に向けて、セレナが手を上げた。


包囲していた人影が、少し引いた。


「——今夜は、見逃すわ」


「ありがとうございます」


「ただし——魔法省の本隊が動いたら、私には止められない。早めに手を打って」


「分かりました」


「——一つだけ、最後に言わせて」


「はい」


「あなたの料理が、誰かを壊す日が来たら——その時は、私が止めに来る」


「その時は——一緒に止めてください。私一人では、止められないかもしれないから」


セレナが、初めて——本当に笑った。


「——変な人ね」


「よく言われます」


「——行きなさい。アルヴェルト様を迎えに行って」


「はい」


私はミオを連れて、走り始めた。


建物の裏口に向かった。


扉が開いていた。


中に入ると——


「——遅い」


アルヴェルトが立っていた。


左腕に、切り傷があった。外套が少し破れていた。


「——怪我!」


「浅い」


「浅くないです、見せてください」


「後でいい」


「今です」


「——お前が無事か確認する方が先だ」


「私は無事です。傷を見せてください」


「……」


アルヴェルトが腕を差し出した。


切り傷は、確かに浅かった。でも血が出ている。


私はエプロンの端を使って、押さえた。


「——痛みは?」


「ない」


「嘘です」


「——少しある」


「少しじゃないはずです」


「お前が心配するほどではない」


「私が心配するかどうかは、私が決めます」


アルヴェルトが、少しだけ息を吐いた。


「——ミオは」


「無事です」


ミオが、アルヴェルトの前に来た。


「——ご無事で、良かったです」


「俺の心配より、お前が無事で良かった」


ミオが、ぱっと泣きそうな顔になった。


「ぐるるっ!」


パフがポケットから顔を出した。


アルヴェルトが、パフを見た。


「——なぜいる」


「こっそり来ていました」


「……呆れた生き物だな」


「ぐっ!」


「セドリックに預けたはずだろう」


「「ぐるるっ!」」


「——返事をするな」


私は傷を押さえながら、少しだけ笑った。


ミオも笑った。


アルヴェルトが——口の端を、少しだけ動かした。


笑い、だった。


確かに、笑いだった。


「——帰るぞ」


「はい」


「今度こそ、俺の側から離れるな」


「離れません」


「絶対にだ」


「——分かっています」


夜の街道を、三人と一匹で歩き始めた。


星が多かった。


行きより、空が明るく見えた。


気のせいかもしれない。


でも——気のせいじゃない気がした。


シーン3:帰還と、嵐の予兆

城に戻ったのは、夜明け前だった。


レイガルが門で待っていた。


「——ご無事で」


「ああ」


「ミオ嬢も——良かった」


レイガルの目が、ミオを見た。


厳しい顔をしていつもいるレイガルが、この瞬間だけ——普通の顔をした。心配していた、という顔だった。


「——レイガルさん、ありがとうございます」


ミオが言った。


「礼は要らん。無事で良かった」


「……はい」


「さっさと休め。今夜は何もない」


「分かりました」


城の中に入った。


廊下がいつもより広く感じた。帰ってきた、という実感が、じわじわ来た。


「——リリア」


アルヴェルトが、廊下で止まった。


「はい」


「今夜のことを——感謝する」


「私こそ、ありがとうございました」


「俺はお前を助けに行ったつもりだったが」


「助けてもらいました」


「……セレナとの話は、俺が知らない間に解決していたな」


「あなたが中で時間を稼いでくれたから、話ができました」


「——つまり、俺も役に立ったか」


「十分すぎるほど」


アルヴェルトが、少しだけ——目を細めた。


「——腕の傷、明日、医療魔法師に診てもらいます」


「大げさだ」


「大げさじゃないです。感染したら大変です」


「——分かった」


「必ず」


「分かったと言っている」


「——念押しです」


「……お前は、心配性だな」


「料理人は、食材の状態に敏感なので」


「俺を食材扱いするな」


「たとえ話です」


「——おやすみ、リリア」


「おやすみなさい、アルヴェルト様」


アルヴェルトが自室に向かった。


その背中が、廊下の角を曲がって見えなくなった。


「——えへへ」


ミオが言った。


「何ですか」


「いい感じでした」


「疲れているでしょう、早く休んでください」


「リリア様こそ」


「はい、休みます」


「——本当に良かったです。帰れて」


「そうですね」


「もう攫われません。絶対に」


「——そのために、セドリック先生に新しいことをお願いしようと思っています」


「何を?」


「——明日、話します。今夜は休みます」


「はい!」


ミオが走っていった。


廊下に、私一人が残った。


「ぐる」


「お前も休みなさい」


「っぐ」


「セドリック先生に連絡しないといけないね。あなたが勝手に来たって」


「ぐっ!!」


「——シナモンクッキー、明日作ります」


「……ぐるる」


手のひらの上で、パフが丸まった。


城の廊下は、静かだった。


でも——静けさの奥に、何かが来る予感があった。


セレナが言っていた。


魔法省の本隊が動いたら、止められない、と。


今夜はセレナが止めてくれた。


でも次は——


「美味しいって言わせてみせる」


小さく呟いた。


どんな状況でも、これだけは変わらない。


誰かが美味しいと言ってくれる顔のために——作り続ける。


それが、私の答えだ。


部屋に戻った。


ベッドに倒れ込んだ。


パフが枕の横に来た。


目を閉じる前に、窓の外を見た。


夜明けが近かった。


空の端が、少しだけ明るくなっていた。


嵐の前の夜明けに見えた。


でも——明けない夜はない、と誰かが言っていた気がした。


二百年前のリリアが言ったのかもしれない。


「——おやすみ、パフ」


「ぐる……」


目を閉じた。


次に目が開く時——世界は変わっているかもしれない。


でも今夜は、全員が無事で、帰れた。


それだけで、十分だった。


シーン4:魔法省の本隊

三日後、それは来た。


朝の厨房で、パイ生地を伸ばしていた時だった。


城の外から、音がした。


馬の蹄の音。一頭じゃない。十頭、二十頭。


「——リリア様」


ミオが窓の外を見て、固まった。


私も見た。


城の正門に向かって、黒い外套の騎馬隊が進んでいた。


旗を立てている。


紋章が見えた。


王国魔法省の紋章だった。


「——来た」


「リリア様……」


「ミオ、道具を全部、棚の奥にしまってください。急いで」


「え?」


「見られたくないものは、隠しておく方がいい」


「分かりました!」


私はエプロンで手を拭いた。


パフが棚の上から、私を見ていた。


「ぐるるっ」


「分かってる」


包丁を棚に戻した。


一番大切な包丁を、布で包んで、最も奥の棚の、一番下の段に。


「——見つかりませんように」


呟いた。


廊下に出た。


城全体が緊張していた。衛兵が走っている。使用人が窓から外を見ている。


執務室に向かった。


扉を開けると、アルヴェルトとレイガルとオルダンが、すでに揃っていた。


「——来た」


アルヴェルトが言った。


「見ました。何名ですか」


「——三十名。魔法士が二十名、護衛騎士が十名」


「目的は」


「——リリア・エルフェンの身柄の確保、および能力の調査」


「正式な命令ですか」


「国王の署名付きの令状を持っている」


私は少しだけ、体が重くなるのを感じた。


国王の令状。


正式な命令だ。


「——断れますか」


「グランディアは独立した公爵家だ。王国の直接支配下にはない。だが——」


「だが、完全に無視もできない」


「政治的な問題になる」


レイガルが言った。


「旦那様、ここは一時的に協力する形を取って、時間を稼ぐのが——」


「協力しない」


アルヴェルトが言った。


「旦那様——」


「リリアは俺の婚約者だ。令状があっても、俺の許可なく連れていくことはできない。それが法だ」


「でも、魔法省が——」


「法の上に魔法省はない」


レイガルが黙った。


私はアルヴェルトを見た。


「——アルヴェルト様」


「何だ」


「もし——政治的な問題が大きくなりすぎたら、私は一時的に協力する形を受け入れます」


「受け入れない」


「でも——」


「受け入れない」


「なぜそこまで——」


「——お前を渡したら、二度と帰ってこない可能性がある」


廊下から音がした。


正門が開く音。


騎馬隊が中に入ってくる音。


「——交渉に出る」


アルヴェルトが扉に向かった。


「俺が話をつける間、お前は厨房にいろ。動くな」


「——分かりました」


「ミオも一緒に」


「はい」


「セドリックも呼べ。三人で厨房にいろ」


「分かりました」


アルヴェルトが出ていった。


レイガルとオルダンが後に続いた。


廊下に、私一人が残った。


城の外から、声がした。


複数の男の声。命令口調の、感情のない声。


私は厨房に戻った。


ミオが待っていた。


セドリックが来た。


「——聞きました! 魔法省が!」


「はい」


「どうするんですか」


「——アルヴェルト様が交渉してくださっています」


「うまくいけばいいですが——」


セドリックが眼鏡を外した。


「——正直に言いましょう。魔法省の本隊が動くということは、もう選択肢が少ないです。一番厳しい展開は——」


「交渉が決裂する」


「そうです。その場合、グランディアは政治的に孤立します。王国との関係が破綻する」


「私一人のために」


「あなただけの問題じゃないですが——あなたが引き金になることは、事実です」


ミオが私の袖を握った。


「——リリア様」


「大丈夫です」


「本当に?」


「本当に——かどうかは、分かりません。でも、今できることを考えます」


「今できることって——」


「料理です」


「え?」


「交渉が長引けば、昼になります。昼になれば、ご飯を作ります。たくさんの人間が城に来ているなら——全員分を作ります」


「魔法省の人にも?」


「敵かどうかは、まだ分かりません。ただ、腹が減っている人間がいるなら、作ります」


セドリックが、少しだけ笑った。


「——二百年前のリリアも、戦場で敵兵に料理を出したという記録があります」


「そうですか」


「食べた側も、困惑したと書かれていました」


「今日も、困惑させましょう」


「ぐるるっ」


パフが棚の上で鳴いた。


私は包丁を取り出した。


棚の奥に戻したばかりの、一番大切なものを。


布を解いた。


刃が光った。


指先に、電流。


今日は抑える。六割。いや五割。


でも確実に、丁寧に。


「——ミオ、玉ねぎを切ってください」


「はい!」


「セドリック先生、計測をお願いします」


「もちろんです!」


「ぐるる」


「——パフ、邪魔しないでください」


「っぐ」


厨房に、いつもの音が戻った。


包丁の音。野菜の香り。かまどの火の音。


外では交渉が続いている。


城が揺れている。


でも——厨房だけは、いつもと同じだった。


それが、今の私にできる唯一の抵抗だった。


シーン5:交渉決裂と、禁忌への選択

交渉は、四時間続いた。


昼過ぎ、アルヴェルトが戻ってきた。


顔を見た瞬間、分かった。


「——決裂しましたか」


「……ああ」


「どうなりますか」


「——明日の正午までに、リリア・エルフェンを魔法省の管理下に置く。それが最終通告だ」


ミオが息を呑んだ。


「——拒否したら?」


「グランディアへの魔法的経済制裁。および、王国との外交関係の停止」


「大きすぎる代償です」


「——そうだ」


「それでも、拒否しましたか」


「拒否した」


「……」


「お前を渡すつもりはない。それは変わらない」


私はアルヴェルトを見た。


この人が、国との関係を犠牲にしようとしている。


感情を排して育った人間が。合理主義者が。


「——それは、合理的ではないです」


「そうだな」


「グランディアへの影響が——」


「分かっている」


「では、なぜ」


「——お前を渡す方が、もっと間違っているからだ」


私は言葉が出なかった。


「合理的かどうかより、正しいかどうかで判断した。それだけだ」


「……」


「——文句はあるか」


「ないです」


「では、次の話をする」


アルヴェルトが地図を広げた。


「明日の正午まで、時間がある。その間に、可能な限り城の防衛を固める。魔法省の三十名に対して、こちらは騎士団が百二十名いる。数の上では有利だ」


「でも——魔法士が二十名います」


「魔法を打ち消す防壁を設置する。オルダンが手配している」


「費用は」


「今は関係ない」


「関係あります。あなたが背負う代償を——」


「——リリア」


「はい」


「今は戦略の話だ。感情の話は後でしろ」


「……分かりました」


「騎士団には、今夜の夕食を食べさせたい。お前の料理を」


「——全員分、作ります」


「無理はするな」


「今日は分散型のレシピで作ります。消耗を最小限にします」


「セドリックを一緒につけろ」


「はい」


「ミオも」


「もちろんです!」ミオが言った。


アルヴェルトが、地図から目を上げた。


「——一つだけ、確認する」


「はい」


「禁忌は、使うな」


「……」


「明日、何があっても——禁忌だけは、使うな」


「でも、もし——」


「使わなくても、俺たちは戦える」


「百二十名で三十名を」


「有利な数だ」


「魔法士二十名が——」


「対策を取る。それで十分だ」


「もし対策が崩れたら」


「——崩れないようにするのが、俺の仕事だ」


私はアルヴェルトを見た。


信じろ、と言われた。


昨夜も言われた。


信じた。


今夜も——信じる。


「——分かりました。禁忌は使いません」


「約束か」


「約束します」


「——よし」


「でも」


「まだあるのか」


「万が一の時の話をさせてください」


「——万が一とは」


「全部が崩れた時の話です。対策が崩れて、防衛が突破されて、ミオが危険になって、あなたが——」


「俺は死なない」


「でも、万が一の話です」


アルヴェルトが、少しだけ黙った。


「——聞こう」


「万が一の時、私は自分で判断します。あなたへの約束より、目の前の命を選ぶかもしれません。それだけは、前もって言っておきたかったです」


「——それは、禁忌を使うという意味か」


「万が一の話です」


「万が一にならないようにする」


「でも——」


「ならないようにする。それが俺の答えだ」


「……分かりました」


「——お前は心配性だ」


「料理人は、最悪の状況を想定して準備するんです」


「料理と戦争は、同じか」


「——材料と状況を見極めて、最善を尽くすところは、同じだと思います」


アルヴェルトが、少しだけ息を吐いた。


「——夕食、頼む」


「自分の意思で作ります」


「——分かっている」


「ありがとうございます」


「何の礼だ」


「——全部のことへの礼です」


アルヴェルトが、私を見た。


何か言いかけて、止めた。


それから、また言いかけて、また止めた。


「——後で、話したいことがある」


「はい」


「全部が片付いたら」


「分かりました」


「——必ず、片付ける」


「はい」


「俺は約束を守る」


「——知っています」


アルヴェルトが出ていった。


厨房に、三人と一匹が残った。


「ぐるるっ」


「うん、分かってる」


「リリア様——」


「ミオ」


「はい」


「今夜は、全力で作ります。百二十名分。最高のものを」


「はい!」


「セドリック先生、計測を」


「任せてください!」


「——行きましょう」


包丁を握った。


指先に、電流。


今夜は五割で抑える。


明日のために、力を残す。


でも今夜作るものは——最高でなければならない。


なぜなら、明日戦う人間たちが、今夜これを食べるから。


明日生きて帰るために、今夜これを食べるから。


「——美味しいって言わせてみせる」


厨房の火が、燃えた。


夜が始まった。


決戦の前夜が。

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