第5章:選ぶ覚悟
シーン1:朝の執務室と、本音の欠片
アルヴェルトの執務室で夜を明かした。
ソファを使っていいと言われたので、使った。ミオは私の足元で丸まって、本当に眠ってしまった。パフはミオのお腹の上に乗って、一緒に寝ていた。
私は眠れなかった。
天井を見ながら、セレナの言葉を反芻していた。
選択肢は、あなたが思っているより少ない。
それから、偽命令の話。城の中にまだ内通者がいる。厨房を封鎖しようとした。私を誰かのところへ連れていこうとした。
全部が繋がっている。
魔法省が、本格的に動き始めている。
「——眠れないのか」
書類を処理していたアルヴェルトが、言った。
窓の外が、白み始めていた。
「……考えていました」
「声に出すか」
「え?」
「声に出した方が、整理できる場合がある」
私はソファで体を起こした。
「——アルヴェルト様は、魔法省とどういう関係ですか」
「敵対はしていない。友好的でもない。中立だ」
「今後も、中立でいられますか」
「難しくなってきた」
「私のせいで」
「お前のせいではない。俺が連れてきた判断の結果だ」
「……後悔しますか」
アルヴェルトが書類を置いた。
こちらを向いた。
「——していない」
「なぜですか」
「お前は有用だからか、と聞きたいのか」
「——はい」
少し間があった。
「最初は、そうだった」
「今は」
「——今は、違う理由が混ざっている」
「どんな理由ですか」
アルヴェルトが、窓の外を見た。
夜明けの光が、少しずつ差し込んでいる。その光の中で、彼の横顔が、いつもより少しだけ年齢相応に見えた。
「——俺は感情を持たないように育った」
「……どういう意味ですか」
「グランディア公爵家の跡継ぎは、感情で判断を誤らないことが求められる。子供の頃から、喜びも悲しみも、なるべく消すように訓練された」
「それは——」
「合理的な判断をするためだ。有効な訓練だと、今でも思っている。でも——」
言葉が、止まった。
珍しかった。
この人が、言葉を探す場面を見たのは、初めてだった。
「——お前の料理を食べると、胸が温かくなると言っただろう」
「はい」
「あれが——何なのか、ずっと分からなかった」
「今は、分かりますか」
「……分からない。でも、消えてほしくないとは思う」
私はアルヴェルトを見た。
氷みたいな目が、今は少しだけ違う色をしていた。
「——それは、料理の効果じゃないですか」
「そうかもしれない」
「だとしたら、本当の気持ちじゃない可能性があります」
「——分かっている」
「それでも」
「分かっていても——消えてほしくないと思う気持ちは、本物だ」
静寂。
ミオが寝息を立てている。パフがぐるぐる言っている。
夜明けの光が、部屋の中に入ってきた。
「……ありがとうございます」
「何の礼だ」
「正直に話してくれたので」
「——お前が聞いたからだ」
「普段は話さないんですか」
「話す相手がいなかった」
私は少しだけ、胸が痛くなった。
二十二歳で、感情を消すように育てられて、話す相手がいなかった人間が——料理の温かさを「消えてほしくない」と言っている。
それが料理の効果だとしても、効果がなかったとしても——
この人の中に、何かが生まれている。
「——リリア」
「はい」
「昨夜の件で、俺はお前を危険に晒した。もっと早く、城内の把握をすべきだった」
「でも助けてくれました」
「間に合ったから良かっただけだ」
「間に合う人間がいることが、大事なんです」
アルヴェルトが、私を見た。
「——お前は怒らないのか」
「怒っています。でも怒る相手が、あなたじゃないので」
「誰に怒っている」
「状況に、です。こういう状況を作った仕組みに。私の力を危険だと言いながら兵器として使おうとする人間に」
「——そうだな」
「セレナ様のことも——怒ってはいないです。悲しいと思っています」
「悲しい?」
「お兄様のことで、あれほど傷ついているのに——その痛みが、私を排除しようとする方向にしか向かないことが、悲しい」
アルヴェルトが少しだけ、目を細めた。
「——お前は、セレナに同情しているのか」
「同情とも違います。ただ——同じ痛みを持つ人間が、敵になるのは——無駄だと思います」
「無駄、か」
「あなたの言葉を借りました」
アルヴェルトが、口の端を微かに動かした。
笑った、と言っていいかどうか分からない変化だった。でも確かに、何かが緩んだ。
「——スープを作ってくれるか」
「今からですか」
「昨夜、結局食べそびれた」
「——具が多いやつですね」
「そうだ」
「分かりました」
私はソファから立ち上がった。
ミオを起こさないように、静かに動いた。
パフがぱちっと目を開けて、私についてきた。
執務室を出る前に、振り返った。
アルヴェルトが書類に戻っていた。
でもその肩が、昨夜より少しだけ——下がっている。緊張が解れている、という意味で。
「——アルヴェルト様」
「何だ」
「今日は、一つ相談があります。スープを持ってきた時に、聞いてください」
「分かった」
廊下に出た。
夜明けの空気が、清潔だった。
パフが足元を歩いている。小さな爪の音が、石畳に響く。
今日、相談することがある。
ミオを守るための作戦。そして——もし、もっと状況が悪化したとき、私がどう動くべきかの話。
守られながら、自分でも動く。
それが、二百年前の私との違いにする、と決めた。
言葉を、行動にする日が——近づいている気がした。
シーン2:「利用するな」という言葉
スープを持ってアルヴェルトの執務室に戻ると、ミオが起きていた。
目が赤い。
泣いていた、というより——泣くのを我慢した後の目だ。
「ミオ」
「——リリア様、おはようございます」
「おはよう。どうしたんですか」
「なんでもないです」
「なんでもない顔じゃないです」
ミオが膝の上でエプロンを握った。
しばらく黙っていた。
「——昨夜、怖かったです。後から、じわじわ来ました」
「そうですね。私もです」
「でもリリア様は、全然怖くなさそうで」
「怖かったです。ただ、後回しにしていただけで」
「後回しに、できるんですか」
「慣れると、できるようになります」
「慣れたくないです」
「——そうですね。慣れなくていいです」
ミオが顔を上げた。
「リリア様は、これからも危ない目に遭いますか」
「——分かりません。でも、遭わないようにしたいとは思っています」
「私も守ります」
「ミオに守ってもらうんですか」
「笑わないでください。私にも、できることがあるはずです」
私は笑っていなかった。
ミオの目が、真っ直ぐだった。
「——ありがとうございます」
「お礼はいいです。それより、スープ運んできたんですか」
「はい。アルヴェルト様に」
「私の分もありますか」
「もちろん」
ミオが、少しだけ表情を緩めた。
スープをテーブルに置いた。
アルヴェルトが書類を端に寄せた。
三人で座った。ミオが「いただきます」と言った。パフが机の端で待機している。
スープを一口。
アルヴェルトが目を閉じた。
一秒。
それから開いた。
「——今日は、何を入れた」
「根野菜と鶏肉。それから、少しだけジンジャーを加えました。体を温めるために」
「体への配慮か」
「昨夜、冷えたと思ったので」
「……」
アルヴェルトが、スープを続けて飲んだ。
今日は限界突破させていない。普通のスープだ。ただ温かくて、体に優しいだけの。
それでも、彼は飲み続けた。
「——相談とは何だ」
「ミオについてです」
ミオが顔を上げた。
「今の状況では、ミオも標的になる可能性があります。私の一番近くにいる人間として」
「——対策を取る。部屋の護衛を増やす」
「それだけでは不安です」
「では何が必要だ」
「ミオを、城の外に出す選択肢はありますか」
「え——」
ミオが声を上げた。
「安全な場所に、一時的に移動させることを考えています。私のそばにいることで、危険に晒すより——」
「嫌です」
ミオが、はっきり言った。
「ミオ——」
「嫌です。行きません」
「でも、昨夜みたいなことが——」
「だから、ついています」
「ミオが怪我をしたら」
「リリア様が怪我をしたら?」
「私は——」
「私だって同じです」
ミオが、立ち上がった。
テーブルに両手をついて、私をまっすぐ見た。
「リリア様はいつも、私を守ろうとします。でも——私が守りたいって思ったら、駄目ですか」
「駄目じゃないけど——」
「リリア様が大切だから、ついていたいんです。送り出したくないんです。それって、だめですか」
私は言葉が出なかった。
ミオが、続けた。
「貧民街にいた頃、私には何もなかったです。お金も、才能も、魔法も。だけど——料理を覚えて、リリア様に会って、初めて、自分が役に立てると思えた。その場所を、捨てたくないです」
「……」
「お願いします。一緒にいさせてください」
アルヴェルトが、静かに言った。
「——護衛を専属でつける。ミオには常に一人、剣士を同行させる。それで、どうだ」
ミオが、アルヴェルトを見た。
「……ありがとうございます」
「礼はいい。リリアへの返答だ」
私はミオを見た。
泣きそうな顔で、でも目だけは笑っていた。
「——分かりました。一緒にいてください」
「はい!」
「でも、無茶はしないでください」
「リリア様には言われたくないです」
「ぐるるっ」
パフが同意した。
三人——と一匹で、少しだけ笑った。
その笑いがおさまった頃、アルヴェルトが言った。
「——リリア、もう一つ確認する」
「はい」
「お前は今後、料理による能力強化を続けるつもりか」
「……条件付きで、はいです」
「条件とは」
「自分が安全に扱える範囲でのみ、使います。北砦のような状態は、避けます」
「北砦の状態とは」
「材料が乏しい時に強い料理を作ると、私自身から消耗します。それを繰り返すと——体が持ちません」
アルヴェルトの目が、わずかに変わった。
「——それを、なぜ今まで言わなかった」
「言えるタイミングがなかった。それと——」
「それと?」
「あなたが、私を必要としている理由が、料理の力だけだった頃は——言えなかったです」
沈黙。
長い沈黙だった。
アルヴェルトが、スープのカップを置いた。
「——それは、俺への批判か」
「事実の確認です」
「俺はお前を、利用していた」
「最初は、そうだったと思います」
「——今も、かもしれない」
「今は、違うと感じています」
「なぜそう思う」
「胸が温かくなる話を、してくれたので」
アルヴェルトが、少しだけ視線を逸らした。
珍しい。
この人が、視線を逸らす場面を見たのは初めてだった。
「——俺は、お前を利用するつもりはない」
「分かっています」
「でも——結果として、そうなっていた可能性は否定できない」
「そうですね」
「……すまなかった」
「謝罪は——」
「受け取れ」
強い声だった。
命令、じゃない。でも命令に近い強さだった。
「……受け取ります」
「——今後は、お前の負担になることは強いない。料理は、お前の意思でする」
「ありがとうございます」
「俺への分は、作ってくれるか」
「——自分の意思で、作ります」
アルヴェルトが、頷いた。
それで十分だった。
ミオが「えへへ」と言った。
「何がおかしいんですか」
「なんか、いい感じだなと思って」
「……余計なことを言わないでください」
「ぐるるっ」
パフが全力で同意した。
シーン3:新レシピと、副作用の発覚
その午後、セドリックが厨房に来た。
「昨夜の件は聞きました! 大丈夫でしたか!」
「大丈夫です」
「良かった……! ところで——研究が進みまして」
「何が分かりましたか」
「術者への負担を軽減できる可能性のある材料の組み合わせが、文献から二パターン見つかりました!」
セドリックがメモを広げた。
「一つ目は、高山産のバルム草を基底材料として使う方法。これが術者の消耗を吸収するクッション効果を持つ可能性があります」
「バルム草は、ここで手に入りますか」
「手配しました! 明後日届きます!」
「二つ目は」
「食材を複数に分散させる方法です。一種類の食材に全ての魔力を集中させるより、複数に分散させた方が、一か所への負荷が下がる可能性があります」
「それは——少し試したことがあります」
「本当ですか!」
「無意識に、やっていたかもしれないです。複数の食材を組み合わせた料理の方が、体への負担が少ない感覚がありました」
「仮説と一致します! 素晴らしい!」
セドリックが激しくメモを取った。
「ただ——」
「ただ?」
「分散させると、効果も分散する可能性があります。一食で複数の能力を引き出せるかもしれないが、それぞれの強度は落ちる」
「そうですね。トレードオフです」
「でも、代償が軽くなるなら、その方が——」
「はい。長く使えます」
私は棚を見た。
今日の材料を確認する。
「試作してみます。セドリック先生、計測をお願いできますか」
「もちろんです! 発光石を——」
「ぐるるっ」
パフが棚の上から、セドリックの手元を見ていた。
「あっ、ハリネズミさん! 今日は棘を立てていない! 慣れてきた!」
「ぐっ」
「まだ警戒してるのに、今日の方が棘が少ないです!」
「……先生、計測をお願いします」
「あっ、はい!」
試作を始めた。
材料は六種類。根菜、葉野菜、豆類、鶏肉、二種類の穀物。全部を組み合わせた、複雑なシチューだ。
包丁を握った瞬間——電流の感覚が来た。
でも今日は違う。
意識的に、流れを細くする。川の幅を狭くするイメージで。全開にしない。七割、いや六割のつもりで。
「——おっ!」
セドリックの石が光った。
「いつもより——発光が柔らかいです! 抑えていますか?」
「はい、意識的に」
「制御できているんですか! 素晴らしい!」
「まだ不安定です。集中しないとすぐ流れが変わります」
「それでも大進歩です!」
ミオが野菜を刻みながら、横目で見ている。
「リリア様、顔色はどうですか」
「——今のところ、大丈夫です」
「手は」
「震えていないです」
「良かった……」
料理を続けた。
全部の食材に、均等に。集中させすぎない。分散させる。
ゆっくり、丁寧に。
三十分後、シチューが完成した。
石が光った。でもいつもより柔らかい光だった。
「試食、していいですか」
「もちろん!」
セドリックが一口食べた。
「——うーん」
「どうですか」
「効果は、あります。体が温かくなります。思考も少し速くなる感じがします。ただ——」
「強度が落ちている」
「はい。いつもより、力が引き出される感覚が弱い。でも——」
セドリックが手を見た。
「十分後に教えてください。いつも通り三時間後に落ちるかどうか、確認したいので」
「分かりました」
私は自分の体を確認した。
手が震えていない。体の奥の欠けた感覚がない。
でも——疲れている感覚は、ゼロじゃない。
「ミオ、今の私の顔色は」
「——普通より少し悪いです。でも、北砦の時よりずっとマシです」
「そうですか」
「リリア様、一つ聞いていいですか」
「はい」
「この方法で作れば、もっとたくさん作っても、大丈夫になりますか」
「——なるかもしれません。でも試してみないと分からないです」
「試すって——どうやって」
「量を増やしながら、体の状態を記録します。どこまでが安全な範囲か、データを取ります」
「……危なくないですか」
「危なくならないように、少しずつです」
ミオが、唇を噛んだ。
「セドリック先生が一緒にいてくれますか」
「もちろん! 全力でデータを取ります!」
「分かりました。では——」
扉が開いた。
衛兵だった。
「リリア様、アルヴェルト様がお呼びです。至急とのことです」
「分かりました」
セドリックを見た。
「先生、十分後の状態を記録しておいてください」
「任せてください!」
厨房を出た。
廊下を歩きながら、体の内側を確認した。
疲れは、ある。
でも今日は——消えた感覚がない。
欠けた感じがない。
「ぐる」
「うん」
小さな進歩だった。
でも進歩は、進歩だ。
シーン4:葛藤と、潜入計画
執務室に入ると、アルヴェルトとレイガルが地図の前にいた。
それから——セドリックが話したことで、私は昨夜一番恐れていた展開が現実になったことを知った。
「——ミオが、いない」
「え」
「護衛が一瞬、目を離した隙に——姿が消えた」
私の体が、固まった。
「どのくらい前ですか」
「三十分前だ。城内を全員で探したが、見つからない」
「城外に出た可能性は」
「——ある」
レイガルが地図を指した。
「南の搬入口から、不審な馬車が出たという報告がある。時刻が一致する」
「セレナ様の関係者ですか」
「——それは、まだ分からない」
私は地図を見た。
南の搬入口から出た馬車が向かう先。街道が一本。分岐が三つ。その先に——
「王国側の施設がありますか」
「——一つある。国境近くの研究施設だ。表向きは魔法道具の製造工房になっているが、実態は魔法省の秘密拠点だという情報がある」
「距離は」
「馬車で、四時間」
「今から追えますか」
「——追う準備はできる。だが、向こうも警戒している」
「正面から行っても、ミオを返してもらえない」
「……そうだ」
私は地図を見続けた。
頭の中で、計算する。
「——潜入できますか」
レイガルが眉を上げた。
「令嬢が潜入、ですか」
「私が行かないといけない理由があります」
「どんな理由ですか」
「向こうが欲しいのは私の料理です。私が行けば、交渉の余地があります」
「交渉? 向こうはあなたを拘束しようとしているんですよ」
「拘束されるつもりはないです」
「——理想論では」
「レイガルさん」
「はい」
「あなたは北砦で、私の料理を食べましたね」
「……食べました」
「あの時、体がどうなりましたか」
レイガルが、少し黙った。
「——動けると、思いました。それまで、疲れていたのが、消えた感じがした」
「私の料理は、食べた人に力を与えます。その力を使える状態の人間が、いれば——正面から行かなくても、道は作れます」
「それは——」
「私が作れる料理の話をしています。戦略として、使えるかどうかを聞いています」
アルヴェルトが言った。
「——俺が行く。お前は後方だ」
「私も行きます」
「危険だ」
「ミオを連れ去られたのは、私のせいです」
「——違う」
「違わないです」
「リリア——」
「私のために、ミオはここに残った。私と一緒にいたくて、安全な場所に行くことを断った。その結果として、こうなった」
アルヴェルトが黙った。
「だから、私が行きます」
「——お前が行って、捕まったら」
「捕まらないように、一緒に考えてください」
「リリア」
「お願いします」
アルヴェルトが、地図を見た。
長い沈黙だった。
「——レイガル」
「はい」
「潜入ルートを調べろ。二手に分ける。俺とリリアが中、お前が外で支援だ」
「——承知しました」
私はアルヴェルトを見た。
「ありがとうございます」
「礼を言うのは、帰ってからだ」
「——はい」
「それと」
「何ですか」
「絶対に、俺の側から離れるな」
「分かりました」
「命令だ」
「分かっています」
「——もう一度言う。絶対に、離れるな」
私は頷いた。
今度は、言い返さなかった。
この人が「絶対に」という言葉を二回繰り返したのは——初めてだった。
それが何を意味するか、今の私には分かる。
「ぐるるっ」
袖の中でパフが鳴いた。
「あんたは残ります」
「っぐ!」
「——セドリック先生に預けます。いい子にしていて」
「ぐ……っ」
パフが棘を半分立てた。
不満そうだった。
でも、今夜行く場所に、パフは連れていけない。
「帰ったら、シナモン入りのクッキーを作ります」
「ぐるっ」
棘が、全部引っ込んだ。
単純な生き物だ、とは思わなかった。
ちゃんと帰る、という約束だから——受け入れてくれたんだと思った。
シーン5:決戦前夜の厨房
出発は深夜零時だった。
それまでの時間、私は厨房にいた。
一人で。
ミオがいない厨房は、静かだった。いつもミオの動く音と、「すごいです!」という声があって——その音がないと、こんなに広く感じるのか、と思った。
包丁を取った。
指先に、電流。
今夜のために、作るものがある。
セドリックが開発した分散型のレシピを使う。でも少しだけ、強くする。今夜は戦場に近い状況になるかもしれない。アルヴェルトと、護衛の騎士数名が食べる分。
体への負担を最小限にしながら、最大限の効果を引き出す。
そのバランスを、今夜初めて、本番で試す。
「——一人か」
扉から声がした。
アルヴェルトだった。
「はい」
「何を作っている」
「今夜の準備です。出発前に、食べていってください」
「俺のためにか」
「あなたと、護衛の方たちのために」
アルヴェルトが中に入ってきた。
椅子に座らず、調理台の横に立った。
「——見ていていいか」
「どうぞ」
「邪魔はしない」
「分かっています」
料理を続けた。
今夜は、温かいパイ包みにする。肉と野菜を詰めて、外側を薄い生地で包む。携帯しやすくて、体が温まる。戦場で食べるには向いた形だ。
「——お前は、怖くないのか」
「怖いです」
「声が、怖そうじゃない」
「料理中は、別のスイッチが入ります」
「戦場の指揮官の顔、と言っただろう」
「そうですか」
「今もその顔だ」
私は手を動かしながら、答えた。
「——料理をしていると、余計なことを考えなくなります。目の前の食材だけを考えます。熱の入り方、味の重なり方、完成した時の姿。それだけに集中すると、怖さが後ろに下がります」
「それは——強さか、逃げか」
「どっちでもないと思います。ただ、今できることをしているだけです」
「……今できることを、するだけ」
「はい」
「——それが、お前の戦い方か」
「そうかもしれません」
アルヴェルトが、調理台を見た。
生地を伸ばす私の手を、見ていた。
「——お前の手を、初めてちゃんと見た気がする」
「え?」
「傷が多い。指先に、小さな切り傷が何本もある」
「包丁を使いますから」
「痛くなかったのか」
「慣れると、傷が浅くなります。技術が上がると、切らなくなります」
「今は」
「今は、ほとんど切らないです」
「——昔は、たくさん切ったのか」
「最初の頃は、毎日のように。でも、その傷が、うまくなった証明でもあります」
アルヴェルトが、少しだけ黙った。
「——俺の手にも傷がある」
「剣の傷ですか」
「そうだ。訓練で、実戦で。最初は痛かったが、今は感覚が変わっている」
「慣れた傷は、部分的に誇りになりますよね」
「——そういう言い方は、したことがなかった」
「違いましたか」
「……いや、正しい」
生地を型に敷いた。
具材を詰めた。
上蓋をかぶせた。
かまどに入れた。
焼き上がりの匂いが広がるまで、二人は黙っていた。
静かな沈黙だった。
不快じゃない。むしろ——この静けさの中にいることが、今夜だけは、怖さを和らげてくれた。
「——リリア」
「はい」
「今夜、お前に一つ頼みたいことがある」
「何ですか」
「どんな状況になっても、自分を捨てるな」
「……自分を、捨てる?」
「禁忌の料理の話を、セドリックから聞いた。使いすぎれば、お前の体が削られる。だから——どんなに状況が悪くても、お前自身を犠牲にするような料理は、作るな」
「でも、ミオが——」
「ミオを助けたいなら——生きて戻れる選択をしろ。死んだお前では、誰も助けられない」
私は手を止めた。
かまどの中でパイが焼けている。
じっくりと、確実に、火が通っている音がする。
「——約束できるか」
「……難しいです」
「何故だ」
「状況によっては——ミオが目の前で危険な状態になったら、私は禁忌を使うかもしれない。それを約束できないです」
「——正直だな」
「嘘をついても意味がないので」
「では、こうしよう」
アルヴェルトが言った。
「禁忌を使いたくなる状況になる前に、俺が何とかする。だから——最後の手段まで、俺を信じろ」
私はアルヴェルトを見た。
氷みたいな目が、今夜はまた違う色をしていた。
「——信じていいですか」
「俺はお前に、一度も嘘をついていない」
「……そうですね」
「だから、信じろ」
かまどからパイの匂いが溢れた。
焼き上がりの、温かい匂い。
「——分かりました」
「約束か」
「……約束します。でも——あなたも約束してください」
「何を」
「絶対に、帰ってきてください」
アルヴェルトが、少しだけ止まった。
「——当然だ」
「言葉にしてください」
「……帰る。約束する」
「ありがとうございます」
私はかまどからパイを取り出した。
熱が手に伝わった。
六つのパイが、整列した。
「——美味しそうだ」
「食べてください。出発前に」
アルヴェルトが、一つ手に取った。
一口。
「——っ」
「どうですか」
「……体が、動く」
「今夜のは、少し強めにしました。でも消耗は最小限にしたつもりです」
「お前の消耗は」
私は自分の手を確認した。
震えていない。体の奥の欠けた感覚も——ない。
「大丈夫です。今夜の分は、自分を削っていないです」
「——本当に大丈夫か」
「本当に」
アルヴェルトが、パイを持ったまま私を見た。
「——美味い」
「ありがとうございます」
「……お前に言わされた気がするが」
「なぜですか」
「こういうことを、自然に言えるようになっていた」
「それは——いいことだと思います」
「そうか」
「感情を消さないで済む場所が、あっていいと思います」
アルヴェルトが、また黙った。
でもその沈黙は、今夜一番、柔らかかった。
「——行くぞ」
「はい」
「残りのパイを、護衛に配れ」
「分かりました」
厨房の灯りを消した。
最後にもう一度、厨房を見た。
ミオがいない。パフもいない。
でも——ここに戻ってくる。
必ず。
「美味しいって言わせてみせる」
小さく呟いて、扉を閉めた。
夜が、深かった。
でも前に進む足が、震えていないことだけは——確かだった。




