3 ラース、修練する――【百年前】
グーは、そこらにあった瓶へ邪神をそのまま突っ込んだらしい。実に大雑把な仕事ぶりだ。
しかし、そもそも邪神を持ち歩くなど聞いたことがない。邪神は土地に根付き、その場から離れることはないはずだ。
「キュウ(どうやってこんなことを)」
「こやつは渾身の力を込めておぬしを呪ったんじゃ。おぬしに憑りついて回復を待つつもりだったのじゃろう。ところが肝心の呪いを捻じ曲げられたせいで、邪神の方も身動きとれんようになっておった」
グーは言葉を濁したが、ひょっとするとラースもまた、かなり危険な状態にあったのかもしれない。
「そこで、ぷちっとひねり取って瓶の中へ封じ込めたんじゃ」
胸を張って見せるグーを見ていたら、そのあたりのことは、あまり深く考える気にもならなかった。
不安があるとしたら、邪神の欠片が身の内に残ったかもしれないというところだが、ラースはすでに呪われている。だからこそ、グーも問題にしなかったのだろう。
視線を瓶の中の邪神に戻す。小さくなっても黒炎の禍々しさは衰えを失わない。確かに、こんなものを城に置いておくわけにはいかない。
「クゥ……(封印を、グーに頼り切りというのも危険だな)」
「そうじゃなあ。まあその辺は、追々良い案でも浮かぶじゃろう」
グーはあくまでのんきだった。
現状を把握したことで、ラースも自分のするべきことが分かった。
「キュル(すこし外へ出てくる)」
「そうか」
グーは軽く頷いて机に向かった。彼は彼で魔導書を紐解いてなにか研究をするのだろう。
部屋を出るときラースは一度だけ振り向いた。グーはもう集中に入っていて、普段の温厚さが嘘のような、鋭いまなざしで何事か小さく呟いていた。
ラースがぽてぽて屋敷の裏手に行くと、掃除をしていた下男が追い立てるように箒を振りかざした。
用はないので素通りし、山裾の森へ向かう。
邪魔の入らない手ごろな場所を探すうち、気づけばまたうっとりと草を食べている。
……目的を忘れるところだった。
森には魔獣がいるといわれているが、今のところ気配はない。小鳥の鳴きかわす声がのどかだった。
水の匂いのする方へしばらく歩くと、人間なら一跨ぎできるほどの小川を見つけた。ラースは手ごろな岩の上に四本の足ですっくと立ち、次に、どうするべきか迷ってしまった。
ラースは今、マナの巡りがどうにも悪いように感じている。
カピバラの姿でもマナを体中に行きわたらせるため、まずは調息をしようと思ったのだが……。
調息するためには正しい姿勢が大事だ。しかし、カピバラの正しい姿勢とは?
よく分からなかったので、ラースは自らを観察してみた。
水かきがあった。前脚の指は四本なのに、後ろ足の指は三本だ。人間は五本ずつだから、少し妙な気分になる。
体つきはネズミというより豚のようなずんぐりした形で、しっぽがない。体毛は長くて硬い。目鼻や耳が、顔の上部についていて、鼻と耳が閉じられる。潜水するのに適した形だ。
目の前の小川が魅力的に感じるのはそのせいか。
潜ってみるには少し浅いし、足など組みようがなかったので、ひとまずその場にぺたりと座り、ラースはまず息を吐き切った。
丹田を意識しながらゆっくりと呼吸を整えていくうちに、マナが体内を巡る。そのはずだったのだが、一巡りもしないうちにマナが霧散してしまった。
まるで修行したての子供のころに戻ったようだ。
勝手がわかるまで、何度でもやり直すしかない。
ラースは息を吸いなおし、またマナを巡らせる。何度失敗しても諦めることはなかった。
夕日がゆっくりと沈み、あたりが真っ暗になっても続け、朝日が顔を出すとようやくラースは顔を上げた。
屋敷の裏側へ戻ってきたとき、ちょうど彼らの朝食の時間だったのか、調理場から世話係たちの話し声が窓から漏れ聞こえた。
立ち聞きするつもりはなかったが、マナの流れを整えたラースの耳は研ぎ澄まされていて、聞きたくなくても入ってくる。
「ったく、こんなはずじゃなかったのによ」
「ホント、何が王子よ。化け物じゃない」
「そんな怖がる必要あるか? 邪神と戦ったとか言ってるが、それも怪しいぞ。大魔法使いの後ろに隠れてただけなんじゃないのか。俺が箒を振りかざしたら、あの王子、怯えて逃げて行ったよ」
彼らの笑い声が無遠慮に響き渡った。
世話係として使わされた者たちが不満をため込むのは仕方ない。
舌打ちされるのも、邪気払いの仕草をされるのも。
だが――。
ラースは自室の惨状を見て目を細めた。
昨日投げつけられた料理は誰も片付けなかったようだ。床でそのまま、悪臭を放ち始めている。
彼らはどうやら、まともに仕事をする気がないようだ。
ラースは魔法で炎を出して、敷物ごと焼き尽くした。床も少々焦げたが、そのままにしておくよりはマシだ。
それに彼らはおそらく、ラースを監視する命を受けているのではなかろうか。ラースがここから逃げ出したりしないように。
それが、一晩出かけていても気づきもしない。
「グッググ……(あやつら、邪魔だな)」