86、グランベル戦記(4)
一般平民のヨルコが皇帝の意思で宰相に登用されたとき、多くの臣下は疑念を隠せなかった。何故この時期に出自の確かでない、しかも女のヨルコが選ばれるのか。
当時グランベルは北の大国、代々神の血を受け継ぐ王家によって統治されているといわれるロードエリア王国の脅威に晒されていた。さらに東にセントレイ聖教国、西にセレーネ都市同盟と三方を敵に囲まれ、いつ戦争が起きてもおかしくない状況だった。そんな折に不審な国事行為。誰もがヨルコを認めなかった。皇帝を疑う者も多かった。素性の知れない女に何ができる。ヨルコは宰相の座に着くと国政には構わずに城の一室に閉じこもった。それ見たことかと臣下たちは口々に言った。しかし数日後、ヨルコは部屋から出てきた。手には小瓶に入った薬のようなものと、書簡を持っていた。そして、これを直ちにロードエリアの王の元へ届けるようにと間者に伝えた。ロードエリアは強国だが、衛生面で問題があり、国内で感染症が蔓延していた。原因は不衛生な飲み水によるものだった。ヨルコは短期間で抗生物質を開発し、薬と共にその精製法を伝えたのだった。まさか敵対国からこのような処遇が施されるとは思ってもみなかったロードエリア国王は涙を流して喜んだという。国王の娘である王女も感染症に冒されていたからだ。ロードエリアでは至急、薬が量産され、国王は次のような文書をグランベルに送った。
「貴国の温情に感嘆を禁じえない。我が国は後世に渡るまで、貴国と友好を携えたいと願う」。
これによりグランベルとロードエリアは有史以来、初めての同盟国となり、グランベルはロードエリアという強力な後ろ盾を得ることになった。この噂は両隣の各国にも伝わり、グランベルに聖王ありと言われるようになった。各国は軍備を格段に縮小し、ロードエリアはヨルコの助言通り、水道設備に投資できるようになった。
「つまり、どういうことかわかりますか? 我々兵士はそれまで安心して眠ることもできなかった。そんな中、ヨルコ様はたった一通の書簡で、たった一人の力で大陸の平和を勝ち取ったのです。我々兵士全員を救って下さったのです」
寝室の薄明かりの中でクライスはそう語った。
「そんな事情があったんだね」
「確かに、あの人は医者のようだしな」
アクセルとルインが感心する。ハルカも黙って聞いている。
「それだけではありません。ヨルコ様は文民ですが、グランベル軍の軍団長も兼務していました。我々の直接の上官でもあったのです」
「戦いもやるのか?」
「フォークで防いだ姿は確かに凄かったね」
「ヨルコ様が来てから我々は剣を捨て、この黒檀が標準装備になりました。技の真髄は心。ヨルコ様はそう言って、我々に教えて下さいました。羅気という概念を」
「羅気?」
「はい。大切なものを守るとき、人は真の力を発揮すると。大事なものがあって、それを思うとき、体にみなぎる力のことです」
「そんなものがあるのか?」
「あります。多くのものは家族や愛するものがそうなりますが、我々兵士にとってはヨルコ様自身がその存在になります。ヨルコ様はおっしゃいました。斬り合いは、誰だって怖い。私たちが普段心の底で抱えているものをはっきり言って下さいました。刃物は怖い。黒檀を持ち、ヨルコ様は全てを救って下さった。そう思ったとき羅気が湧き、初めて放てる技を羅閃といいます。あの酒場で私とヨルコ様が見せた動きです」
「踏み込みが目で追えなかったな。人間にしてはちょっと信じ難い動きだった」
「目を閉じて大事な人を思い浮かべると、可能になります。自分は例え死んでも構わないと」
「そんな力が兵士全員に宿ったら脅威だな」
「そうですね。黒檀を持った我々グランベル軍は今では大陸最強でしょう」
「それで、何でそんな凄い宰相様があんな場末の酒場にいたんだ?」
「ルカーサに陥れられたからです。現在の宰相です。元々臣下の一人でした。ヨルコ様の一番痛いところを突かれました」
「痛いところ?」
「それについてはまた追々話しましょう。また明日もたくさん歩かなくてはなりません」
そう言うと明かりを消した。
小さな願いが聞こえる。
来てはいけない――。
たくさんの命が消えていく。
繋いだ手が離れていく。
誰もが願う、その命が消えないために。
グランベルは誰も望まない、深い悲しみへと飲み込まれていくのだった。




