80、遠い記憶
帰り道。大通りを宿舎に向けて歩いていく。
途中で猿田から利き腕に関しての話を聞いた。
「右と左では左の方が集中力は高めやすい。だから両方を利き腕にして殺しは左で行うという冒険者も中にはいる」
「左の方が精度は上」
「だが右は集中力が散漫になる分、生かす殺しというものができる」
「生かす殺し?」
「説明より見せた方が早いだろう」
そう言うと猿田は俺の前に立ち、右手を振り上げた。
バチイン
そのまま思い切り俺の頬を張った。
ビンタだ。
「どうだ」
「……痛くない」
「本当か? すごい音がしたぞ」
信じられないというようにノエルが言う。
しかし、本当に痛くなかった。
「紫電の応用だ。これができるようになると苦しませずに獲物を葬ることもできる」
「苦しませずに……」
「お前も工夫すれば辿り着ける境地だろう。しかし、お前はこれを放つ側ではなく、受ける側だと俺は考える。いつかこの意味がわかるときも来るだろう」
俺は抜庭だ。おそらくそのためだろう。
子どもの頃、風呂場が辛かった。一人で長屋の風呂に入る度にあの儀式が行われた。深い渦に飲み込まれそうになる。そこから這い出ると今度は無限の空間が広がっている。死と生の妄想だ。逃げ場はなかった。親がいない。金もない、食い物もない。温かい湯船に浸かったことは一度もなかった。湯が使えないからそれだけでも冬場の風呂は辛かった。しかしそれ以上に辛かったのがその儀式だった。儀式の最中にどこにもいけなくなり、暗い闇の中に押しつぶされそうになったこともある。
それに比べて今はどうだろうか。悪魔が襲ってくる。死の危険はなかったから昔の方がよかったかもしれない。
急に苦しみが込み上げてきた。俺は何なのだろうか。猿田もノエルも口には出さないが苦しいのだろう。
宿舎前の一本道を歩いていく。
「……相葉」
猿田が立ち止まってこちらを振り向いた。
俺の気配から何かを感じたようだ。
辺りが静かになった。
「苦しみは、秩序だ」
真っ直ぐ俺を見ながら言った。
「俺も色んなことがあった。最後に辿り着いた俺なりの回答だ」
猿田の眼差しにかかる前髪が秋風に揺れる。
並木がひっそりと俺たちを見下ろしていた。
ノエルが隣で薄く笑っている。
苦しい。
それを見て周りの人間も心を打たれる。
それは人間の持つ悪意とは正反対の感情だ。
橙色の街灯がぼんやりと見える。
一年後、三人でまた同じようにここで向かい合う。
そんな簡単な未来はどんなに望んでも見えることはなかった。




