72、覚悟
ここのところはよく散歩をしている。日が暮れるくらいになると外に出る。散歩は大通りではなく、宿舎の裏の方へ行っている。裏には山があり、それを迂回するかたちで団地がある。所々に商店もある。大通りとは違い、哀愁のようなものがある。懐かしさを感じさせるような街並みだった。その途中にある自動販売機でコーヒーを買って帰ってくるというのが日課になっていた。日が暮れて暗くなる頃に部屋に戻ってくる。それから開けた窓から入る夜風に吹かれながらコーヒーを飲む。
ある日、散歩から戻ってくると、部屋の中で不思議なことが起こっていた。
座卓の上の、フクメンの隣に蜜柑が一個、置いてあったのだ。
何だこれ――?
身に覚えのない蜜柑だ。俺は置いていない。すると誰が置いたのだろう。俺は外出の際もいちいち部屋に鍵はかけていない。泊りがけで留守にするときはかけるが。だから入ろうと思えば誰かが入ることもできる。誰が置いたのだろう?
外側から見ればそれは誰かではなく、フクメンが置いた、というように見える。少しオカルトっぽく言えば、精霊が何かのお礼で置いた、というようにも見える。bタキオンは晴れたはずだし、ネガティブな現象ではないと信じ、俺は蜜柑をいただくことにした。この間、bタキオンを外で晴らしてやったお礼かもしれない。あるいは猿田かノエルが余った蜜柑をくれたのだろう。
蜜柑はとても甘かった。
その日の夕食は、猿田から、また不思議な話を聞いた。
「牙途の山奥で聞いた話がある。そこに仙人のようなじいさんが一人で暮らしていた」
「俺たちがいるこの世界には、もう一つ別の世界が隣り合わせに存在しているという」
「その世界へは二つの方法で入ることができる。一つは外地を探索することで。もう一つは精神がその航路を外れたとき、入ることができる」
「そこは暗い森だ。道のない夜の森の中を草木を掻き分けながら進んでいく。空には月がかろうじて見える。木はまるで生きているかのように行く手をさえぎる。木には印をつけたり傷つけたりして帰り道がわかるようにしておく必要がある。しかしどんなに印をつけても、少し経つとそれは消えてしまう。まるでパンのかけらを印に落としたけれど、鳥に食べられてしまったみたいに。あとのことを考えてはいけない。何も考えずに進むしかない。全てを捨てた気持ちで進むと、遠くの木々の間にぼんやりと明かりが浮かんでいるのが見える。疲れ切った体でそこに辿り着くと、とうとう意識を失ってしまう」
「目を覚ますと、見知らぬ家の中にいる。寝台に寝かされている。周りを見回すと若い女の後ろ姿が見える。女袴に矢絣着物を着て長い髪にリボンが結ばれている。振り向いて大丈夫ですか、と言う。大丈夫だ、と言う。女が近づいてくると景色が霞む。額に冷えたタオルが乗っている。それをそばまで来て取りかえる。視界いっぱいに女の着物の矢絣模様が映ったところで、視界が暗転する」
「気がつくとそこはいつもの現実の場所だった。矢絣着物の女はどこにもいない。その街は何千年、何万年と姿を変えないで持続している街だった。そんなことは普通ではありえない。しかし、その街は間違いなくこの世界に存在している。見たものはこれまで一人もいない。もしその街を見ることができれば、そこから戻ってくることができれば、この世界をまったく別の意味を持つ風景としてみることができるだろう。同じ世界でも我々が見るのとは全く別の見え方ができる。そして夢のような懐かしさが、そこにはある。人々は見たこともない不思議な格好をしており、街は幻想的で、見るものを虜にする。一度その景色を見たものはしばらくそのチャンネルにその精神を合わせることができる。矢絣着物の娘や、街の様子を遠くから眺めることができるのだ。何度見ても、どれだけ見ていても飽きないだろう。それぐらい惹きつけるものがある。その余映を眺めるように現実の世界も今までと違って見える」
矢絣着物――?
何だろう。どこかでそれを見たような気がする。遠い昔、子どもの頃だ。しかし思い出せない。
「古都ブルネンシュティグというらしい。まるで見てきたような話だが、じいさんは見たことないという」
精神病などがもたらす内的世界の深さを病抄と呼ぶ。浅い場所に比較的広い領域を持っている健康なものは俗世での立ち回りに長けているが、病抄による奥深い領域を知らない。古都の風景はユグドラシルの人間から見れば病抄である。古都を見るのは浪漫だという。老父が若いときは何とかして古都を見ようと色々試したらしい。風景にはノスタルジックな趣がある。
「おとぎ話や古い書物に出てくる抜庭っていうのは、心に庭を持っていると描かれている。苦境を越えた先にある庭園だという。じいさんに言わせるとその庭園が古都ブルネンシュティグだそうだ」
そこから引き摺ってきた風景画「古代庭園」は古都のどこかを描いた絵のようだ。見た者は皆、その奥深い病抄に触れて見とれる。
古都は病抄を持っている、あるいはその資質のある者にのみ見えるようだ。
「じいさんは元冒険者だ。その古都とやらのために全て捧げたようだ」
全部話し切ったと言わんばかりに酒を注ぐ。
猿田の話から俺は自分が抜庭なのではないかと思い始めていた。
解散して俺は外に出た。一本道を歩いていく。振り返ると夜の宿舎が見える。
俺は抜庭かもしれない。そう思うと急に不安になった。一人ぼっちになった気がした。抜庭は英雄のような存在だ。どの書物にもそう書かれている。俺はそんな大層なものじゃない。ただの一般市民だ。できることなら降りたいと思った。目を閉じて俯いていると声がした。
「しっかりしろ。総理大臣」
すぐ前に猿田がいた。もうそこそこの付き合いになるから猿田も気付いているのだろう。
「降りろ」
唐突に言う。
「……降りろ?」
俺は聞き返した。
猿田は空を見上げた。月が見える。
「子どもの頃、駆け足で負けた。それで仲間たちも最下位になった」
月を見ながら言う。
「そのとき俺は思った。俺は駄目だな」
黙って聞いていた。
「ところが駄目な方が月が綺麗に見えた。何でだかわかるか」
わからない。俺は黙っていた。
「殺しをしていないからだ」
俺を見てそう言う。
「駆けっこが始まったときは、いつでも負ければいい」
「……」
それを聞いて涙がこみ上げてきた。そうだ、俺はそれでいいんだ。一人ぼっちでもない。
「俺は、大したことはできません」
「何もしなくていい。お前はお前だ」
そう言うと宿舎に向かって歩き始めた。俺も後に続く。
門のところにはノエルも待っていた。俺は一人ぼっちじゃない。それを教えてくれた。それだけわかれば十分だ。涙を拭いて二人の後に続いた。
何ができるかはわからない。
俺は抜庭だ。




