71、雨上がり
目が覚めると外が薄暗い。朝だろうか。空気の匂いは夕方の感じがする。確か道楽から雨の中をゆっくり歩いてきて着いたのは夜中でそこから今まで寝てしまったようだ。大分疲れていたようだ。雨はすっかり上がっている。
それから夜まで部屋で時間を過ごした。最近は携帯でラジオを聴いている。芸人が下品な言葉を並べ立てる番組をやっていた。日常のありふれたものを下品な言葉に即興で置き変えるということをやっている。俺も同じことを頭の中でやってみた。大体芸人と同じ答えになる。下品な言葉なんて限られている。ラジオから聞こえてくる言葉が異国の言葉のように聞こえる、というような訓練もやってみた。しかし難しくてできない。言語脱落という技能らしい。これができると必然的に考えるということがなくなるから物凄く爽快なんだとか。世界が今までと少し違って見えるらしい。小難しいことはやめて、ただラジオを聴いていた。
番組が終わったところでラジオを切った。部屋が静かになり、外の虫の鳴き声が聞こえてくる。窓を開けると風が入る。少し寒い。照明魔法は三十分毎に唱え直す必要があり、面倒なのでライトスタンドを買ってきた。部屋の明かりはこれだけにしている。本棚にはノートと本が収まっている。今は「約束の大地」という本を読んでいる。盆土外郎の新作だ。二人の天使が空から舞い降り、神々によって滅ぼされようとしている下界を救うという話だ。正確に言うと神々は遥か昔にこの世を去っており、その意志を継ぐ七人の賢者と対立する。主人公の天使は下界で人間たちと交流し成長してゆく。賢者のいる神界からは次々と刺客が送り込まれる。そのほとんどは同じ天使だ。最初に降り立つ精霊の住む村では精霊の少年ハルカと同じく精霊の少女コノハと出会い、共に旅に出ることになる。ハルカは神界を追われた天使だということが後に明らかになる。そして最初の刺客、力の神の血を継ぐ天使ルインも仲間にして、旅に出る。主人公は光の大天神の直系だ。ハルカは時の神の血を受け継ぐ天使だ。最初の一巻では面子が揃って旅立つところで終わる。最初に降り立った二人のうちのもう一人は雷の神の血を引く天使で降りて間もなく賢者に呼び戻されている。盆土外郎の本は読みやすいライトノベルだ。かなりの人気らしく本屋で平積みされていた。
本館の隅の方に小さな台所がある。そこには冷蔵庫もあり、中を開けると食材がたくさん入っていた。自由に使っていいと言われたが、実際は誰かが一人で使っているみたいだった。冷蔵庫の食材や調味料には名前も書いていない。入り込むのはやめた方がよさそうだった。俺は自炊をあきらめた。もう少しすれば寒くなって火鉢が使える。そこで簡単な料理をしよう。五徳と網も買ってある。俺は少し遅い夕食のため食堂へ行った。
猿田とノエルがいて俺も席に着き、カレーを頼んだ。
「お前、どこ行ってたんだ?」
猿田が言う。あのとき食堂でばたばたして走り去ったのを見て気になったのだろう。
「道楽に帰ってました。一泊だけ」
「そうか。許嫁の調子はどうなんだ」
「そんな大層なものではないですが、治りました」
「本当か、よかったじゃないか」
驚いた様子で言う。ノエルも驚いているようだ。
二人には果歩のことはある程度話している。ノエルのスキルでもしかしたら治せないかと思ったからだ。しかしノエルのスキルは主に免疫力を高めるもので病気そのものに働きかけるものではない。告死病は免疫力では治せない。
「役に立てなくて悪かったな」
ノエルが言う。
「いえ、気にしないで下さい」
結局、月光草を手に入れて治したと説明した。
カレーが運ばれてきたのでスプーンで突っつきながら食べる。
「ところで性欲ってどうしていますか?」
俺は唐突に尋ねた。
「性欲? 自主トレか?」
どうやら自慰行為のことを隠語で自主トレというようだ。
「男は前向きな状態でいる限り性欲はない。自主トレをする冒険者は二流だ。俺たちはやらない」
「そうですか」
俺もやらない。猿田たちはどうしているのか気になったが思っていた通りのようだ。
「何の話だ」
上の方から席を見下ろす芽留が現れた。遅い夕食を食べに来たようだ。
「崇高な問題について、沈思黙考の時間です」
「セクハラになってもいいならどうぞ」
俺は席を促した。
「セクハラ? 何の話だ?」
「自主トレについてです。機能の一つくらい殺したところで人は死なない」
猿田はそう答えた。
俺はほっとした。自分だけじゃなかった。連帯感のようなものを感じた。
「やっぱりそうですか。気持ちのいいことって気持ち悪いですよね」
「お前もなかなかの通ですねえ」
「男の気持ちいいは気持ち悪い」
ノエルが珍しく口を挟んだ。
「ああ、そういう話か」
芽留はカレーを頼んだ。水が運ばれてくる。
「男の気持ちいいはどうしても汚い殺人現場を連想させる」
それは少し言い過ぎだと思ったが、言いたいことはわかった。
芽留は黙って水を飲んでいる。
「酒がうまければ何もいらない」
俺も部屋でぼーっとしているだけで十分だ。最近はそれが至福の時間だ。
「男はしないのか」
芽留が言う。
「俺たちはしない。一般的にはするだろうが、ある程度の自負があれば男はしないだろう」
「どんな自負だ」
「暗い部屋の中に閉じ込められても、その暗さや深さに懐かしさを見出すような自負だ」
猿田が真面目に答える。多分源力のことを言っているのだろう。
「大変そうだな」
「慣れればそれが当たり前になる」
「結婚できないな」
「そうなんだ。女と男と欲望の渦巻く沼地から這い上がってしまった。そんな沼を見下ろしながら月明かりの下で酒を飲むのが最高なんだ。風流だろう」
「女は面倒くさいですか」
俺が尋ねた。
「面倒くさい」
猿田が答える。
「女のありがたみがわかってないからだろう」
芽留が言う。
「女様にはありがとう存じます」
猿田が投げやりに答える。
「相葉はこうなったら駄目だからな」
芽留がため息を漏らす。
「ははは、俺は女の子がいますので」
「そうか、それはよかった」
芽留がしみじみと言う。
「この二人といると私も性に無機質になっていく」
「俺たちは弱点がないと言ってほしいな」
ノエルは甘いものに弱くて、猿田は酒に弱いのだが黙っていた。
しかし性に溺れない二人は頼もしく見える。性欲を殺すのは男のロマンチシズムだ。
「下の話の途中だが、お前にこれをやろう」
そう言って猿田が差し出したのは、皮のケースに入ったアウトドアナイフだった。
「剣での乱戦は仲間まで切ってしまうがナイフならその心配も少ない。短剣技は有用なものも多い。それで短剣技を覚えるといい」
随分使い込んであるように見える。
「いいんですか?」
「ああ、俺はもう一本持っている」
そう言いながら時計に目をやった。もうすぐ閉店時間だ。
「支部長から連絡はなしか?」
猿田が尋ねる。
「特にない」
芽留が答える。
俺たちには来ないで芽留にだけ連絡がいくような仕事もたまにあるそうだ。
リーン、リーンと虫が鳴いている。求愛行動だ。猿田たちのような虫がいたらどう鳴くのだろう。
きっとはるか遠くを思いながら意味も目的も持たない風流な鳴き方をするのだろう。
半分開いた窓から入る風と虫の鳴き声を聞きながらそう思った。




