57、バイオハザード(2)
洞窟の中で三人は座っていた。街で何が起きているのだろうか。外の汚染された空気に誰もが晒されているのだろうか。だとしたら長くは持たないはずだ。直接命を脅かすような空気ではない。しかし、焦燥感と不安感をどこまでも感じさせる不快な空気だ。長く晒されていると死にたくなってくる。次から次へと自死してもおかしくない。露九戊に連絡を取ろうと思ったが圏外だった。
空箱と真逆の効果を感じる。今まで空間に蓄積された空箱が逆効果となって現れているのだろう。汚染場所は少しずつ増え、三桁になっている。白井の国内で今まで行われた空箱が記録されていて、それが逆の効果で溢れているみたいだった。
「携帯の電源は大丈夫か?」
「俺は大丈夫です」
「室内でクローゼットにでも隠れていれば防げるのだろうか」
「どうでしょうか。無理なような気がします」
「あの空気の中では心がもたないな」
「どうなるのでしょう」
「街中が死者で溢れる。今二百ヶ所を超えた。過去の空箱も全部ひっくり返って溢れているようだ」
たまたま任務で街を離れたのが幸運だったのだろうか。洞窟のこの中までは汚染された空気は入ってこない。俺たちはしばらく洞窟の中でじっとしていた。三十分から一時間くらいおきに照明魔法を新しく灯し直す。それを五回くらい行った頃、外は暗くなってきた。
「ちょっと様子を見てこよう」
そう言って猿田が立ち上がった。
俺とノエルは洞窟の奥で待っていた。
やがて猿田が戻ってきた。
「ダメだ、変わらない」
空気は腐ったままのようだ。
「空箱にこんな落とし穴があったなんて」
座って何も考えずに心を静める。空気が清浄化される。周囲も心地いい空気を味わえる。それが空箱だ。どこかに事細かに記録されていて、やがて限界を超えるとこうして溢れるのだろうか。だとしたらもう空箱は使えない。世の中にはわからないことがまだまだある。
「腹減ったな」
「俺はのどが渇きました」
するとノエルがポケットから紙包みを取り出した。ビスケットだ。
「なけなしの食料だ。助かる」
三人で分けてぽりぽりと食べた。
「街に戻りたいが、この空気では歩くこともできない」
「街の人、全員死んでしまう何てことないですよね」
俺は砂川と果歩のことが心配になった。道楽も同じなのだろうか。
「わからない。確認しようがない」
携帯の表示は相変わらずだった。汚染場所は増え続けている。
携帯に避難の文字がない。避難しようがないのだろう。それを見てさらに不安になった。
「他の国でも起きてるのでしょうか」
「その可能性はある。国外に出ればその国の電波がキャッチできる。おそらく外の国でも同じことだろう」
「人類がいなくなる」
空箱で滅びるなんて誰が予想しただろうか。人類とはある日突然こういった現象で滅んでしまうものなのかもしれない。
俺は急に怖くなった。人類で生き残りが俺たち三人だけになる。いや、まだまだ続いて俺たちもここで飢えて死ぬかもしれない。不安が押し寄せてきた。
「〜♪」
そのとき、猿田の携帯から音が流れてきた。携帯に保存してあった音楽だ。「雨の日の看板娘」。古い歌だ。
「懐かしいですね」
この歌を聴くと筧がいた頃を思い出す。不安が少し洗い流されるようだった。
続いて「ハッピーエンド」。バラードの後で明るめの音が鳴る。
猿田は目の前の壁をただ黙って見ていた。俺たちも音楽に耳を澄ます。
夜の洞窟に静かな時間が流れる。
そのまま何も言うことなく、俺たちは横になって眠った。見張りを立てる必要はなかった。
目が覚めると、洞窟の入り口の方に光が差していた。朝になった。洞窟内は涼しい。
二人も目を覚ました。
「朝だな。どれ、様子を見てこよう」
そう言って猿田が外に出たが、結果は同じだった。昨日より酷くもなければ弱くもない。空気の腐り具合は一緒だという。
携帯は微増だった。二百台後半。
「のどがからからです」
「俺もだ」
洞窟内の水たまりを物欲しそうに眺める。
「そこはダメだ。こっちだ」
そう言って水の染み出している場所に来た。
「これも完全に安全かどうかわからないが」
そう言って手で掬って飲んだ。
「水たまりよりはいい」
俺も同じように飲む。生き返ったようだった。ノエルも続いて飲む。これで渇きで死ぬことはない。腹の具合が少し心配ではあるが。
その日、携帯の警報が止まった。
三百ヶ所を超えたあたりで表示が消えた。
災いが去ったのだろうか。
確認に行くと、外は変わらない。空気は相変わらず汚染されていた。放送局がついに落ちたのだろう。猿田がそう言った。いよいよ孤立感が高まってきた。
「困ったな」
街の至る所で人々がひっそりと自害している光景が思い浮かんだ。
人類滅亡――。
俺たちはここで飢えるのを待つ。
助かってもたった三人で生きていけるだろうか。汚染の被害を受けた街で生き残りを探していく。俺は道楽に真っ先に向かい二人の安否を確認する。
色々なことを思い浮かべた。どちらにしろ大損害だ。悪魔の襲来どころではなくなった。その前に人類がいなくなってしまう。まさかこんなことが起こるなんて夢にも思わなかった。歴史とはそういうものかもしれない。過去の大災害でも人々はみんなそう言う。
「空箱の反動だとしたら、蓄積があるわけだから必ず終わりがあるはずだ」
猿田はそう言った。しかし、それがいつ来るのかはわからない。明日かもしれないし、一ヶ月後かもしれない。
「ネズミでもいれば食えたのかもしれないけどな」
火の魔法は使えるからネズミの丸焼きが食えたかもしれない。しかし、洞窟内には何もいない。
そうやって洞窟内に閉じ込められたまま三日が過ぎた。何度か外に確認に行くが空気は変わらない。
「腹、減ったな」
「はい」
猿田は髭面になっている。
逆空箱との根比べだ。洞窟は涼しいし閉塞感もなく、居心地は悪くないが食い物がない。何もやることがないのはぼーっとするのが得意な俺たちだから苦ではないが、飢えには抗えない。あの朝に食べたトーストを思い出す。それで食ったつもりになる。パンの耳でもいいから食べたい。
「三人でよかったよ」
猿田が言う。
「本当はこの仕事は俺一人でやるつもりだった。たまたま相葉が歩いてるのを見かけたからな」
あのとき、ギルドに行かなかったら死んでいたのか。
「俺一人だけ取り残されるところだった」
「おかげで俺たちも命拾いしたわけですね」
腐った空気はどんなに精神が強くても数分と持たずに死にたくなってくるはずだ。これが起きたのは昼間だから、昼のうちにほとんどが死んだだろう。夜になれば真っ暗闇の中、ひっそりと静まり返った街が思い浮かぶ。砂川と果歩も死んだかもしれない。そう考えると悔しさと絶望感に襲われるが、その前に自分が生き残れるかどうかもまだわからない。切迫した状況だが心は落ち着いていた。洞窟の中は穏やかだったからだ。
「街に戻れたらどうするか。しばらくは店の食い物で食いつなげるかもしれない。水は川縁に住めば問題ない。そこからは畑を耕して、川で魚を取って、細々と生存者を探しながら生きてくしかないな」
俺も想像してみた。ひっそりと誰もいなくなった街で生きていく。本当に三人でよかった。一人だったら心が耐えられない。人類最後の一人になるわけだ。おとぎ話のようなことが現実に起きている。三人で余生を生きていく。余裕があれば生存者を探す。まず放送局で生きている人間がいないか確認してみよう。白亜の都市広場に生存者を集めるんだ。何人かは生きているかもしれない。地下にいればきっと防げただろうから。少しだけ希望が湧いてきた。
「動物はどうなのですかね」
「ある程度は影響を受けるかもしれない。しかし、自分から死ぬことはないだろう」
動物はいる。犬や猫を思い浮かべた。いないよりは全然ましだ。
俺は小説「俺のターン」を思い出した。自分たちのターンがもしこれで終わったら、この星のどこかにいるかもしれない別の人類が俺たちの街をいつか見つけるのだろうか。
街に誰もいないのだから悪魔も襲ってはこないだろう。予言は外れたようだ。
洞窟に入って四日目の夜を迎えた。
猿田は壁に寄りかかって座っている。ノエルは仰向けになって寝ている。天井を何も言わず見つめている。俺も床に座り込んでいる。照明魔法はもう面倒なのでいちいち灯していない。ヒカリゴケの明かりだけが隅の方に薄っすらと浮かんでいる。おかげで真っ暗闇ではない。
ふと耳を澄ますと何かが聞こえてくる。少し遠くから聞こえてくる音だ。この音はもしかして――。
俺は慌てて洞窟の出口の方へ向かった。そして構わず外に飛び出す。
月明かりの下で虫の鳴き声が聞こえた。
空気が、澄んでいる――。
奥山の少し湿った心地の良い空気だった。俺は胸いっぱいに吸い込んだ。
「やったぞー!!」
声を聞いて猿田とノエルも洞窟から出てきた。
「やれやれ、終わったか」
「危なかった」
風が吹いて頬に当たる。何日か振りの外だ。気持ちがいい。
「さて、帰るとするか」
「帰りましょう」
「帰ろう」
次の問題は街がどうなっているかだ。生存者がいることを願う。
そのとき、足元に何かが転がっているのに気づいた。
鳥だ――。
どうやら死んでいるようだ。
「モズだな。それにしては大きい。魔物かもしれない」
カラスくらいの大きさだった。
「腐った空気でやられたのかもな」
俺は木の棒で穴を掘るとモズを埋めてやった。
「さあ、帰ろう」
こうして俺たちは洞窟を後にした。




