56、バイオハザード(1)
朝、目が覚めると窓の外は清々しい秋晴れだった。水場で顔を洗った後、制服に着替えた。俺は部屋の中で正面を見据え、透き通る意識を再現させた。問題なく入ることができた。ことにあたる前に、こうして透き通る意識と源力の確認を行うようになった。朝食を取りに食堂に行くと二人がもう席についていた。二人共、制服姿だった。
「二日掛かりになるかもしれないからな」
俺はトーストを注文した。これを食ったら当分食えない。昨日のように窓が半分開けられていたが風はなかった。
三人で宿舎を出て東へ向かう。馴染みのある風景が広がる。商店街を歩いているとあの食堂、鈴屋の奥さんがまた手を振ってくれた。開店前の準備をしているのだろう。俺は手を振り返した。
秋の朝の商店街の風景は凛とした空気で満ちていた。
俺は久しぶりに猿田のうんちくが聞きたくて質問した。
「学校で教わる数学や化学の実験って大人になって役に立つと思いますか?」
猿田は俺の先を歩きながら少しだけ振り向いて、こう答えた。
「直接は役に立たない。学業は子どもに負荷に立ち向かわせるというための一つの手段だ。運動もそうだ。植物も動物も人間も競争だからな。強い奴が生き残る。早めに自分の強みを見つけて伸ばすのもいいし、負荷に抗っていれば強くもなれる。負ければ養分になるだけだ。悲しいけど仕方ない。しかし人間だけは弱いものを助けるということができる。遅れを取った者に対して生かすか殺すかの選択肢が生まれる。何年か前に牙都で仕事で潜伏中に向こうの冒険者集団に捕まったことがある。IDカードを奪われてこう言われた。露九戊の部下なら助ける、と。露九戊の兄の飛鳥馬が北にコネクションを持っていたからだ。あのときほど温情を感じたことはなかった。長くなったが強くなるために訓練あるのみだな。数学や実験もそのための基礎づくりだ」
「なるほど、いじめはどう思いますか」
「いじめは辛いな。負荷としては酷すぎる。憂鬱で何も手につかなくなってしまう。あれは集団で行う陰湿な殺しだ。たった一人で抱えきれる問題ではない。心のないやつが死んでもいいという気持ちで行うのだから。しかし、もし耐えれば凄いことだ。周囲からの負荷をたった一人の力で耐え抜いて消却するのだから。中には死にかけるものもいるだろう。源力持ちも実は多くいるかもしれない。それぐらいの大仕事だ」
「考えてみるといじめも人間しかやりませんね」
「そうだな。いじめをなくすためにも俺は人間は恥をかくことが大事だと思っている。恥をかいたやつは大体いじめはしない。成功体験ばかりではろくな人間にならないからな。失敗も必要だ。失敗の方が案外、他人にはより親密に映るものだ。そういうのがない人間なんて魅力はないよ」
「いじめと精神病がなくなれば少しは人は幸せになれますかね」
「俺はなってほしいと思うよ。いじめと精神病がなくなる代わりにゲームやサッカーボールや映画や本もなくなるといわれても構わない。味も匂いもない真っ白な世界でも俺は構わない。何もない世界でみんなでぼんやり景色でも眺めてればいいんだ」
猿田は見かけによらず保守的な人間だ。宿舎での冒険者同士の争いも、一般の冒険者が間取りの広い離れに部屋を移そうとしたから、それを止めるために喧嘩になったらしい。
そんな話をしながら境界の近くまでやってきた。辺りには誰もいない。警備員もいなければ、門番もいない。この先に好きこのんで行こうという人間は誰もいない。街の人間は皆それを知っている。子どもでさえ何も知らずにこの先に行くことはない。
見えない壁があるみたいだ。集団思念が作り上げた壁だ。橋の内と外では空気感が違う。この壁が門番の代わりをしている。
壁を潜り抜けて橋を渡った。俺はこの先を知っているから怖くない。不思議な解放感がある。
猿田は磁石を持って歩いた。俺たちはその後に続く。
「ここから四、五時間かかる。覚悟はいいか」
俺とノエルは頷いた。
北東方面へ向かって歩いていく。そこから、ただひたすら歩いていった。
何もない平原だった。一時間くらい歩いた頃、遥か先に薄っすらと山の稜線が見えてきた。どうやら目的の山のようだ。ひたすら歩いた。
どのぐらい歩いたかがわかりづらい。後ろを振り返るともう街は見えなかった。
三時間くらい歩いた頃、東の果てに何と街が見えた。白井国遠葉市。海沿いの街だ。ここでとれた魚は葉物といわれて高級食材になる。潮の香りが微かに漂ってくる。生まれて初めての潮の香りだ。これが海の匂いだ。
「あの向こうに海があるのですか?」
「そうだ。観光だったら寄ったんだけどな。また今度な」
港町を遥か遠くに見渡しながら北へと進んだ。山がだんだん大きくはっきりと見えてきた。
やがて目的地の山に着くころには港町も霞んで見えるだけになった。
草木を分け入って山に入っていく。ほんの僅かにだが道ができていた。そのまましばらく進むと洞窟にたどり着いた。携帯は圏外。猿田が洞窟の入り口に立って、奥に向かって灰論を放った。
「どうですか?」
「いるな。おそらく魔物だ」
オレンジの光が見えるようだ。
「中に入ろう」
照明魔法をつけて中に入るとそこは天井も高く、開けており、山と山の隙間という感じだった。入り口だけが狭い。端の方に水たまりもある。見た感じでは澄んでいて底も見える。生き物の姿は見えない。
奥の方に行くと地面と壁に薄っすらと光を放っている場所があった。ヒカリゴケだ。奥行きは四十メートルほどで、天井は高く、これ以上奥には行けない。俺たちは地面に座った。少し濡れている。水が湧き出ているところもある。音も反響して聞こえる。
光が漏れているところでもない限りは洞窟タイプのお宝は、今のところ全てヒカリゴケしかない。そこそこに明るい光をたたえている。洞窟の中は涼しい。
「魔物の気配はないな」
「何の気配もないですね」
「だがいるのは間違いない」
そのとき、突然携帯が鳴った。警報だ――。
『緊急速報。大気汚染警報発令。場所、白井国五十七か所より、大気汚染を確認』
「何だ? 一体」
三人の携帯が同時に警報を告げている。圏外だったはずだ。警報だけは届くのだろうか。
猿田が外に向かって歩いていった。俺とノエルも続く。
そうして外へ出ると、それが起きていた。
ゾワ
「ぐ、何だ、これ」
空気が驚くほど不快だった。俺たちはすぐさま洞窟へ戻った。
「はあ、はあ、何だ、今の」
凄まじいネガティブな空気だ。蒸し暑い夏の湿気のようにべったりと張り付いてくる。悪寒が凄い。空気が死んでいる。携帯を確認する。
『緊急速報。大気汚染警報発令中。場所、白井国六十二か所より、大気汚染を確認。空箱を直ちに解除してください。空箱により、大気汚染発生中』
「空箱? どういうことだ?」
「空箱の反動で大気が汚染されたってことでしょうか」
「そうかもしれない」
『緊急速報。大気汚染警報発令中。白井国七十四か所より――』
「どんどん増えている」
「洞窟の中は大丈夫みたいだ。しばらくここにいるしかないな」
俺たち三人は洞窟の中で事態が収まるのを待つことにした。




